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魔性の砦  作者: あおい・ろく
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第十四回

(第十四回)


空気が別物の味わいと匂いを運んでいる。灰色で覆われた細胞の隅々がそれらに促されて浄化し始めた。巨大な創造物の群れのなかから逃れ少しずつ獣化した味覚や臭覚の錆びが剥ぎ取られていく。その空気には争いも無く失望も無く自分自身が加えようとしている色彩の構図も無かった。ただこれまで鎧のように被っている五感の錆びの重さを少しずつ解放させてくれていた。

一文字の下宿は東武東上線の志木にあって周辺は武蔵野の田園風景が拡がりのどかで()えた自然の薫りで覆われていた。先を歩く一文字の姿にも重荷を下ろした旅人のような爽快さが映えて攸爾の眼に写る。朝露を滲ませた落ち葉を踏み刻んで進むと今まで気付かずにいた土の匂いが蘇ってくる。

「この先の角を曲がって参道に入っていくとすぐ平林寺だ」

 一文字は振り返って説明した。

「どうだ。南千住と空気が違うだろう」

 歩調を進めながら彼の穏やかな音声がこだまする。周りの木々の閑静と吹き出し始めた道端の花の蕾に触れるとそれは明らかに自分の住んでいる場所の匂いとは雲泥の差があった。

「学校は決まったのか?」

「おう、向うの学校の手続きは済んだ。.あとは住む所だけだ。まあそれは行ってから何とかなるだろう」

「出発はいつ?」

「来月の予定だ」

 一文字はパリ留学の計画を淡々と答えた。

参道は緩やかな上り坂で細くつづき湿った土の剥き出しの薫りがした。その匂いを嗅ぎながら何の計画もない自分が今ここに在ることに気付くのである。

しかし寡黙な自然の薫りはそれを焦燥と教えずに逆にその奔放を()でていた。次第に鎧の上着は剥ぎ取られ臭覚の錆びも洗い流されていく気分である。まるで脳裏のなかで本心全体が在るべき何処かに戻っていくような微睡(まどろみ)がその予兆を現わし始めていた。

茅葺の総門となっている山門をくぐり寺の境内に着くと二人は改めて周りを見渡しながら深呼吸した。

「どうだ。たまにはいいもんだろう」

 一文字の声が響き渡る。

「いいねえ。落ち着くねえ」

 攸爾はその境内に立って平林寺全体の造りを眺めた。境内には二人の他に人影は無く周りの山麓に包まれて夜更けのような静けさが立ち込めていた。

「いつ頃建てられた寺なんだ?」

「徳川時代だ。臨済宗の寺みたいだ」

 暫く安息の溜息に浸っている二人の耳に微妙で断続的な物音が響く。よく見ると本堂の傍に大きなクヌギの木がありその横で庭を掃いている僧侶の姿があった。

 音は何の飾り気も無く焦りもせず強弱の区別も与えないでただ単調に地面を這っていた。攸爾はぼんやりとその眺めに眼をやっていた。着ていた鎧のぎこちない形状や適当でない重さの不具合が解かれていくような気がした。耳に入る音につれて蘇ってくる本心が元の自分の体型の輪郭を思い起こそうとしていた。

「俺はここで休んでいるからその辺を回ってきたらどうだ」

 一文字は境内の隅にある小さな休憩所のような場所を指差して言った。攸爾は促されるままひとりで仏殿、本堂、書院の立ち並ぶ方向へと向った。

 襲ってくるものに強制や圧力は無い。脳裏を駆け巡って来るものに果たせなかった悔恨も無い。己の本心はこれらと対面しながら徐々に(もつ)れた部分を(ほぐ)すのだ。仏像を暗闇で仰ぐとそれはただどっしりと荘厳で無表情の外観に慈悲を秘め射す威光の焦点はその狭間を肉眼と無限の世界とに分けていた。

攸爾は自分の着けていた鎧の形を思い出していた。(さら)け出すことがためらわれて思わず絶句するのだ。深い自責の念に駆られながら噴き上げてくる己の愚かさを少しずつ見て取った。

 葛藤から離れて暫く外を歩きやがて境内の裏側の庭に出ていた。奥まった背景には深い山麓が控えている。依然として鎧のことを考えていた。そしてもつれた部分の前後を裁断しようと決意していた。        

眺める先に平凡な石の影が点在し辺りは水を打ったような清閑が拡がり敷き詰められた緑が鮮やかに眼に写っていた。まるであの女の持つ謎のような存在を見る思いだ。黒水晶が語った永久に正体の分からないものがその石と緑に映える。山麓に野鳥の声が響き微睡(まどろみ)は醒めた部分で次第に固められていく裸身の自分とその前後裁断のてだてを模索し始めていた。それは眼の前に息づく石や緑や空気の音と同調して魂を癒す呼吸に似ていた。

二人でもと来た参道を下りながら再び剥き出しの湿った土の匂いを嗅いだ。

「どうだ少しは心が洗われたか」

「うむ。まあ」                         

「ところでこれから先もまだ人生堕落論でいくのか」

「いや、化行(けぎょう)の世界だ」

「化行?」

「そう。修行だ」

道端の蕾がさらさらと風に揺れた。


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