第五回
(第五回)
ところが念願の芸大へ入学してからアメリカのモダンアートの波が押し寄せてきた。大衆的で均整の取れた構図が異様に創造の粋を暗示し迫力とその非凡な美の哲学が込められた様式には唖然とするばかりだった。固執したこれまでの流儀に異質なものが侵入し始める契機となったことは否めない。同時に緩やかに芸術家としての進むべき焦点の野望が歪曲し攸爾の日常に焦りと狼狽が滲み始めた。
「ニューヨークへ行けばいいじゃないか。その気になればいくらでも勉強する材料は転がっているだろ」
既にパリ留学が決定している一文字の言葉が麻痺した五感の節々で呟き虚ろに半開きする瞼の奥にこのあと風月堂を追い出された自分はそのうち野垂れ死するのではないかという軽少な不安が頭をもたげてくる。
空腹を妄想で満たし支配される規律に対してもとっくに拒否宣言をし漫然と無気力さのなかにただ耽ることによってその実存を唯一の快楽として放浪しつづける自分はいったい何処へ辿り着こうとしているのか。
ただ確実なのはあと修士課程も二ヶ月余りで終了し仲間は皆パリへ留学することだけだ。自分だけが未解決のまま前途の路を閉ざし舵取りを失って漂うように未だに大海への入江に蹲って同じ航海を貪っているのだ。解決を急ぐ素振りすら見せず潮の流れだけが己の今の行き先といえた。解決することだけが人生なら攸爾にとってこの風月堂で過ごす時間など半日と持たない。
憧れの基盤に亀裂が生じた以上何かの到来を待つしかなかった。一文字に言わせればそれもよかろうとなるわけだが冷静に考えればそれ自体が軽蔑なのか慈愛なのかすら区別できなくなる。無気力に浪費する観念を嘲笑するなら彼は決して堕落論を肯定しないであろう。他人事のように楽観視する側の解釈を選び取ることにより攸爾は再び入江の真只なかに在って同じ軌跡を描きつづけるのである。そこには次第に野垂れ死の不安は消滅し益々その言い訳としての堕落の放蕩が繰り広げられていく。辿り着く処が見えてくるまでそれは浪費すればよかった。見えるものに支配されず今はただ亀裂した基盤の回復を待てばよかった。