第十回
(第十回)
新しい生命の誕生の瞬間が近づいていた。一月の真冬の空は物憂いげな鉛色を拡げたまま何も躍動せず陰鬱な冷気だけを降り注いでいた。十四階の庭の垣根に洩れる薄日のなかにそれは長い影となって現われ都会が冬を迎えていることを報せていた。
夜を迎えて益々外気は凍り部屋の温度は急激に下がった。時々暗闇の彼方を衝いて微妙な閃光が走る。真冬の雷が都会の上を覆っているのだ。画面を見つめる攸爾の耳にその轟く雷の到来は怪しく巣食っていた侵入者のように聞こえてくる。直接この画面のなかの環境を破壊するものでないことは分かっていても一瞬背筋の凍る思いだ。攸爾は再び孵化時間を確認し水温と酸素の量を点検する。回遊する魚に前回与えた餌の量とその時間を再確認し、環境に異常が無いことを認めるとあとはじっとその瞬間を待つ。愈々ここ数日間の思いが眼の前で完結するのだ。その燃焼された己の執着が黙々と画面のなかで縦横無尽に立ち昇る。それは酸素の泡に混じって無数に発泡を繰り返しその様々な形象が攸爾の魂に静かな音響を提供した。
寒さを忘れた画面の水槽だけが真冬の部屋のなかで色鮮やかに点滅し無数に輝く熱帯魚の群れがその新しい生命の誕生を待つかのように卵の周りで飛翔を繰り返した。固唾を飲む攸爾の好奇心が次第にその瞬間の秒読みを開始していた。珠美が予言したとおりその時間が正確に忍び寄り凍りつくような部屋のなかを何度も稲妻が通り抜けた。外の広い庭の静寂音も息を殺して凝視し攸爾の全霊にすべてが吸い込まれた。
やがて水槽のなかの青い流れが澄み切った音をたててそのときを告げた。
喝采は見事に溢れ豊潤な熱柱がそこかしこに立ち昇った。極端に揺れ動く複雑な喜びがどっしりと居座ってその誕生を祝うかのようである。擬似という観念をすっかり否定した淡い痛快感が攸爾の心の土壌をほころばせその羽根のような調べはやがて底に澱んでいた泥を緩やかに砥ぎ剥がしていく。
新しい生命の尾びれが細い曲線を描いて攸爾の眼の前で軽やかに舞いつづけたのである。