第一回
(第一回)
攸爾は時計を見た。
秒針が逆に廻っている錯覚を覚える。喉が燃え耳の奥で清涼な韻律が響く。気を確かに回復しょうとする己の自尊心がしきりに朦朧とした眼の前で飛翔しようとしていた。恐ろしいほど確実に逆転する秒針は愈々奈落の底へ僅かばかり踏み入った己の実体を写し出していた。呼吸を整えながら再びその作業に没頭した。眺めつづける時計の秒針が次第に色彩を帯び一気に動きを止めて仄かに光を放つ玉盤と化す。様々に展開する夢心地が激しい頭痛を空虚にし、悦楽は既に理性を制圧したかに見えた。
珠美の顔が先ずその玉盤に鮮やかに現われる。水晶玉に凝り、電子音で熱帯魚を飼っているという女だがその彼女の卑猥な眼尻が益々妖麗に満ち隅々に残っている精気がすべてそれに吸い込まれそうだ。眼尻は色彩を放ち色彩は無透明な息吹と点滅を繰り返す。坊主の倅が…渦巻くような歓声が無意識に脳裏の核心に届きその拡がる色彩を時として遮断した。珠美の色彩は今自分がはまっているウォーホールの幻想に重なっているのだ。脱却はあり得ない。その幻想に今はのめり込むだけだ。熱い陶酔の裏側で常に拡がる一片の絵画の野心はこうして始まっていき習性化された行為は攸爾の日常を侵し始めていた。
薄暗い地下室の隅に湿った腐敗の臭いに混じってコルトレーンのテナーが響く。どう聞いてもお経の音色とは程遠いわと言って笑った珠美の声がすぐ耳元まで聞こえてきそうだ。不意に憎悪が駆け抜けむせぶように攸爾はそのビニール袋を吸い込んだ。悪魔のような気体は一斉にお経と官能的な重低音とを包み込むのだ。眼が眩むような嘔吐が襲い暫くはそれらの雑音が金切音のような混合体となって耳の奥深いところで格闘し始める。まだ時間はある…還るまでの時間は果てしなくある…乱れ打つ吐息に攸爾は醒めた確信を途切れ途切れに見つけ出そうと必死にもがいた。正気に戻る片方の自分が反面容易く想像できた。
未知の燃焼物が今は転がっているだけだと嘯き陶酔していた。新しい絵画の展開や留学挫折の悩みなど今は無関係なのだ。ましてや僧侶の格式など己の身体のどこを指しても潜んでいるはずがない。例え少年時代に仏門をくぐるための得度を終えたとはいえこの未曽有な別世界の自分の姿こそが今は手応えを感じる。慌てなくてもいい。時間はある。全ては靄のようなこの深い奈落が何処につづくのかを見極めるだけだ。長いよだれがこぼれ落ち攸爾は震える手で何度も頭上の暗闇を掴もうとした。コルトレーンの荒れ狂う重低音が愈々炸裂し珠美の薄笑いもその淫乱な眼光も無鮮明な絵画の新天地も恐ろしいほどの激流となって逆さまに写った。正体不明の色彩が乱れ飛び嗚咽を繰り返すような吐息に合わせて眼の前で舞った。
それらには刺すような快楽があり窒息寸前に似た安らぎがあった。しかし幻想の睡みのなかでこの麻薬に屈服せず冷静でいて強固に棲みつづけるたったひとつの免疫があった。それは眼の前で展開する色彩に同調しひとつの夢を選択しょうとしている片方の自分なのである。まさしくそれは忽然と醒めていて堕落しているはずの実体を哄笑していた。