第三回
(第三回)
これが原点なのだ。攸爾には分かっていた。この見覚えのある静けさが生命の源泉であり己の本心となるべき処なのだ。やがて自分の還るべき処なのだ。八年前上京し、二年間の浪人生活の後やっと念願の芸大に合格した頃の己の野心が矢継ぎ早に脳裏を駆け巡る。当時は印象派の画家を志すことが崩れない神秘だったかもしれない。ところがどうだ。この六年間で人の趣向や街の外観が一変するようにそこに住む若者の刺激観が根底から覆されるとウォーホールに代表されるモダンアートの波に己自身が溺れかけているのだ。決めていた概念の礎が揺らぎ始めたということは攸爾にとっては絶望でしかなかった。このとき融通の利かない頑固さが当初の野望にぼんやりとした不安を覚えて海外留学を断念したといえる。過去が鮮明に陳述されそのこと自体が無意識に還る処そのものを言い当てていた。地下室でビニール袋の気体を吸いつづける有様の裏側でその場所の輪郭が煌き失望と退廃した分だけ妙に優しさを潤してくるのだ。
そこは木立の下に敷き詰められた緑があった。何時見ても攸爾の眼には色彩鮮やかな緑そのものであり秋の紅葉や冬枯れの景色は思い出せない。境内に読経が流れても蝉時雨が覆っていてもその緑は無言だが表情だけは常に保っていた。引き締まった静寂が全てを支配し緑は常にその荘厳さのなかで自然を誇示しているかのように見えた。万霊の力に人間は到底及ばない。それは創られた色でもなければ滅することの出来ない無限の鎮静でもあったのだ。
得度を終えたばかりの自分がその庭の前に立ってじっと境内の日溜まりを眺めている。僧侶としての自覚の光陰か庭に響き渡る小鳥の囀りが幼い心に端麗に躍動しつづける。
「これでご本尊さんも安泰でんなあ。ええ後継ぎが出来なはって」
「まあ形だけはやっておかんと…あとは本人次第で」
「これで先祖に顔が立つようなもんでして、ワッハッハ…」
「攸ちゃんもええお坊さんになりはるわ」
本堂の片隅で両親と親戚連中が談笑している声が聞こえ庭ののどかさは甘美に拡がる。
緑があったはずなのにそこに写る記憶は日溜まりを見つめる自分と耳に残る小鳥の囀りや談笑する人間の声だけである。
これが見覚えのある静寂か。己の本心を探る古巣なのか。ピアノ音が呼び覚ます一瞬に垣間見る恐竜の化石の幻想は実はあの日溜まりを見つめる躍動感や小鳥の囀り、人間の談笑を導きそこが自分のやがて還るべき古巣を意味していたのだろうか。攸爾の網膜に突如として翳みがかった本能が息づく。
違う。あれは自分の求める聖地ではない。聖地に蔓延る静寂とは日溜まりでも小鳥の囀りでも人間の談笑でもない。きっと見たはずの無い記憶が妄想となって支配しているのだ。還る処とはきっとそんな空間で具象的な言い訳を必要としない。
いずれそのときが来る。時間はまだある…。