表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

導きの刻 Ⅰ-Ⅰ初春の夜明け

春の夜、町は暗く、静まりかえっている。

別に無人というわけではなく、時間は深夜三時。こんな時間まで起きている人はそうそういないのだ。もし、起きている奴がいるのだとしたら、そいつは間違いなく生活習慣が偏っているに違いないだろう。

 今宵は満月。三日月や十六夜の淡い黄色の光とは違い、満月の光は白く、純白の神々しい光輝が大地へ降り注いでいる。その光り輝く球体はまるで、ダイアモンドのようだった。

 漆黒の闇と言うに相応しい夜に覆われた町を、純白と左右に住宅が並ぶ一直線の道路に、間隔で設置されている街灯も手伝い、漆黒の闇をにわかにかき消している。

 家と家を分かつ塀には何匹もの猫が群がって、にゃー、と満月を仰ぐように見上げ鳴いていた。とてもかわいらしい鳴き声だ。

 ――ふと、後方の家から、ドンッ!と、大きな何かが落ちた音がした。

 その音を聞いた猫達は、一目散に逃げ出した。ある猫は遠く離れた別の塀に、ある猫は結構な高さにある屋根まで跳びあがった。皆、逃げ場所はばらばらであったが、どの猫も、さきほど群がっていた所から後ろの家を、薄暗い中ギラギラとひかる目で睨み、相手の様子を窺っていた。

 家の二階の窓は大きく開いていた。

 窓の中、一つの部屋、部屋の隅には教本、漫画、鉛筆立てが完璧に整理された机が置かれ、部屋を出る扉の隣には、いまどきの男子が着る洋服とは思えない、地味な服がステンレスに数着掛けられている。

 しかし、地味な服が掛けられているのとは裏腹に、その隣の壁には木刀、棍棒、槍など物騒な品がもたれ掛かっている。更には、透明のガラス板に安置されている長い日本刀が台に乗せられていた。もちろん偽物だろう。部屋の中心のシンプルな机には、それらに関連する雑誌や指南書が何冊も重なっていた。

「いてて・・・背中打ったぁ~・・・」

 ふと、一人の少年がベッド前で、背中を抱えて起き上がった。

 どうやらさっきの大きな音は、少年がベッドから落っこちた音だったようだ。

「熱い・・・どうしちゃったんだろう・・」

 少年が、落ちたベッドへ再びあがり、開いた窓から月を見るやいなや、ため息混じりに呟いた。

 先ほどの槍や刀は、この少年の物だろうか。少年の腕は細く、とてもそれらを操れる体格には皆無と見える。

「涼しい・・・」

 よく見ると、まだ春先だというのに、少年の体にそれこそ真夏の太陽に当てられたような、尋常ではない汗が体中から流れていた。声も少し荒いからして、うなされていたのだろう。

 数分間風に打たれたあと、少年はその場に座り込み、壁に背を預けた。そして、少し俯くと瞑想するかのようにゆっくり目を閉じた。


――ここ最近、体中熱くて起きる日が増えている気がする。

――どうしてだろう。病気かな・・・。

――けど、病気なんて一度もなったことないし。

――だとしたら体質かな?・・・おかしすぎる、かつ変だけど・・・。どうしよう・・・一度誰か相談した方がいいかな・・けど、父さんや母さんには心配かけられないし、美桜には・・・・ダメだ。美桜にしゃべったら、しばらく口聞いてくれないだろうし、どんな風に貶されるか想像したくもない――。

やっぱり、あの・・二人に、そ・う・・だん・・・す・・る・・・し・か・明日・・。

 そのとき部屋には、外から聞こえる猫の鳴き声と、窓から入る涼しげな風音、そして・・・リズムよく刻む吐息だけが虚しく続いた。

 彼はそのまま朝になるまで、瞼を開くことはなかった。


――朝。

 階段を駆け上がる音・・少して消えたが、次にはドアを手の甲でノックするのと同時に、ひとりの女の子の声がした。

「お兄ぃー?起きてる?」

 少女の問いに、返答はなかった。

 少女は、はぁ・・と可愛いらしいため息をついたあと、ドアノブに手をかけ勢いよくドアを開いた。

「もう!いいかげんに・・・ひゃあ!?」

 ドアを開けて怒鳴りつけてやろうとしたが、目の前の光景に思わぬカウンターを受けた。

 少女の眼前に、兄である沢渡春緋(さわたり はるひ)がベッドの上で、壁にもたれたまま眠っていたからである。

「ちょっ!・・お兄ぃ!?しっかりして!」

 少女が春緋に近寄り、必死に彼の肩を揺すり、起こそうとした。

 しかし、春緋に変化は見られず、起きる兆しもない。

「もうー!せっかく美桜が起こしに来てあげてるのにー!」

 少しムッとなって言い放つと、今度は力任せに両手で揺すり始めた。すると、春緋の上下に揺れる頭が、壁に勢いよく激突した。

 妹は反射的に春緋の両肩から手を離してしまい、春緋の身体がベッドに倒れた。

「・・・・お兄ぃ?・・・大丈夫?」

 心配げに言いながら、倒れた春緋の顔を覗き込んだ。

 すると、春緋の目が少しだが開いていた。半分起きているといったところだろう。

 起きかけの顔を見て妹は、事故の償いをするかのように、倒れた身体を起こしてあげようとした。だが、相手が悪い。子供やご老人を立たせるのとはわけがちがう。

「きゃあ!」

 案の定、立ちかけた春緋の身体が突然自分の身体に落ちてきた。

 彼女は、兄を支えることも出来ず、ふたりして再びベッドに倒れこんでしまった。

 結果、ベッドの上に妹、妹の上に兄貴、という男女には夢のような状態だが、妹にとっては悪夢のような状況になってしまった。

 自分の上にいる兄を懸命に引っぺがそうとしたが、なかなか持ち上がらない。別に春緋が重いわけではない。これは自分の力の無さが原因だ。

 そう自覚しながらも、この場から脱出しようともがいた。

「はぅッ・・・」

 彼女の口から一瞬喘ぎが漏れた。同時に、両肩がビクッと盛り上がった。

 春緋の寝息と寝言が彼女の耳に愛撫するように入り込んできたのだ。

 ただでさえ、男の体が自分に密着し、剰え脚まで絡んでいるのだ。

 彼女は、首まで真っ赤になるくらいの恥ずかしさを覚え、硬直してしまった。

 しかし、いつまでもこのままはマズイ。今、この場を両親に目撃されれば、弁解のしようがない。

 パパなら場合によっては説得できるかもしれないけど・・ママはダメ。五歳児の言葉だって簡単に信じちゃうほど誤解しやすいもの、きっと美桜の話に耳すら傾けてくれないに決まってる、と彼女は頭で断言した。

 その最悪の事態を回避する為、恥ずかしながらも再び、密着する春緋から逃れようともがく。

 だが、数分の格闘の末、ついに疲れ果ててしまい、虚しくも妹の頑張りは無駄に終わった。

 その後、部屋中に少女の疲労の荒い息が響き渡った。

 どうしておにぃは今日に限って起きてくれないの?

 いつもならママが呼びかけるだけで簡単に起きるのに!

 まさか、わざと?っておにぃの性格上有り得ないか、などと息が整うまで色々思惟したが、最終的に行き着くのは、原因は自分にあるだということだった。

 彼女はだんだんそのことに苛立ってきた。

 そして、右手に力を込めて思いきり兄の後頭部を殴った。自分の非力さへの恨みを、兄への八つ当たりで収めようと考えたのだ。(どうせ起きないだろし)

 すると、あの手この手を使ってもピクリとも動かなかった人形のような体がゆっくり持ち上がった。

「う、うーん・・あれ、美桜?」

 目元を人差し指で擦りながら、かすれるような声で目の前の人物を確認した。

 彼の前(正確には真下)には、自分の妹である沢渡美桜(さわたり みお)がいた。

 彼女の肩まで伸びた黒髪が浜辺の波のように形作っていて、昨日のシャンプーの芳しい匂いがまだ微かに香っていた。

 美桜は最初驚いたように目を丸くして春緋を見ていたが、すぐ顔を背けて横目でチラチラと窺いだした。

 彼女の頬や耳がみるみる朱に染まっていった。元凶がまだ彼女を跨いだまま居座っているからだ。しかし、当の本人は窓の外を眺めながら頭髪をいじっていて、全くもって妹の存在を忘れてしまったらしい。

「痛ッ!?・・・こぶ?なんで?」

 突然、春緋は苦痛な声を上げた。

 どうやら壁にぶつけた個所をかきむしってしまったらしく、寝起きから疑問の顔に変わった。沢渡春緋が突然起きたのも、美桜の右拳がこぶにヒットしたからであろう。

 しかし、おかげで少し目が覚めたらしく、自分がベッドにいないことに気がついたのか、辺りを見回しだした。

 この場を他の人が目撃すれば、今まさに妹に襲い掛かる兄としか見てとれないだろう。当然妹の美桜にも気づき、彼女を見るなり黙ったまましばらく何も口にしなかった。

 子犬に見られているかのような瞳、そんな兄の純粋な眼差しを美桜は直視できなかった。

またもや体が熱くなり、顔中が真っ赤に染まり始めた。

 すると、そんな妹を見て不思議にでも思っただろう春緋の黙った口が開き、声を掛けかけた瞬間――。

バンッ!

 大きな音と共に、春緋の体が吹き飛ばされた。もちろん吹っ飛ばしたのは美桜だ。どうやら羞恥に耐えられなかったようだ・・。

 妹の手で突き飛ばされた春緋の体はベッドの角に叩きつけられた。

「うがぁッ・・」

 春緋の苦痛の声と同時に母親の呼び声が階段から届いた。

 美桜は壁に掛けてあった学園の制服を掴むなり、ハンガーごと春緋に投げつけ、ケダモノッ!と捨てゼリフに似た台詞を残し、一気に階段を駆け降りて行った。

 部屋に残された兄は何がなんなのか分からないまま困惑し、深いため息をついた。

「いたたた、僕が一体何をしたって・・・あっ!」

 春緋は驚愕した。

 部屋の棚に置かれているはずの置き時計が、絨毯の上に横倒しになったまま転がっていて、しかも針はぴたりとてっぺんを指している。

 現在八時十五分すぎ。いつもこの時間帯はとうに登校しているはずだ。

寝坊だ・・・。

「ちょっ!・・どうしてもっと早く起こしてくれないんだよ美桜!」

 妹に文句を言いつつ、着ていたシャツとズボンを脱ぎ捨て、投げつけられた制服の埃を払い落として素早く着込んだ。

 昨夜に尋常じゃない汗をかいたせいで、制服が肌にべたべたとくっ付き、着心地は最悪といってもいい。

 しかし彼にはそんな所懐を考える暇は無く、鞄に必要な教本を入れたあと急いで部屋を飛び出し階段を降りた。


 駆け下りた後、その場で一息ついて食卓へ向かった。

 食卓では、先ほど人をケダモノ呼ばわりした妹・美桜が朝食を黙々と口に運んでいた。

 その向側に、黒のスーツを着てコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる男性。彼が僕の父・沢渡冬馬(さわたり とうま)

 細身な体型で一見どこにでもいそうなサラリーマンみたいな風貌だが、これでも一つの会社をまとめる社長さんなのだ。

 父さんはとても面倒見がよく、会社での人望も厚く何より部下思いな人だ。よく社員の人を家に招いて食卓を囲む事もある。さらに社員の悩みを聞くなど、家族のように思っている。本人もそう豪語していた。

 もちろん家族のこともいつも考えてくれている。

決まった時間までに帰宅するし、休日では仕事話は一切なし。少ない休みの時間を割いてまで家事を手伝ってくれる優しさを持っている。

 僕はそんな父さんに尊敬していた。憧れだった。

「ん?・・・どうした春緋。急いでいるんじゃないのかい?」

「あっ・・そうだった!」

 二人を眺めている場合じゃなかった。下手したら遅刻になるくらいまずい事態だった。

「・・・・って、美桜もなにのんきに食べてんだよ!?」

「何よ・・・」

 食事の手を止めた美桜が、鋭く睨み、冷たい言葉を浴びせてきた。

 春緋は一瞬たじろいだ。

「な、何って・・・遅刻するぞ」

「おにぃが悪い」

 この一方的な返しにムッと腹が立った。

「どうして僕が悪いんだよ!美桜がもって早くに起こしてくれれば・・」

「美桜のせいにしないでよ!変態!」

「変態って・・・何だよ朝っぱらから。なんでそんなに怒ってるんだよ・・・僕がいったい何したって・・・」

 すると、美桜は少し俯いてぶつぶつと呟いている。

 俯いた表情はよく分からないが、彼女の頬が微妙に赤くなって見えるのは気のせいだろうか・・。

「こーらー。朝から喧嘩はやめなさい。」

 すると、仲立ちしようと別の声が僕と美桜の間に割入ってきた。・・・しかし、勢いが全く感じられない女性の声。

 奥のキッチンから、僕と父さんの分の朝食を持って食卓へ向かってくる。

沢渡雪姫(さわたり ゆきひめ)。僕の母さん。

 息子の僕が言うのもなんだけど、結構な美人。スリムな身体に長く伸びた髪、

 それでいて幼さが残っている顔立ち。

「けど母さん、僕は・・・」

「言い訳は聞きません。めったら、めっ!」

 朝食を並べた後、くるりと僕の方を向きぐっと顔を近づけてくる。

 おっとりとした口調が吸い取っていくように、僕の怒りがスッ、と冷めていく。

 あまりに近い美麗な顔に口が堅く閉じ、何も言えなくなった。

「冬馬さんも!近くで聞いているなら止めてください」

 そう言いながら母さんが顔を引っ込め、再びテーブルへ向き直った。

 母さんが視線を変えたのになんだかホッとした。

 注意を受けた当人はと言うと、読み終えた新聞をたたみ、うーん、と僕達の会話をまるでクラシックを聴くかのように心地良くコーヒーを飲んでいた。

 ちなみに、父さんは朝いつも自分の愛用するカップに、母さん特製の紅茶を淹れて今みたいに、否、それ以上に酔いしれ愛飲している。

 だが最近は、禁煙の為仕方なく濃いコーヒーを飲んでいるが、これも僕らに迷惑を掛けない為だという。

「いいじゃないか。早朝からこんな元気な子供達の声を聞けるなんて、パパは幸せの一言だよ。ママもそう思わないかい?」

「だったらもっと家族の楽しい団欒を想像します。今はれっきとした兄妹ゲンカなんですから、父親らしくビシッと叱って下さい!」

「ははは、パパまで怒られてしまった。これじゃあ、パパもママには形無しだな」

「話をそらさないで下さい!」

「いや~、そうやって剥れた顔をするゆきちゃんもカワイイなぁ。その顔を見られただけで、今日も一日元気でいられそうだ。うん!」

「―― !?ッ・・・そ、そんな・・可愛いだなんて・・・からかわないでください・・。そ、それに・・・ゆきちゃんだなんて・・・」

 両手で真っ赤になった頬を隠しながら、困惑そうに恥らった。

「・・・・」

 はぁー・・・本気で、本当に結婚十年越えしてる夫婦なのか?

 息子達がいる前で堂々と・・。聞いてるこっちが恥ずかしくて仕方が無い。

 さっきまでのうるさいリビングが、ウソのように静寂に包まれた。

 その静寂を破り、僕を焦らせたのは父さんの笑顔の一言だった。

「うーん、少しお喋りが過ぎたかな?・・・春緋、美桜、間に合うのかい?」

 春緋は、ハッとなってリビングに立て掛けている時計を見た。

「や、やば・・・遅刻だぁ!」

 仲良し夫婦の無駄な会話を聞いている場合じゃない。

「母さん、僕、今日は朝食いいや!母さん食べちゃって。・・じゃあ美桜、先に行ってるから急げよ!行ってきまーす」

 待って!と呼び止めようとする妹を残し、春緋は急いで玄関を飛び出した。

「少しくらい・・待ってくれたっていいじゃん・ッ・」

「そんなに落ち込まない、美桜。春緋はただ、友達をこれ以上待たせたくないんだろう。春緋にとって、とても大切な友達を・・・」

「そうよ。別に美桜ちゃんの事が嫌いになったわけじゃないと思うの」

 悲しんだ美桜を察してか、冬馬と雪妃が励ましの言葉を掛けた。

「ちょっ・・パパもママもやめてよ。どうして美桜が、あんな薄情なバカおにぃに落ち込まないといけないのよ!冗談言わないで。あーもう、ありえないありえない」

 そうやって否定する美桜に、母の雪妃がそっと藍色のハンカチを手渡した。

 そして、にっこり微笑みながら自分の目尻を指差し、ジェスチャーし始めた。

 それを見た美桜は、同様に目に手を当ててみた。そして、指に微かな違和感を覚えた美桜は焦った。

 その指には、小粒だが生暖かく、一粒の確かな水滴が乗っている。それは、彼女自身の目元から漏れた物だ。

「ち、違うのッ!・・これは・・・そう、これは、あいつへの怒りから出た産物よ。妹を置いてけぼりにする兄が、あまりにも最低だったから、大きな怒りの一片が哀れに思って美桜から溢れ出したのよ、きっと。うん、絶対そうよ!」

 涙を払い、母親にハンカチを突っ返し、変に疑われぬよう笑顔で自分に言い聞かせるように言い放った。

 自分で言っておいてだが、美桜は二人をごまかす自信が無かった。

 自分が言った言い訳も、思い返すと明らかにおかしい個所がある。

 表現の中で、あまりの怒りに涙を流す、という言葉があるが、それはよく比喩として使われる事が多く、実際に怒りに涙が出るのは悲しみの裏返しだ。哀れという単語の意味にも悲しみが含まれている。それに、何より少し早口にもなっていた。

 これでは、相手に自分は兄に置いて行かれて悲しんでいます、と捉えられても文句は言えない。

けど認めたくない。知られたくない。美桜はただただ天に祈るしかなかった。

 そんな娘の言い訳を聞き、冬馬と雪妃はしばらくお互いを見合わせた後、小さく微笑み合い、優しく話してきた。

「そっか、美桜が言うなら本当だな。だけど、あまり春緋を責めないでやってくれ。いつも言っているけど、春緋に悪気は無いんだから」

 父親の意外な言葉の後、母親が橙色と桃色でそれぞれ包まれたお弁当を渡してくれた。

「遅刻するからって、慌てすぎないようにネ♪」

 さり気ないウインク。相手が男であれば、一瞬で射抜かれているだろう。

 二人の優しさに複雑な気持ちを覚えながらも、これ以上墓穴を掘らないよう、行ってきます、と一言だけ言って美桜は家を出た。


 午前八時半、弱。太陽が雲ひとつ無い青空に居座っていた。

 昨夜の気持ちのいい風が、まだ休まず吹き続けている。その風に乗せられ、鮮やかな桜の花びらが何処からともなく舞っていた。

 道路では、制服を着た生徒がたくさん学園へ向けて歩いている。中には、慌てて準備したのか、髪が乱れている人が何人かいる。いつものいつもなら・・・・。

「ごめん、竜牙!遅くなって・・・って、あれ、竜牙?」

 家を飛び出し、勢いに任せて頭を下げて謝ったが、返事がなく、顔を上げて見たのは、誰も登校していない住宅街。竜牙と呼ばれた者は、僕の前には居なかった。

 虚しく流れる静けさ。

 ふと視線を感じ見上げると、布団を叩きにベランダに出ていた主婦が嫌な目でこちらを見ていた。まるで珍獣でも見ている目だ・・。

 その主婦と目が合い、なんとなく苦笑・・・・。それを見た主婦は、逃げるようにそそくさと中へ入ってしまった。

 やってしまった、と深くため息をついた。近所の噂にならぬ事を祈りつつ、酸素を肺へと循環させるため、大きく深呼吸しょうとした瞬間。

「!?・・うぅッ・・んっ!」

 突然喉が閉められた。首が力強く圧迫され、息苦しい。明らかに男のものだ。そして、その男を僕はよく知っていた。

「やあ、春緋君。今日はいい天気だというのに、何をそんなに肩を落としているんだい?」

 耳元で聞こえる声。予想した通り、やっぱり彼だ。

「りゅ・・竜・・牙・・・く・・」

「うーん、何かなぁー春緋君?」

「首・・・絞まっ・・・て・・るっ!」

 爽やかに言うも、彼は力を緩めようとしない、むしろさらに強めてきている。

 苦しくて、意識が少しずつ遠のいてき始めて来ても、彼は一向に離れない。

「聞きたい事があるんだけどなぁ。答えてくれるなら、この腕幾らでも緩めてあげるよ――」

 彼が話す中、力が全く入らず、もう諦めて近づく闇に身を任せようとした時、何かが顔の隣をすれすれで横切った。

 瞬間、喉を圧迫していた腕が外れ、開放された。

 その隙に、命一杯息を吸い込み、急いで遠のきかけた意識を取り戻す。

 フラフラで家の塀に手を付き、まだ少し酔いに似たダルさを頭に抱えながら、助かったと安心しつつ、ついさっき顔の横を疾走した何かを思案しようとした時だ。

「・・・大丈夫?」

 誰かが背中を優しく擦ってくれている。

 さっきの殺人未遂犯かと思ったが、その声が男声にしてはあまりに高いのに驚き、思わず振り向いた。

しかし、振り返った先に立っていたのは、首を絞めた悪魔ではなく、天使のような女性(意識が朦朧なため思考が飛躍)だった。彼女のことも、悪魔と同じ位よく知っている。

「立てる?・・・手、貸してあげよっか?」

 彼女、月村神無(つきがげ かんな)がニッコリと言うと、手を伸ばしてくれた。

「あ・・・ありがとう」

 少しだけ躊躇しながらも、彼女の手に捕まりゆっくり立ち上がった。

「全く、どれだけ待ってても姿が見えないから先に行っちゃおかと思ったけど・・・迎えに来て正解だったわ。こういう事だったのね・・・」

 先ほどの天使の微笑みが一転、神無の言葉に徐々に怒りが含み出している。

 理由は単純明快。

 僕の寝坊からの遅刻する時間。まぁ、寝坊は僕だけの責任じゃない気もするけど・・・。

「ごめん、神無の言いたい事分かってる。実は昨夜、なかなか寝付けなくて・・」

 とりあえず陳謝した・・・が、これまた相手の返事が無い。

 訳すら聞いてくれないということだろうか・・・。

 しかし、それも無理もない。なにせ彼女の家は、この咲坂町一、やけに標高が高い山の頂上にあるのだから。片道二十分もかかる為、朝早くに起きなければならない。それに何十分と待ち時間が上乗せされれば・・・。

 今、彼女がどんな表情で僕を見ているかは分からないが、なかなか頭を上げれないのは言うまでもない。――怖いんです。

 だが、このままずっと下げている訳にもいかない。うーん、だったら。

 自分も男に生まれた身。男なら女性一人の怒りくらい受け止めて見せろ。

(・・ん?・・・こんなに男らしい考えって僕にあったっけ?)

「・・・ハル・・何してるの?」

 神無の問い掛けが聞こえた。

 しかし、聞き間違いじゃないだろうか・・。不思議と怒っているようには感じなかった。

 ゆっくりと顔を上げて見ると・・・え?

「・・・え?」

 激怒で返事をしなかったと思っていたのが、全くのハズレ。

 彼女の表情は茫然・・・というか戸惑っているように見える・・。

「え、じゃないわよ。どうしていきなり謝るの?」 

「どうしてって・・・言われても・・・だから」

 何故か謝った理由を聞かれ、ありのままを話そうとした時。

「オラァー!!お前ら、俺をほったらかして何二人して話してんだよ!・・特に神無ッ!!・・いくらなんでも朝の挨拶に蹴りはないだろ!」

 僕と神無の間に割り込んで来たさっきの悪魔・・・もとい、友達である立花龍牙(たちばな りゅうが)は、少しばかり涙目になりながら、鼻を押さえていた。

 耳元で聞いたのとは打って変わって、鼻声になりながらも張り上げる罵声。

あの爽やかな声は一体何処へ行ったのやら・・・・ん?

「・・・蹴り?」

 瞬間、意識が飛びかけた時の記憶が蘇り、頭を駆けた。

 細く・・・長く伸びた足。蹴りの勢いで翻る制服の裾――。

 そして、大胆に開けた・・・・・は、見えなかったことにしよう・・・。

(――と、とにかく・・あの物体は、龍牙の鼻を蹴り飛ばした神無の脚だったとッ!)

 無理矢理ながらも自己解決した。

「どーせまたハルの悪影響になることでも植え付けようとしてたんでしょ。ハルは純粋で素直な男の子よ。そんなハルを、竜牙みたいな二次元だのなんだのに現を抜かしたバカで汚さないでくれる!?」

「お前は春緋の保護者かよぉ?・・・別に何も言ってねえよ。ただ、春緋に聞きたい事があっただけ・・・てか、二次元のどこが悪影響だよ!むしろ逆だろ、逆!・・・いいか、萌キャラは男の浪漫であり、時には悩みやストレスを解消してくれる救世主であってだなぁ・・・」

「人物はどうでも・・・良くないけど、あたしが言ってるのは人じゃなくて、製品の方よ。あんたの部屋の棚にぎっしり詰め込まれたあの危険な物が悪影響だって言ってるの!」

「――なんだエロゲーの事か」

「簡単に口にしないで!」

 なんだか思い返してる間に口論が始まってしまった。

 まぁ、いつも観る光景なのでこれと言って別に慌てる必要はない。

 どちらかというと二人が話す話題に焦ってます。・・・小声、又は別所でお願いしたいです。

「・・・えっ?お兄ぃまだ居たの?お兄ぃ達、完全に遅刻だよ!」

 後方から突然声をかけられた。

 振り返ると、妹の美桜があわてた顔つきで僕らを見ていた。

 無論、その表情を見た僕も平静を失い・・・。

「ちょっ、龍牙と喧嘩してる場合じゃないって神無・・・って聞いてよ!」

 全く相手にされず無視。目すら合わせようとしてくれない。が、それはそれで構わない。もう、自分に説得する余裕もないから。

 「走るよ!」と美桜に急かし、ヒートする神無の腕を強引に掴んで引っ張った。彼女の表情は戸惑っていたようだけど、関係ない。

 彼女の顔をこれ以上見ず、問答無用に引き連れ、美桜が付いて来ているのを確認し、そして一気に走りだした。

――龍牙はともかく生徒会長を遅刻させるのはマズイ。

 予鈴チャイムが鳴ってから先生が教室に入るまで2~3分、全力疾走で行けば間一髪間に合うかもしれない。

「え・・?待てって!俺を置いて行くなって!まだ肝心な事聞けてねぇっての――。」

(あれ?・・何か二人に話そうと思ってたような・・・・・ま、いっか・・。)

 そして彼らが去った住宅街は再び静まりかえった・・・。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ