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魔性の砦  作者: あおい・ろく
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第十一回

(第十一回)


居酒屋のある道玄坂にかけて渋谷界隈も辺り一面が真っ白な銀世界と化した。南千住の下宿を出るとき散らつく程度だった小雪が途中地下鉄を乗り継いで渋谷に着いてみると本格的に吹雪いていた。攸爾は久しぶりに一文字と会うため道玄坂の馴染みの居酒屋へ向っていた。

攸爾の胸に是も無く非も無く腰を据えた躍動感が宿っていた。神秘のような結晶が絶望や頽廃の形を修正し吐く息の白い妖精が燭光を模ったようにぼんやりと灯っていた。自分の道を照らすのではない。それはただ幽玄に立ち昇る狼煙であり水面下に示す道標でもあった。一文字がパリへ出かけるなら自分は獲得したこの結晶をしばらく眺めるつもりでいた。

「そもそも原風景ってのがあって、それはいつまで経っても描き切れない。今ここでそれを描こうと思ってもどこかで少し違和感が生じてしまう。近づこうとすれば全然違った風景画が出来上がるようなもんだ」

開口一番、一文字の台詞はいきなり攸爾の心を揺るがせた。

一文字はパリ行きの動機を比喩的に述べようとしているのだがその言葉に意表を衝かれた思いがした。この瞬間店に着くまで持ちつづけていた不動の影が実は偽物だと暴かれるような気がしたのだ。

上気した店の喧騒が降りしきる外の冷気を無視し暫く二人の間で旋回しつづけるなか二人は焼酎を浴びるほど飲んだ。やがて二人の熱気は居酒屋の隅々に充満し酒精の鋭気は益々牙を磨き始めた。

「つまりお前がミレーに憧れたのもミレーの絵にお前の原風景が重なって見えたからだと思うんだ。琴線なのさ。原風景は所詮押しなべて語るを得ずだ」

一文字も相当酔っ払っていた。原風景を乱発し挙句の果ては攸爾のいつか口にした堕落論をいつの間にか他方で讃美しているかに見えた。

「馬鹿言え。絵を描くのに原風景なんて要るかよ」

「お、それそれ。お前の言うとおりだ。そうでなくちゃ破滅型は務まらない」

「心理学用語で絵が描けるか」

「そうだ。さすが堕落論者、いいとこを付く」

「まあ、その原風景とやらを描けるようになるまでみっちり修業してくるんだな」

「おお、そのつもりさ」

一文字は眼を剥いたり細めたり大声を張り上げながらテーブルを叩いた。この男の描けない原風景が酒精のなかに拡がっていく。

何かを暴かれたような揺り動かされた衝撃とは何だったのか。攸爾は再び一文字の使った原風景という暗示を噛み砕こうとしていた。熱く火照った酔いが何故かその正体を掴めそうで何も見えずただ僅かな結晶の感触の概念がその出入りを繰り返すのみである。  

周囲に立ち込める喧騒のなかの酒精が益々拡がってきてその正体を追えば追うほど次第に形すら消えていく。一文字の奇声も遂に耳に入らず攸爾はただ虚ろに焼酎を飲みつづけた。

今の自分に描けることといえばあの幻のような狼煙しかない。道標を果たすようなその結晶の概念でしかない。雷の轟く十四階のマンションの一室で鮮明に対面した無我の隆起しかないのではないか。

「ところでどうなんだ、相変わらず地下室に潜っているのか」

一文字は急に話題を変えた。ジャズ喫茶「ファースト」のことを指していた。

「経営者で年齢不詳の謎女はどうした。元気にやっているのか」

「うむ、まあ。この間一週間ほど旅に出てたよ」

「そうかそうか。うまくやっているんだな」

 一文字はこっくりと頷きながら何度もふらついた頭を元に戻した。そして据わった眼をときどきにやつかせた。まさか留守居を預かってこの期間中パソコンのなかの熱帯魚と睨み合っていたことなど思いもよらないだろう。例えそれを語ったとしても例えばあの十四階の庭の清閑さなどその幽玄さは伝わらないだろうと思った。すべて黙することがそれを失わないための哲理であるかのように思えてただ攸爾は口を閉ざした。

「都会の空気は汚れている…話にならんよ」

一文字は顔をテーブルにうつ伏せにして戯言のように唸り始めた。

「俺の下宿に来てみろ。自然はいいぞ。空気が全然いい。林があり小鳥が鳴き爽やかさでいっぱいだ」

攸爾は黙って聞いていた。

「都会はどんどん人間の手を加えられて創り変えられていく。手を加えられる度にもとの空気が失われていき更に空気自体も汚れていくっていう訳さ」

酔いつぶれているのか正気なのか顔を伏せてしまった一文字の表情からは依然として寝息のなかの戯言にしか聞こえてこない。

「空気とは即ち自然だよ」

「限りない宇宙なんだよ、自然とは」

何に怒っているか、或いはそれは何の悲嘆なのか、酔いに任せて訴えようと

する一文字の論調はしつこく繰り返される。

「創られたものは必ず滅びる。滅びないものは自然だけだ」

攸爾は最初十四階の庭に敷き詰められた小石と垣根と雀の幻影をそれに重ねて聞いていた。しかしその寝息を立てたような一文字の言葉に次第に幻影の虚を衝かれたような鈍い衝撃を受けた。攸爾の是も無く非も無く腰を据えていた躍動感の一部が断ち切られた。黙していた領域が壊されこの鋭い黎明は宿っていた燭光の狼煙の偽りさえ炙り出そうとしていた。

十四階は人間が創った庭だったのか…

「おい、一度来い」

 突然跳ね起きた一文字の眼が攸爾を捉えた。

「地下室の空気ばかり吸っていないでたまには自然の空気を吸え。武蔵野はいいぞ」

虚脱した攸爾の根幹にその一文字の誘いは潤うような威光を放っていた。

 周囲の喧騒はすでに静まり返り雪の夜の居酒屋に一文字の投げた言葉だけが残った。


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