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日曜音楽家

プルルル・・・。

電車の出発を知らせる音がホームに響き渡る。

私は、もうすぐ五十を数える自分の体力の衰えに舌打ちしながら、階段をなんとか上りきった。ギリギリで飛び乗った電車はそこそこの混み具合で、席を見つけるのは困難そうだ。

よいしょ、とこの年齢になれば誰もが口にする言葉と共に、背中にしょっていた荷物を降ろした。

周囲の乗客達の目線が一瞬こちらに向けられる。いつもながらこの瞬間は少し誇らしげな気分にさせてくれる。私は倒れないようにそれを入り口近くに立てかけた。

駅に着くと背中に多少の重みを感じながら、改札を出る。ここから目的地までは歩いてすぐだ。軽く深呼吸をしてから歩き出した。


「おはようございます」

少し重い防音扉を開けると、先に来ていた仲間が顔を見て言う。

「やぁ、お久しぶりですね。1ヶ月ぶりかな」

「前回の練習はちょっと用事で来れなくて」

「仕事ですか?忙しくて結構ですね」

若手の団員たちも声を掛けてくる。

「いや、法事でね。さすがに抜けてはこられなくて」

返しながら私はケースの蓋を開けた。

「そりゃそうだ。先祖にうらまれるよ」

軽く笑いが起きる。こういう時間もここに来る楽しみだ。

弓に松やにを塗りこむと、本体を取り出し、チューニングに取り掛かる。おっとその前に床に傷がつかないようにと、紐のついた小さな板を置いた。

さぁ、これからしばらくの時間、私はチェリストだ。


ここはアマチュアの音楽家達が集うオーケストラである。

みんな普段は会社員などをして働いている。半数は昔とった杵柄(あぁ、この言い方は古かったか。世代がばれるな)学生時代に吹奏楽部だったとか、習っていたとかだが、私を含めた残りの人たちは、俗に40の手習いといわれる者たちだ。硬くなった脳みそと体と格闘しつつ、日々必死に練習に励んでいる、と言いたいところだが、現実はなかなかそうは行かない。

毎日仕事に追われ、家に帰る寸前までは今日こそ練習するぞと思うのだが、遅めの夕飯を取り、ちょっと一服などと思っている間に時間は過ぎ、こんな時間から弾いたのでは近所迷惑だろうと自分に言い訳して・・・。

結局練習するのは週末だけになってしまうのだ。いや、そうでない人もいるのかもしれないが、少なくとも私はなさけないことにそうなってしまうのだ。

そんな私を見て高校生になる娘が言った。

「お父さんってさ、日曜音楽家だよね」

なんだそれは、と怪訝な顔をした私に

「だって、休みの日に大工する人のことを日曜大工っていうじゃない。だから休みの日しか練習しないお父さんは、日曜音楽家」

わが娘ながら上手いこと言うじゃないか。

なるほど日曜音楽家ねぇ。

日曜音楽家、と口に出してみる。なかなかいい響きだ。

「よし、今度から何をしているのか聞かれたらそう答えよう」

感心しながら声高らかに宣言した私に妻は呆れ顔だった。


「それでは練習を始めましょう」

若い指揮者の一声でそれまで好き勝手に鳴っていた楽器の音が止む。

「えっと今日は本番も近くなってきたことですし一度通しますね」

譜面台のスコアを開くと彼は言った。

「では最初から」

練習が始まった。

当オーケストラの常任指揮者である彼はここでは若手に入る。と言ってもおそらく三十は越しているであろう。もちろんアマチュアなのだが、かなりの勉強家だと思われる。彼も普段はサラリーマンだがなかなかに頭が良く、大学はどこかの国立大を出たとか出ないとか。指揮者というのはやはりかしこくないと駄目なのだな、と納得するには十分な実力の持ち主だ。(と私達は思っている)

ところで私の属するチェロパートは全部で4人いる。私は第2プルトのしかも2だ。ま、簡単に言えば一番下手だということである。常に皆の足を引っ張らないことを目標に頑張っている。

今日の練習曲目はなんとなんとベートーヴェンの大工、もとい、第九である。

なぜ第九なのかというと年末に演奏会があるからなのだが、年末といえばこの曲だろうという安易な意見から今現在このような事になってしまったのである。そう、とにかく大変なのだ。

ほとんどの人は第九といえばあの有名な合唱を思うだろう。100人でやるだの千人いや一万人だったかな。とにかく派手で華やかで作曲家の偉大さを感じさせる壮大な曲だ。しかしあれは第四楽章なのである。それまでにたっぷり三楽章もあるのだ。今まで実はこのオーケストラでこんなに大きな曲をしたことがなかったものだから、団員達は四苦八苦してそれこそ頭を抱えながらやるはめになったのだった。

「そこ第一バイオリンもっとクレッシェンドして」

「チェロもっとリズム感じて、コンバス遅い!」

「フルート、クラ、なめらかに」

指揮者の指示が飛ぶ。みんな必死だ。

3時間の練習を終えると冬だというのに額に汗がにじむ。

「次回からしばらく本番まで練習は毎週土日になります。できるだけみなさん参加してくださいね」

コンマスの声にそうだったと思い出す。あと一ヶ月ちょっとで本番だ。ますます頑張って個人練習にも励まなければ。日曜音楽家では追いつかないぞ。

「おつかれさまでした」

片づけを終えた団員達が帰っていく。弓を緩めていた私に「来週来れます?」

同じチェロの仲間が楽器を拭きながら聞いてきた。

「なるべく、来るつもりではいるんだけどね。でも土曜はちょっと無理かな」

「そうですよね。僕も日曜しか」

日曜音楽家はなかなかに忙しいのだ。


それから本番までの一ヶ月、私は日曜音楽家の名前を返上すべく、さすがに毎日とはいかなかったが、練習に励んだ。

ところで毎年この時期になると思うことがある。それは、普段もこれだけやればさぞや上達するだろうな、と。

しかし、毎度そう思いつつ出来ないから今のレベルなのだが・・・。

日曜音楽家の悲しい性である。


そして、12月の2週目。

今日は合唱との合わせの日である。

私は会社を休んで(部下には、この忙しい時期に、と散々文句を言われたが)本番の会場でもある市民会館へと足を運んだ。

合唱もやはりほとんどがアマチュアで、まだ本番でもないのに皆一様に緊張した面持ちだ。

かくいう私達オケのメンバーも、なんとはなしに落ち着かない様子だったが。

歌のソリストさん達もスタンバイして、いよいよ今日の練習が始まった。


ホルンとトランペットの重々しい雰囲気から第4楽章は始まる。

しかし、バリトンのそれまでの音楽を否定する一声で曲は一変するのだ。

「フロイデ!」

歓喜の合唱が続く。


ベートーヴェン、やっぱりあなたは素晴らしい。

私はこの喜びに満ち溢れた音楽に陶酔していった。


本番当日。

今年も家族が聴きに来てくれた。

第九とあっていつもより観客は多めだ。なにせ合唱出演者の家族も来てくれるからね。

さぁ、張り切っていきますか!


「皆さんもよかったら、日曜音楽家してみませんか?」

よし、来年の団員募集のポスターはこれで決まりだな。

会場の割れんばかりの(ちょっとオーバーだったか)拍手を聞きながら私は思った。












私も実は音楽家です。と言ってもチェリストではなく声楽家ですが。音楽家の日常を楽しんで頂けたらいいな、と思います。

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