第十三回
(第十三回)
炉の傍に置かれた黒水晶の光沢が茶室の静謐を包み壁に刳り貫かれた小さな障子窓にその陽炎を反射させて不気味な存在を一層引き立たせていた。その光は重く沈黙し華麗な建築空間を所有するこの主の表面に見えない裏側をまるで照らすかのように漂った。
果たせるかなその予感は的中しやがて俄かに語られる次の独白はその静けさを破った。
「不安なのよ結局…人間の心ってやっぱり最終的には分からないところがあるのよね」
声は突然仮面を外した生身の肉声に変化していた。今までの女の持つ波長が急に変貌して長い溜息が攸爾の耳に届いた。外観に隠れて潜んでいたものが徐々にその六角柱の射す透視光によって暴かれるようにして洩れたのである。
「人間って弱いものよ…見つけるものは手に入れても心に宿るものは見つからない…あるのはいつまでも不安だけが残っているわ」
攸爾は聞きながら別のことを思い出していた。それは女の意味する不安とは別次元の世界で自分自身を支えている幻の確かさを覚えるのだ。それは青い画面に無数に回遊する熱帯魚の群れであり自失したはずの己の土壌に澄んだ清涼水が染み渡る光景だった。あの誕生したばかりの新しい生命の尾びれが鮮烈な曲線を描いて閉じている胸のなかで密かに拡がるのだ。
「誰だって不安さ。確かに人間って弱いものさ。不安だらけだ。追えば追うほど分からなくなる…しかし大切なものさえしっかりと掴んで生きていればいいんじゃないの」
攸爾は呟くように言い放っていた。
暫くあって溜息はくすっと流れ出す嘲笑の音声に変わった。それは始めは炉縁の四隅にこだましやがて鉄の炉釜を跳ねて三畳の天井に響き渡り部屋中の静謐を貫いた。女は笑い転げていた。
堰を切ったように緊張した心情が破壊され珠美の笑い声は止まるところを知らなかった。攸爾の秘めた青い画面に揺れる気泡の粒が虚々しくその冷笑を浴び見つめる茶碗の底に溜まった緑の粉末が枯渇と化して見えた。
攸爾は珠美の眼を見ていた。笑いこけたその眼に涙が光っている。年齢不詳のこの女の持つ激変に更に得体の知れない性の怪誕を見る思いだ。不安な魂に脅えながら他人が放った言葉を笑いで一蹴させたその一瞬の気概の正体とは何なのか。反って己自身の他愛な紋切り型の説得が可笑しかったのだろうか。未熟な言葉の居住まいが彼女にとって滑稽に見えたというのか。しかし攸爾にとってみればあの熱帯魚を孵化させたときと同じようにその個別的に貴重なものの手応えを伝達したかっただけである。表現しきれない是も無く非もなく居座った躍動感こそがその原点だった。攸爾にとってはこの出来事は稀に見る無我の体験であり滅びることのない永遠の悦楽だったのだ。興じられる魂無くして人生何の意味があろうか。しかも他愛のないものであればあるほどそれは貴重な体験だったのだ。
笑いが収まったあと珠美にこのことを全部告白しょうと思っていた。しかし涙が出るほど笑った珠美はいつか見せた能面のような表情に戻ってその黒光りを凝視し始めた。
「見えるわ…察した通り見えるわ。貴方の姿よ。ふふっ」
能面の表情には取り乱した痴態を償うかのような慈しみが溢れて穏やかに微笑するのである。
「袈裟を着ている貴方の姿よ。よく似合うわ。やっぱり貴方には住職の趣きが感じられるってこと。ぴったりだわ」
薄笑いが漂い六角柱を眺める眼は険しく息づいてまるでその姿は薄暗い歌舞伎町の裏通りで手相を見る易者を思わせた。
「なるほど。坊主の姿が映っていますか、ははは」
無感を装って受け流すと攸爾も苦笑をこもらせながら尋ねなければならなかった。
「さすが貴女の直感は鋭いよ。確かに当たってるよ。俺の実家は寺だ。見事なもんだ。それよりも…」
攸爾は躊躇した。今度こそ問い詰めてその占いの根拠を追及したい衝動に駆られたがもはや家系を透視された偶然を問いただすよりもっと重大な逆襲があった。富豪のなかにあって孤独に生きる彼女の裏に必ず隠された過去がある。他人に知られたくない理由ありの秘密を持ちながら何故他人ばかりを透視するのだろう。異常とも思える行動やその生活ぶりはとりもなおさず自分自身を透視できずに彷徨っている彼女自身の欺瞞の姿ではないのだろうか。
「不思議に思うんだけどそれほど透視出来るのに何故貴女自身が分からないの?何故その不安が取り除けないの?」
声にならない声が張り詰めた。
「そうねえ…」
長い沈黙があった。
「私自身の正体が映らないのよ」
「正体?正体って貴女自身の心でしょう」
「自分自身の心が分からないのよ」
「……」
「自分自身が何のために存在しているのかが分からないのよねえ…」
蒼白に満ちた切実な暗黙が部屋のなかを覆った。茶室の支配者が初めて見せる境地に違いなかった。珠美の表情にその欺瞞を翻すことのできない独白の溜息が震えやがて攸爾に潜んでいた逆襲の企ては一瞬その方向を失って分解した。