第十七回・最終回
(第十七回)・最終回
夕闇の光の隙間から滅びない無限の気流の生地がはためく。それは何処かで虜になった模様がその生地に織り込まれているせいなのだろうか。時折光る閃光が妙に攸爾の今朝方居座った戦闘服の概念のなかでその影を映すのである。
夜になって俄かに光り始めた稲妻が会堂の床を照らした。光は走るが求めるその生地は依然として判明しない。仏門の世界に生地など無いのかも知れない。しかし攸爾の胸に密かに着けたい戦闘服の決意がその気流に混じるのである。
戦闘服を身に着けてまで闘うというのか。珠美の姿が気流に混じる。自分の存在を確かめるために着けるというのか。記憶にある珠美の気流と自分の気流が同質の渦を巻く。行の身にあってもこの人間の心の宿命は隠せない。しかし攸爾にとってはそれは何処かで虜になったはずの模様が自分の存在を確かめる唯一の慰めであったに違いなかった。それが何の目的であれ身に纏いたい戦闘服なのである。
雷が轟き滅びないものが気流の流れを変えて迫っていた。蒼い稲妻が突然あの青い画面の気流を運んでいた。次第にそれは攸爾の全身を震撼させ開眼して光景は一致した。疑似体験で得た燭光が今なお生きつづけていたのである。無数の魚群に混じって泳ぐ誕生したばかりの鮮明な尾びれが稲妻のなかに幽玄と蘇っていた。
凍るような一月に都会の空を轟かせた雷の夜、疑似体験の世界で生まれた新しい生命。戦闘服の模様は実はこの生地を求めていたのだ。やがて滅びる巨大な模倣物のなかにあって自分自身の魂に触れた稀有な幻はやはりこれしかない。攸爾は会堂に光る稲妻の気流を何度も見つづけた。
闘うものは滅びるものであってもいい、攻め落とすことの魅惑こそついてまわる煩悩ではないか。ただ忘れずにこの生地を身に着けておくのだ。
釈明する理由が他にあろうか。己の土壌に何を培ったか。どんな芽が吹きどんな色をしていたのか。いくら説明しようと恐らく分かってもらえないだろう。外観では袈裟の衣を着ていても実は自分がこのような邪推に酔い痴れていることなど誰も見破られない。
珠美と一緒になる決意は固まった。この「化行」が終れば上京するのだ。
境内に降る激しい雷雨の音が跳ねる。激しい騒音でありながら澄み切った音色である。永遠に分からない微音であり畏れを抱かせる轟音でもある。見つめていた一点から眼を離すと攸爾は瞑想した。胆は据わり隠された秘をそのままに仕舞い置く準備をした。朝、行したと同じように静かに幕を下ろすのである。
雨音の隙間から脳裏に聞こえてくる笑い声が響く。
「あなたの背中にお坊さんの影が憑いている」。その声の主の珠美の不可解さ虚栄さ脆弱さに永遠に揺るがすことのない生地の色を映すことが出来る。
閉ざされた扉が雨を縫って光る蒼い稲妻で打ち砕かれ今夜の会堂には一点の曇りもなさそうである。
やがて攸爾の読経は始まった。
庭の生き物も眠り境内に在るのは依然と降り注ぐ雨だけとなった。
そして雨の音は十四階の密室で孵化した水泡の輝きに似ていた。