妄想戦記
紀元前203年、垓下と言う場所でとある軍勢がもはや絶望的という窮地に陥っており追い詰められていた。
囲む兵は30万余り、対して追い詰められているほうは800人程度。
何処を見回しても敵の姿ばかりで、助かる道など完全に断たれている状態である。
しかしこの追い詰められている兵達からは、悲壮感は漂ってはおらずむしろ追い詰めているはずの30万の兵よりも士気が高いくらいだ。
「項羽様、敵が西側から現れました!」
項羽と呼ばれた男は全身から怒りを発し、愛馬の手綱を取る。
「股夫ごときが、抜け目のないことよ。我らを休ませるつもりはないのであろうな」
静かにそしてつぶやくように誰にでもなく項羽と呼ばれた男は苦笑をもらしながら、槍を握る手に力を入れた。
股夫とは脅されて他人の男の股を潜った者を馬鹿にする一種の別称である。
そしてこの項羽を囲む30万人の兵の全ての頂点に立っている男が、かつて若い時にならず者に脅され、その股を潜って腰抜けといわれた男でもあった。
名は韓信。
その名はすでに天下に轟いており、かの者の率いる軍勢は国士無双の兵とまで言われているほどの精鋭であり、その精鋭を厳しい軍規の元に作り上げた男がこの韓信という男でもある。
しかし若い頃にならず者の股を潜ったことがわかるように韓信自身は武力が高いほうではない。
それでもなお、国士無双という称号を得ているのが韓信という男なのだ。
「さすがは国士無双の精鋭兵ですね。動きが早いこと早いこと。もはや降伏か死か。どちらかしかありませんね」
この状況にも拘らず、砕けた口調で話す兵。
そしてそれにあわせて、笑い声が沸き起こる。
「降伏はねえな。それだったらあの裏切り者どもと一緒にとうにあいつらに降伏してるだろ?」
「ちげえねえな」
再び沸き起こる笑い声。
かつてこの項羽と言う男は江東から兵を起こし、わずか20半ばで天下を掌握した一大の傑物である。
そしてその強さは古今無双比類無き者としており、かつてはわずか3万の軍勢で50万の軍を壊走させたり、またあるときは、味方の城を敵に完全包囲されたと聞いて援軍に駆けつけたはいいが、他の援軍が先に到着していながら、動いていないことを知り「だらしのない奴等だ」と言い放ち、自らの軍勢に三日分の食料しか持たせず、退路を断ち城を包囲している敵を一気に蹴散らしたりとその武名は韓信以上に天下に鳴り響いていた。
しかしかつての威勢は見る影もなく、またかつていた多くの将軍、そして兵達に愛想をつかされ、いまやつき従う兵はわずか800人余り。
名のある将軍はすでにこの場所にはいなく、この800人は名も無き一般兵だけであり、名前が天下に鳴り響いているものはこの場において項羽ただ一人であろう。
(范増の言うこと軽視していた結果がこれか……自分の武に頼りすぎたか……俺は強ければ人は付いてくるものだと思っていたが……今更遅すぎるな。叔父上にも愛想をつかされ、敵の策に乗って亜父とまで呼んだ范増を疑い、その結果がこれか)
范増とはかつて項羽を支えた幕僚の一人で、その知の冴えはまさに超一流と言ってもいいほどのものであり、その知に項羽は何度も助けられていたが、肝心な范増の意見を全て軽視していたのだ。
范増はいま項羽達を取り囲んでいる兵の総指揮官である韓信の才能を見抜き、「彼を重用なさいませ。もし彼を重用しないのであれば後の災いとなる前に殺害すべきです」と意見をしたが、当時名も無き一兵卒であった韓信に何が出来るものかと高をくくって無視していたのだ。
しかしあまりにも范増が意見をしてくるので彼の身辺を調べさせたところ、若い頃は乞食同然の暮らしをしており、時には年老いた見ず知らずの婆さんから飯を恵んでもらったりしていたと聞き、極めつけはならず者に脅され、その股を潜ったとい事すら調べ上げ、その場で大笑いをし、何故范増があそこまで、股夫を気にするのかさっぱり分からず結局彼の意見を取り上げなかったのだ。
項羽自身絶大な武を誇り、戦えば必ず勝つという強さもあったので、「我が軍にはそのような腰抜けなどいらん」とすら思っていたのだ。
そしてその肝心の韓信は同僚から、「おい聞いたか? 何でも范増様が項羽様にお前を重用しないのなら殺すべきだと言ったらしいぜ。おかしな話もあるもんだな。お前が人の上に立つ器かよ」と苦笑しながら言ってきたのだ。
韓信という男は確かに優れてはいるが、風采が上がらず、また頼りなさそうな雰囲気を持った男でもあり、彼の過去を知る同僚達から良く馬鹿にされていたのだが、韓信自身はさほど気にせず聞き流していた。
さらに一兵卒でありながら、天下の大局を見据え、この場所とこの場所を固め、この地の民に施しを与え、この人物を警戒し、兵をここに送れば項羽様の天下は磐石になりましょうと竹簡に書いて上奏していたのである。
そしてその上奏分をたまたま目にした范増が「天下の士得たり」と思わず天を仰ぎ、早速項羽に報告したが結果は芳しくなかった。
また韓信のほうでは同僚からそのような話を聞き、命の危険を感じ、項羽の元を去ったのだ。
また、たまたまこの上奏分が、項羽の敵である幕僚の一人の張良という優れた人物の目に止まり、張良は早速接触を図り、様々な事柄を経て、彼を自分の陣営に引き入れることに成功したのだ。
そして項羽はやがてこの韓信という男に何度も苦しめられ、さらに彼の敵の幕僚のが図った離間の策に乗せられ、范増を追放してしまったのだ。
追放された後の范増は、背中にできものが腫れ上がり、それが原因で命を落とした。
最後の言葉は「敵の策に乗せられこのような不名誉な形での死とはなんと悔しいことか。無念じゃ」と言い残し世を去った。
それを聞いた項羽は「人は死の間際は嘘はつかないという。俺はなんと言う取り返しのつかないことをしてしまったのだ」と涙ながらに後悔したが、すでにこの時点から項羽の負けは徐々に大きくなり始めていた。
そしてついにこの垓下と言う場所でこの有様になったのだ。
「ゆくぞ!」
見渡す限りの兵。
何処を見ても劉、そして韓と書かれた旗しか見えない状態だ。
それでも項羽とそれに付き従う800の精鋭兵は臆することなく敵の大軍にその身を投じた。
誰もが口元を釣り上げながら戦いを楽しんでいる。
たかが800の兵だ。30万の軍勢でかかればあっという間に討ち取れるはずだ。
項羽の首を取ったものは莫大な恩賞が約束されている。
ゆえに項羽の敵。すなわち劉邦、そして韓信の兵達は目の色を変えて項羽たちに群がるも、ここまで追い詰められておきながら、それでもなお項羽に付き従い、生き残っている兵達だ。
並みの精鋭兵とはわけが違う。
また30万の兵がいっせいに飛びかかれるわけでもなく、確かに30万の兵で取り囲んではいるが、最前線など精々多くても5千人から1万人いればいいほうだ。
それ以上多くなれば、逆に味方の動きを阻害してしまう可能性だって出てくるのだ。
とはいえ100人が倒されればすぐさま別の場所から100人が送り込まれ、千人倒されればすぐに千人送り込まれる。
四方八方は完全に人の山で埋め尽くされ逃げる隙間すらない。
それでも絶大な武を誇る項羽を筆頭に800人の精鋭達は槍を、剣を次々とふるい草木を打ち倒すように、雑草を刈り取るがごときのように敵兵をかきわけ、その大地を血でぬらしていく。
「ははは! これだけいて我が命すら取れないとはな! どうした! 国士無双の精鋭兵どもよ! 我が覇王の首が欲しければその武を示してみろ!」
愛馬、烏鵻にまたがり、並み居る敵兵を後方に800の精鋭を引き連れ自ら最前線で槍を振るい蹴散らしていく項羽。
一振りするたびに3人以上の人間が胴をなぎ払われ、二振り目で10人以上の敵兵の首が飛び、三振り目で50人以上の敵兵から鮮血が舞い上がる。
接近戦は無理だと判断した兵達は項羽から逃げるように距離を開け、弓に矢を番え、一気に放つ。
降り注ぐ矢の雨は4000本以上。この混戦の中、すばやく戦術を変え、隊列を整える様はまさに国士無双の兵にふさわしい動きでもあるが、下手をすれば味方すら巻き込みかねない行為だ。
しかい項羽と800の精鋭は慌てることなく、降り注ぐ矢をしっかりと見定める。
瞬間、豪雨もかくやと思われる矢の雨が彼らを襲い、項羽たちはハリネズミのようになって矢に突き刺さり、その場に倒れるはずであったが、韓信の兵達は目を疑った。
そこには多少の傷は見受けられるものの、ほぼ無傷と言っていいほどの項羽と愛馬、そしてそれに付き従う項羽の精鋭兵達の姿があったのだ。
「何人死んだ?」
項羽が静かに問う。
「今の一撃で30人ほど……」
兵の一人が答える。
この戦場において足を止めるというのは自殺行為に他ならない。
矢の雨を潜り抜けたのであれば、再び動き出さねば良い的となってしまう。しかし項羽は足を止めた上、静かに天を見上げた。
この場を任されている韓信側の指揮官がはっ! となってこの最大の好機に再び矢を放とうと指示を出すが瞬間、項羽は視線を天から戦場へと移す。
「おおおおおお!! 我が武を天にまで轟かせようぞ!!」
これが最後まで自分に付き従い、そして命を落とした兵達への手向けと考えたのだ。
貴様らが最後まで付き従った男は、天下無双なのではなく、天上天下古今無双なのだと。
そして貴様らはその男の部下なのだと……
戦場の大気を振るわせる大音声を発する項羽と、その項羽の後に続く800の兵。
すでに勝ちが確定している戦で、命を落とすほど馬鹿らしいことはない。
そして項羽の武は天下に鳴り響いており、最前線の兵達はその武を目の当たりにしたのだ。
「だ、だれだよ! これだけいりゃ項羽を倒せるって言ったやつは! 話が違うじゃねえか!」
「ば、化け物だ! こ、こんな化け物倒せるかよ!」
「冗談じゃねえや! いくらあいつの首が万戸候になるからって死んじまったら終わりじゃねえか!」
国士無双の精鋭兵とうたわれた兵達がにわかに混乱し始める。
そこへ項羽率いる約800の兵が突撃を敢行し、あっという間に蹂躙され槍に貫かれ馬に踏み潰され見る見るうちに大地が血で染め上げられていく。
そしてその勢いは誰にもとめることなど出来ず、30万からなる軍勢で編成された軍は、何度も突破されかけていく。
韓信自身は、その様子を見聞きしながら、危機感を覚えていた。
万が一このまま我が群が突破され、長江を渡られ、彼が兵を起こした江東、すなわち会稽などに逃げられれば、今度はこちらが追い詰められる危険すらあると思っていたのだ。
たった一人の武によって戦局が左右されることはよくある。
もっと細かく言えば、その武に勇気付けられた兵達の士気が大いに上がり、その武とそれに続く兵達が戦局を動かすのだが、文字通りたった一人の武によって戦局が動くなど韓信からしてみてもそれはありえない事なのだ。
しかし今、現在彼が敵対している項羽と言うのはそれをなしえる武の持ち主で、恐らく一万程度の軍勢であれば本当にたった一人で蹴散らすことすら可能だと思われるのだ。
ゆえにこの場で、この戦場でなんとしても討ち取らねばならないのだ。
次々と伝令の兵に指示を飛ばし、各地で項羽を包囲している将軍達に指示の内容を伝え、将軍達もその指示内容にしたがって素早く兵を動かす。
本当に良く訓練されている軍隊だ。
しかいこれほどの軍をしてもなお項羽を討ち取れない。
そしてついに項羽達にも限界が訪れ始めた。
いくら鬼神のごときの武を誇る項羽とその精鋭たちといえど、やはり人間なのだ。
項羽に付き従っていた約800人の兵達は一人、また一人と次々と討ち取られていく。
そしてとある軍勢の包囲を抜けたところで項羽はわずかながら一息つく。
「残った兵達は何人いる?」
項羽の体はすでに鎧は鎧の体をなしておらず、所々から地肌が見え、そこから出血などしており体中傷だらけであり顔にも数多くの傷跡が見て取れる。
「は、残った兵は……28人です」
息も絶え絶えに兵の一人が答える。
「ふふふ、江東から8000の兵を起こし、今や残った人数はわずか28人か……」
自嘲ともいえるような笑みを漏らしつつ静かにつぶやく項羽。
「悔しいです! あそこで劉邦が和睦を裏切っていなければ! なにが信義の人間だ! 何が天下を治めるにふさわしい人物だ! 和睦しておきながら平然と裏切り、我等の背後を襲って掠め取った玉座の癖に!」
兵の一人が悔し涙を流し大声で叫ぶ。
「……仕方あるまい……全てはこの項羽の不徳のいたすとこだ。恨むなら人の意見を無視し、傲慢に振舞ったこの項羽を恨むがよい」
静かに、そして過去の過ちを悔いるように項羽は遠くを見つめながら、涙を流している兵を慰める。
(確かに傲慢な振る舞いが多かったな、若い時は敵無しと思い込んで年長者の意見を無視していたが……あの世にいったらまず亜父に詫びを入れねばなるまい。そしてそんな俺についてきてくれて命を落とした兵達にも頭を下げよう)
しかし項羽はまた別の事を考える。
(死んでいった部下達に報いるためにも、せめてその武を天下に……いや天上にすら鳴り響かせようぞ。出なければ、あの世で会わす顔すらないわ)
「皆の者聞け!」
突如項羽が改まって、生き残った兵達に声をかける。
「これより我が武を天に見せ付ける。我らは弱くして負けたのではないと! 天にそしてこの大地に見せ付ける!」
兵達は皆顔を引き締め、項羽の言葉に口を挟むことなく聞き入っている。
「これより三度、国士無双とうたわれている精鋭兵に我らから突撃を敢行する! 逃げるために突破するのではなく、蹴散らすために突撃をするのだ。そしてなお生き残れば、我らは弱くして負けたのではないと示すことが出来る」
そこで項羽は一旦言葉を切り、再び紡ぐ。
「しかしだ、これはこの項羽ただ一人のわがままでもある。もし、そのような行いは嫌だと言うものがいるのであれば、この場を去るがよい。劉邦に降伏するも良し。うまく逃げ延びどこか落ち着ける土地を探し、そこでのんびり過ごすも良し、おそらく敵はこの項羽に夢中になるであろうから、そなたら一兵卒を気にするものなどほとんどいないであろう」
しばらくの沈黙、しかしそれは兵達が迷っている沈黙ではない。
むしろ兵達からは怒りすら見て取れる。
「項羽様、貴方は私達の事を馬鹿にしているのですか! この期に及んで命を惜しむものがこの中にいると本気でお思いなのですか! それは私達生き残ったこの場にいる28人の仲間だけではなく貴方様に最後まで付き従い命を落とした800人の仲間に対する侮辱でもあります! なぜ一言、我とともに武を示そうといつものようにおっしゃってくださらないのですか!」
それは項羽が戦う際に兵の士気を上げるためにいつも言っていた言葉である。
そしてそんな兵の言葉を聞き項羽は、かつて威勢を誇っていた顔つきに戻り、居並ぶ28人の兵に大きく告げた。
「これより覇王の武を示す! 覇王の兵たる諸君らはそれにふさわしい奮戦を期待する。天下にそして天上に覇王と覇王の兵の武を思う存分見せ付けようぞ!」
そして28人の兵から少人数とは思えないほどの気勢が上がり、そして彼らはそのまま一度目の突撃を敢行した。
そこではまるで疲れなどないかのように万を誇る韓信の軍勢相手にわずか28人が獅子奮迅の活躍を見せ見る見る間に死体が増えていく。
特に項羽の槍は凄まじく、敵方の名のある将軍を一合すら交えずあっという間に屠り、自身の槍で貫いた兵は500以上にものぼり、さらに戦闘が続行できない怪我人はその倍に登るほどで、ついにその軍は体勢を立て直すために壊走し始めた。
「何人死んだ?」
「28人全員生存しております!」
「よしならば次だ!」
休むことなく咆哮をあげ目に付いた軍勢に襲い掛かる項羽と28人の兵達、ここでも彼らは散々に暴れ回りしたいの山を築き上げた。
槍は血と油でボロボロになり、体中にあった傷はさらに増え、それでもなお彼らは痛みを感じなかのように鬼神のごとく振舞う。
「何人死んだ?」
再び問う項羽。
「全員生存!」
「……ならば最後だ! 行くぞ!」
そして最後に目に入った軍勢すらも蹴散らし壊走させる項羽達。
「何人死んだ?」
わずかに肩で息をしながらもそれでも問う項羽。
「最後の突撃で2人ほど……」
答える兵ももはや生きているのが不思議なくらいの怪我を負っており、彼だけではなく皆、限界を超えている。
「ふははははははは!!」
大きな声で笑い声を上げる項羽。
「見たか! 劉邦よ! 見たか! 韓信よ! 見たか大地よ! 天よ! この項羽こそが! そしてそれに付き従う我が兵こそが最強だと言うことを思い知れ!! 我らは決して弱くして負けたのではないぞ!」
兵達も力を取り戻したかのように項羽と同じように大きな声で笑いながら、そして項羽とともにその場を去っていった。
やがて大きく雄大な長江が見えてきた。
後ろからは是が非でもここで項羽を討ち取らねばと、素早く軍を編成し追撃をしてくる韓信が指揮をする国士無双の精鋭兵。
「どうやらここが死に場所らしいな」
快活に笑う項羽。確かに項羽の武は一軍どころか、二軍にも三軍にも匹敵する武を持っているだろう。
それは先の戦いで充分に証明している。しかし垓下での戦いが始まって以来、常に劣勢に立たされていた項羽の体はすでに満足に動かすことすら出来ない有様である。
(虞よ、お前の元にもうすぐ行くぞ)
虞とは項羽が生涯で愛した女性の名であり、位は美人の位、ゆえに虞美人と呼ばれていた人物だ。
美しく芯が強く聡明で賢く、そんな、虞美人を項羽は愛し、そして虞美人も項羽の事を愛していたが、垓下ので戦いが進むにつれ、敗北しつつあった虞美人に項羽は「お前だけでも生き延びてくれ、お前の美しさなら劉邦も決して無下には扱わんだろう」と言ったが、虞美人は「二夫に仕えよと無体なことをいうのであれば私は命を絶ちます」と言って自ら自殺を図りその生涯を終えた女性なのだ。
この時読まれた詩は、後の歴史において多くの人が涙を流したと言う。
そして項羽はいよいよ最後かと覚悟を決め愛馬、烏鵻のの首を撫でやり、敵に向かって最後の突撃を敢行しようとした時、一人の若者が項羽の前に現れた。
「おお、お待ちしておりましたぞ! 項羽様! よくぞ、よくぞここまで生き延びて……」
涙を流し、感涙咽ぶ若者。
「そなたは何者だ?」
「私はこの地に住むしがない亭長でございます。貴方様のお味方です。ささ、こちらに船をご用意しております。江東は千里の土地があり住んでいる人間は万を越します。この地で英気を養えば劉邦めを打倒し再び玉座に座ることすら可能でしょう」
「はははは! なるほどなこのように落ちぶれた俺にもそなたのような味方がまだおったか、これは嬉しいのう! はははは」
心の底から本当に久々に愉快に笑う項羽。
「項羽様、早く船に! 敵は韓信率いる軍勢です! わずかな遅れが致命的となりましょう」
若者は項羽をせかすが、項羽は動こうとしない。
「のう若者よ。俺はかつてその江東から8000人の兵を募り家族から彼らの命を預かっておきながらそのことごとくを失い。今や26人しか生き残りがおらん。どのツラを下げて再び江東に渡り失った兵の家族に会えばよいのだ? そのような厚顔無恥な真似はさすがにできんわ。そなたの忠誠は嬉しく思うが、俺はここが死に場所と決めたのだ」
「……しかし!」
なおも食い下がろうとする若者を手で制する項羽。
「しかし、そなたの忠に報いねばなるまい。とはいえそなたにやれるものなどないのだが……おおそうだ! そなたに我が愛馬、鵻の面倒を見てもらおう。鵻まで我らに付き合って死ぬことなどないからな」
「項羽様……」
「良いか、しかと頼んだぞ? 鵻よお前とともに多くの戦場を渡り歩いてきたが、これが今生の別れとなるであろう。達者で暮らせよ」
烏鵻はどこか寂しげに大きくいななきながらも若者に手綱を引かれ、一緒に船に乗り込む。
項羽は烏鵻を名残惜しそうに、その姿が小さくなるまでいつまでも見送っていたが、船の上で突然烏鵻が暴れだし、項羽の元へ向かおうと船から飛び降り、そしてそのまま水に沈み、その命を長江に投げ出したのだ。
「おおお……鵻が死んだ……虞に続いて鵻が死んだ!」
生きていて欲しいと願った烏鵻、そして虞美人。
虞美人は項羽の言葉がきっかけで、自殺を図り、烏鵻は項羽が逃がしてやりたいと若者に預けたが、引き離されるのを嫌がり項羽の元に戻ろうとして命を失った。
項羽の心境はどれほどのものであったか……。
しかしそれでも、いつまでも悲しんではいられない。
項羽は立ち上がり、最後の戦いに出向く。
韓信の軍勢、その先遣隊がついに項羽達を捕らえたのだ。
しかし、それで殺されるような項羽達ではない。全員項羽に習って馬からおり、歩兵と言う状況にも拘らず、先遣隊を散々に蹴散らし、垓下のようにこの大地を敵の血で染め上げる。
しかしそれでも韓信の軍勢は先遣隊をきっかけに次から次へと現れ、ついには最後まで付き従った26人の兵が討ち取られ残すところは項羽ただ一人となった。
それでも項羽は群がる敵兵をかたっぱしから槍で貫き、叩き伏せ、敵の頭を砕く。
この戦いぶりに圧倒され韓信の軍勢は思わず足を止める。
矢を使っても良いのだが、それをしてしまえば誰が項羽を殺したか分からなくなる可能性がある。
以前とは多少事情が異なっているのだ。
そしてこの場にいる兵達はなんとしても自分が項羽の首を取りたいと思っている。
たかが一兵卒が万戸候になれる好機なのだ。
それでも項羽に向かうのは自殺行為としか思えないのだ。
そんな中項羽は、とある顔に気付く。
それは項羽の良く知った顔でありまた旧知の仲でもあった。
「誰かと思えばずいぶんと久しく見なかった顔だな」
「お久しぶりです、項羽殿」
この戦場にあってその者は礼儀正しく、そして敵であり、全てを失った項羽に対して出さえ敬意を表し挨拶をする。
「落ちぶれた俺に、そこまで敬意を払わなくても良かろう。ましてやここは戦場だぞ?」
すでにたった一人の敵しかおらず本来であれば、戦場という言葉が適しているかすらあやふやだが、項羽に関してはまさに一人で軍として機能すらするので間違いなく戦場ではあろう。
「それでも貴方様は、かつて天下を手中に収めた人物です」
「相変わらず小気味の良い男だ。劉邦はこの俺に相当な恩賞と大金をかけているそうだな。貴殿の敬意に評してその恩賞、貴殿に上げようではないか」
そして項羽は槍を捨て、自らの剣を抜き放ち首筋に当てる。
「項羽殿……」
旧知の仲の人物が目の前で死ぬというのはこの人物にとっては、歓迎したくない出来事なのであろう。
しかし、先にも項羽が言ったようにここは戦場で、項羽は敵で殺さなければならない人物なのだ。
「御最後、見届けさせていただきます」
「応!」
瞬間、項羽の首筋から鮮血が舞い上がり、天上天下に己の武を見せ付けた男の生涯はここで幕を閉じた。
そして項羽の死体に群がり賞金のおこぼれに預かろうと、味方同士で今度は殺し合いすら始まり、最終的に項羽の遺体は見事に五体がちょうどバラバラになり劉邦の前に置かれたのだ。
劉邦はため息を吐きながらも、五体をバラバラに持ってきた人物に等しく賞金を分け与えた。
───────────────
闇の中で項羽は自分自身を自覚する。
(なんだ? ここはあの世ではないのか? おい! 誰かいないのか!? 范増! 謝りたい事が山ほどあるぞ! 虞よ! いないのか!)
しかしいくら叫んでも誰も何も答えない。
(永遠に孤独な闇か……人を疑ってきた俺にふさわしい世界ではあるがな……せめて范増や虞に一言詫びを入れたかったが……)
そう思った瞬間、光が項羽を包む。
(な、何事だ!)
光が収まり、気付けば項羽は大地の上で真っ裸で寝ていた。
(くそ……何が起きたのだ……頭がまだクラクラする……)
頭を振りながらも自分が何も着ていない事にようやく気付く項羽。
(なんだ裸ではないか……裸だと!! かつては天下を手中に収めたこの俺が裸だと!)
そこへとあるものが項羽に声をかけた。
「そなた、なにゆえ裸で寝ているのだ? 追いはぎにでもあったか? この辺の野盗は全て退治したはずだがな……どのような人物に襲われたか詳しく述べよ」
(馬鹿にしてくれるな……この項羽が追いはぎごときに合うだと? 天地が逆さに振ってもありえんわ)
声をかけてきた相手をキッと睨みつける項羽。かつて覇王とまで言われた男が本気ではないにしろ睨み付けたのだ常人……いや常人以上の人間ですら震えて腰が抜ける事だってあるが、その人物は、わずかに顔をしかめるも気圧とされる様子がない。
しかしそれでも何かを感じ取ってはいるようだ。
「ふむ……これは失礼した。まず名を名乗るのが礼儀と言うものであったな。我が姓は呂、名は布、字は奉先。とある事情にて、この下邳の城を預かっているものでもある。ゆえにここら一体で野盗の類が出ると言うのは非常によろしくない出来事なのだよ」
(女だと!? どういうことだ? 女が城を預かる……なんだ 何が起きているのだ……)
項羽の感覚からすればありえるはずのない出来事なのである。
そして声の主をもう一度良く観察する。
(虞に似ている……)
「どうした? 私は名乗ったのだぞ? それほど珍しい顔でもあるまい。余りジロジロ見られると気恥ずかしくなるのだがな?」
「ああ! す、すまない! 我が姓は項、名は籍、字は羽、かつては西楚の覇王と謡われ今や全てを失った裸の王様だ」
項羽もわずかに混乱していたのであろう、馬鹿正直に答えてしまうが、聞いたほうは目を丸くさせ、一瞬沈黙をする。
そして次の瞬間、その美しい顔立ちの一部である口を大きく開けお腹を押さえ、大笑いをはじめる。
「はははははは!! ひーひー! お、お主は……くはははは……だ、だめじゃ……ひいひひいひい……た……確かに裸ではあるが……ひひひひははは……だ、駄目じゃお腹が……」
項羽は自分で何かおかしなことを言ったのだろうかと首をかしげる。
項羽と呂布、この出会いがどのような歴史を作るか……それはまだ誰にも分からない。