私とパン屋さん
私が中学生に上がると同時に引っ越した。
お隣の県のお祖母ちゃんの家に移ったとき、陸と離れることに心にぽっかりと穴が空いたような寂しさがあった。
突然述べるが、自閉症の人は、いや誰でも、あらかじめ手順が決められていると、物事を進めやすい。
自分で判断することが苦手な自閉症の陸の家では、ホワイトボードが家の数ヵ所に置かれていて、よく活用している。
例えば、陸の家のリビングにあるホワイトボード。そこは最も陸が見やすい場所で、陸も毎朝確認している。『3:15 おやつ』と書かれ、その時間を指している時計のイラストとドーナツのイラストが貼られている。それは、見ての通り、午後3時15分にドーナツをおやつにしていいよ、ということである。
私が引っ越しのお別れをしたその日も、ホワイトボードは使われた。玄関に置いてあるホワイトボードだった。
陸の家のインターホンを押すと、陸が出てきた。
持ち運べるホワイトボードを持っていた。
見せてもらうと、私たちと家族ひとりひとりの写真と、
「ひなちゃん、おわかれです」
陸が読んだその言葉が書かれていた。
陸は、ホワイトボードと私を見比べると、再び
「ひなちゃん、おわかれです」
と、言った。ホワイトボードを壁に掛けると、私の手を玄関に引っ張った。
「ひなちゃん、パンやさん」
どうやら、家で遊べると思ったらしい。
「遊びません」
私はそう言ったが、お父さんが肩に手を置いた。陸の目線に合わせて言った。
「陸くん、11時までね。11」
私は陸と一時間だけ遊べることになった。
「お父さん、ありがと!」
私は陸の部屋に入った。陸はいそいそと箱を取り出した。そこにはお絵かき帳が二冊と色鉛筆が二つしまわれている。
小さなテーブルに陸と向かい合って座った。もう、二人とも身体が大きくなったのでかなり狭かった。
「パン屋さん」
そう言うと陸は、いつも行くパン屋さんの絵を描き始めた。お絵かき帳には何枚も何枚もパン屋さんやらパンの絵がたくさん描いてある。
「何描けばいいー?」
「パンダパン」
陸にパンの絵を催促される度に思うが、パンの絵はとてつもなく難しい気がする。同じ形のパンは、特に。
今回はパンダを描くだけで良いから幾分か楽だ。描いて見せると、陸はにこぉっと笑った。
「ひなちゃん、クリームパン」
「はーい」
私はクリームパンを描く。アンパンはゴマが乗っていて、クリームパンは丸い手のひらみたいな形、でいいのかな。
陸は、パン屋さんの絵を描いている。この線はここ、このパンはこっち、と迷いがない。何回も行っているから覚えているのか、一番最初に見て覚えているのかは陸にしかわからない。
陸がパン屋さんを描き終えた。
描き終えたら、いつも次の遊びへ移っていたので、陸はお絵かき帳を閉じようとする。
「ねぇ、陸くん」
陸は動きを止めた。
「そのパン屋さんの絵、私にください」
陸は先ほどまで描いていたページを開いた。
「パン屋さん、ひなちゃんにあげます」
陸はお絵かき帳を押さえずに、びりびりとそのページを破った。歪なその紙を、私は受け取る。
「ありがとう」
陸はやはり、目を合わせようとしなかった。
にやっと笑うと、陸はお絵かき帳を箱にしまった。私はまだ出したままだった。
「陸くん、私ね、お引っ越しするの」
「ひなちゃん、おひっこし。おわかれです、ざんねんだねぇ」
陸の両親から何度も聞かされていたのか、陸は「おわかれです」と言った。おそらく陸はわかっていない。いつも通り私と学校に行って、授業を受ける。しかし、この春休みが終わったら、その普通は崩れてしまうのだ。陸は戸惑うだろう。
「11時です。バイバイします」
私は言った。陸は時計を見る。時間通り、陸は私の手元にあるお絵かき帳を箱に入れる。箱を棚にしまった。
「ひなちゃん、さようなら」
陸くんは私の手を引いて、玄関まで引っ張った。こんなときでも陸くんは通常運転だ。
泣きそうな私を陸は不思議そうな顔で見た。
「陸くん、ばいばい」
私が玄関の扉に手をかけて、出ようとしたときだった。陸は私の手を掴んだ。
手の甲に自分の指先を数回トントン、とする。
「バイバイ、ひなちゃん、またあとで」
陸は笑った。いつも通り、花が綻ぶように笑った。
「……」
「ひなちゃん」
首を傾げた陸は私に手を差し出した。
「そっか、そうだね」
陸はわかっているのだろうか。わかっていても、わかっていなくても陸はいつも通りを貫くのだろう。私は陸の手を取った。
「バイバイ、陸くん、またあとで」
◇◇◇
それから陸に会うことなく、15年。27歳になった
。中学、高校、大学、と滝が流れ落ちるように時間は早く過ぎていった。陸と遊びたいという気持ちはもちろんあったが、行事や友達と遊ぶこと、部活に受験。いつのまにか陸と遊びたい気持ちは頭の隅の方に追いやられた。
それでも、陸がいて当たり前の日常の頃の記憶が影響もしているのだろう。大学に進学するときは特別支援教育に携わる仕事に就きたいと思っていた。
なんとか勉強して国公立大学にいけた私は、なんとか就職試験を乗り越え、なんとか特別支援学校の教員となった。陸との楽しかった記憶が、バネになったのだと思う。
小学校に就く関係で、私は家を出た。
日々の仕事はやりがいがあり、陸と会いたいな、などという思いはさらに奥の方へ押しやられた。
ある日、特別支援教育についての講演会があり、その帰りに駅まで歩いたときだった。ふと、次の日の朝のパンを買おうと思ったのだ。
可愛らしい赤い屋根が特徴的な、パン屋さんがあったからだ。ふわふわとパンの食欲をそそる匂いが辺りに漂っていた。
看板には店名と『β型就労支援事業所』。確か、障害のある大人が働いているところだ。
扉にはベルがついていた。カランコロンと、これまた可愛らしい音がした。
アンパン、クリームパン、懐かしくもあり珍しいパンダパン。どれも美味しそうだ。その三つをトレイに乗せるとレジへ向かった。
男の人が、ゆっくりと丁寧にパンを包んでくれる。後ろにも補助のような女の人がいて、じっとそれを見ていた。目が合うと、頭を小さく下げて笑った。
袋を受け取る。レジの隣のショーケースにマフィンが並んでいた。どうやら、店内で食べれるらしい。
「チョコレートチップマフィン。一つ、ください」
女の人が、男の店員さんの手に触れて促した。チョコレートチップをトングで掴んでゆっくりお皿に乗せる。その間に、女の人にお金を払った。
お水とお皿を乗せたトレイを差し出された。
「……ど、うぞ」
男の店員さんと、初めて目が合った。すぐに逸らされる。服のシワに隠れていた名札が見えた。
『アリタ』
有田陸。自閉症の陸くん。
よく知っている。そうか、パン屋さんになれたんだね。好きだったもんね。
「ありがとう……」
私は、名前を呼ばなかった。お仕事中に邪魔するのは良くない。
その店員さんは、陸は、にやっと笑った。
席に座って食べた。チョコレートチップがポリポリといい音を立てる。あのパンダパンは陸が考えたのかな。陸くんは、私に気づいたかな。
もりもり食べながら考える。
「ごちそうさまでした……っと」
食べ終わったトレイを返却する場所が見当たらなかった。きょろきょろしてると、陸がやって来てトレイを回収する。
「あ、ありがとう」
陸はまた、にやっと笑った。
帰る準備をしていると、再び陸がやってきた。ふきんを持っている。テーブルを拭くのだろう。
私がテーブルに手をついて、立ちあがって歩き出した。そのときだった。一瞬だったが、私の手の甲に、陸は指先で触れた。小さな、蚊の鳴くような声だった。いつかの日常を思い出して、その弾みで声に出たのだろうか。
“バイバイ、ひなちゃん、またあとで”
振り向くと、陸は目を逸らした。
カランコロン。ベルが鳴る。
私は駅に向かって、歩き出した。
陸くん。自閉症の男の子、有田陸。
変わった。体つきも、大きくなって。しっかりお仕事をしてる。
でも、変わってない。目を逸らして、にやっと笑うところ。パン屋さんが好きで、私との日常を覚えている。
バイバイ、陸くん、
「また、あとで」
私は笑った。また、行こう。あの赤い屋根のパン屋さんに。
陸に会いに。
陸と、また新しい日常を過ごせるのか、と嬉しくなった。
不思議なことに、なんだかわくわくしている私がいることに気づいた。
ああ、今教えている生徒たちも、あんな大人になるといいな。
陸くんは、自閉症です。
立派な自閉症の青年です。
※私は専門家ではないです。一例なので、温かい目で見てくださると嬉しいです。




