第二回
(第二回)
攸爾の身体の霊心に絵画の世界が宿ったのは何時の頃だったか彼は覚えていない。芸大大学院の絵画を専攻していて少なくとも二十数年間生きている現在、それは最近の出来事とは思われない。多分幼い時点から既に棲み着いたものに違いなかったが僧侶の環境に育った彼にとって他から見れば不具合な組み合わせに相違なかった。この入り浸りになったジャズ喫茶「ファースト」の経営者珠美が最初に言った言葉が「貴方の背中にはお坊さんが憑いてる」だった。線香の匂いを身に附けた覚えはない。珠美の直感は攸爾との距離を電撃的に萎縮させた。それというのも攸爾自身その頃は絶望型の修士生だったせいもあった。漂う脱力感に明け暮れ卒業後の海外留学への夢も自ら潰してしまっていて目標自失のていたらくに浸っていた。流行の不確実性なるものへの虜となってしまっていたのだ。珠美のこの言葉に出逢ったときふいに惹かれて己の砦はここしか無いと思った。彷徨いつづける己の堕落の途はこの地下室だ。毎晩夜明けまで破裂し時にはけだるく唸る旋律音そのものに浸っていると醒めた野獣の精液と悶えうつ女陰の温もりをその音の妙味のなかに感じとり常にその反発を語る己の渦を聞いた。他に活力のない放浪生活が掴みようのない心の闇を誘うのに充分な時間と思えた。抱いた目標に対し磨き上げる勇気と見据えた安定の獲得とはこの際無関係だった。最初からこんな挫折を予兆していたに違いない。画家を志した根拠が説明出来ないように墜落する己の本心も実のところ全く闇のなかに澱む別次元の空間にその姿を隠すのだ。この砦はそんな本心を味わいその姿を探し出そうと無意味に浪費する時間のねぐらとしては格好の場所だった。
しかし、攸爾の葛藤は不思議なことにこの地下室に霰のようなピアノの音が冴え渡るとそこで決まって反芻する己の語りの渦を鎮めた。ビニール袋に溜まっていた気体が切れたわけではない。頭上に飛翔する花火のような有色の鮮烈のせいでもない。それは瞬時訪れる嵐のなかの無風な情景を醸しだしていた。
珠美が数々の水晶玉を並べて光線の角度を凝視する様や餌をやらなかったエンゼルフィッシュが新兵器のソフトで体長を回復した話の類ではない。まるで闇に隠れていた恐竜の化石が顔を覗かせるような瞬間なのである。決まってやってくるこのとき攸爾は見逃すまいと息を呑む。霰のような音が次第に大海原に漂う一葉の小舟の姿を捉えると攸爾の体腔の一部にやがて緩やかな呼吸が始動し始めるのである。それは長い眠りから醒めたように落ち着き払いあたかも恐竜の化石が己の尾骨に繋がっているような生命の根源を感じる。吐息の音が古代に通じその己の古代がまるで蘇ってくるかのようである。異様な懐かしさだけが依然とピアノ音のなかに溶け込み見覚えのある静寂感が徐々に浮かび上がってくる。