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魔性の砦  作者: あおい・ろく
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第十五回

(第十五回)


深夜。会堂に一点の曇りが舞い落ちている。何も足さないはずの読経の呟きがその一点の舞に心を奪われていた。

故郷の京都に戻り実家の本堂に触れると早速限られた眠りの時間以外は四六時中己の肉慾の謹慎と無我の(しるし)を捧げる生活に入っていた。それは先ず夜更けに始まり境内の(きよ)めの作務(さむ)から肉体を酷使しなければならなかった。掃除のすべてが終了すると今度は音も立てずに行う(じき)、朝夕の礼拝、座禅の繰り返しが日課となった。雑念は一切排除し三月(みつき)前の東京での八年間はあっという間に重く閉ざされ振り向いてはいけない扉と化して攸爾の遠い脳裏の隅に葬むられていた。

 一点のその舞には核があり無数の細胞がそれを形成している。自分の唱える経文の文言にその眼に見えない核はときどき踊り始め跳び跳ねるようにして舞うのである。三ヶ月目に現われた己の邪心か。心なしか一瞬忍び寄った行の迷いを思わせる曇りの翳に攸爾の動揺の色は隠せない。

 寝静まった会堂の向こうは苔むす庭になっていて舞は最初その方向から忍び込んだに違いなかった。読経に励む無心がその舞に少しずつ気を取られていることに気付くと会堂の床の硬さを感じやがて行の性根が緩んでいった。心の隙に出来た俗悪な乱心と最初は受け取っていたが次第にそれが行を否定するものでもなければ阻止するものでもないことが分かった。それはむしろ求心する気の流れに乗じて盛んに讃美し跳ぶように舞っていたのである。

 不意に攸爾の心が傾き始めた。深夜の会堂に響く音は他に何ひとつ無い。突然迫り来る或る庭の光景が自分の唱える読経の背景に重なり始めるのである。それは女の居る青山のマンションの庭だった。そして舞っていたのは閉じられたはずの東京での己の軌跡だったである。

行の足りなさに胆の軟弱を読み取りその嘆息に溺れそうになりながらしばらくそのまま声を惑わせて座っていた。次第に閉ざされたものが姿を現わし暗示しょうとする哲理の兆しが攸爾の黙想のなかで走った。

 尚も読経をつづけるとその光景の裏側で諭されているものが炙りだされてくる。十四階のあの庭と自分が今修行を積んでいる眼の前の庭との間に似て似つかぬものがある。造られたものと滅びないものの教理を諭すというのか。しかし裸身の眼に写ったあのときの清閑さの驚異には本質的に求められる貴重な衝撃ではなかったのか。胆の軟弱さの仮想は一転してその聖なる亀裂の始まりが益々己の読経の世界に展開してその舞って澱むものを探索し始めるのである。

 改心の修行が懐古の罠に陥っていると攸爾は狼狽した。今在るのはただ前へ進むだけであるはずがこれはどうしたことか。一点の曇りに惑わされ閉じていた過去の扉が開かれようとしている。懐古の乱心は還俗に帰す。この庭から忍び寄ってくる魔性は何を意味するというのか。単なる清閑な暗闇に紛れて己の行の性根を試そうというのか。読経の文言に舞って跳ねる核の存在は象徴的な生命の概念に違いなかったが自分が何故かその体験を宿しているような錯誤に陥ってしまうのだ。その微風はいつしか会堂の外からしきりに歩み寄って来る。攸爾は突然読経を止め庭に面した会堂の戸を開けてその縁に立った。暗闇が一気に全身を襲い夜更けの静寂が読経の余韻を内に閉じ込めて重くのしかかってきた。

そこは庭石の連なりが微かに視界に現われるだけである。そして暗闇に眠る緑の鼓動と時折そよぐ風の音があるのみである。この庭と諭されようとしている概念との間に果たして何があるというのだろうか。行を制止させた無数の舞い跳ぶ核が何故懐古に連なるのか。耳に残る読経の流れがひとつずつ解きほぐされて庭のなかに吸い込まれていく。滅びるものと滅びないものの教理が再びその文言で跳ね眼に見えるものは滅び心に宿ったものは滅びないという具象化された核の存在をやがて悟ると攸爾はそこに立ち尽くして呆然となった。


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