7話 パンの残り香
焼きたてのパンの上で、チーズがぷつぷつと泡を立てている。軽く降りかけられたバジルと合わせ、まろやかな香りで空気を優しく包んでいく。
立ち込める蒸気。まるでたった今オーブンから出したばかりのようで、見ていると思わず唾を飲み込んでしまう。立ち込める香りと共に、猛烈に空腹感を掻き立ててくるのだ。
そんな逸品を前に、リダは目を輝かせて至福の瞬間を待ちわびていた。
「も、もう我慢できませんよぅ」
「もうちょっと待ってくれ。あとはこのオリーブオイルをかければ……」
懐から小さな瓶を取り出し、中の液体を少量パンに捲いた。ほんの数滴であったのだが、その瞬間にチーズの香りに爽やかなキレが生まれた。顔を近づけていたリダは、その変化を敏感に感じ取って幸せそうに頬を緩ませる。
「あ、ふああぁぁ……」
「あっ、またトリップしてるよ。ほら、もう食べていいぞ」
「は、はいぃ!」
言うが早いか、リダはすさまじい勢いでほかほかのパンにかぶりついた。溶けたチーズが長く伸び、パンの淵からオリーブオイルが少しずつ滴る。
しばらく口をもごもご動かしていたリダだったが、含んでいた分をこくりと飲み込むと、小さく息を吐きながら恍惚の表情を浮かべた。
「うまいか?」
「はぅぁ……」
返事を聞くまでもなさそうだ。
「……ガルドは食べないんですか?」
「ん、もう少ししたらな」
「そうですか」
自分の事を気に掛けられ、ガルドは適当に返事をした。リダの事ばかり考えていたので、自分の食事は何も考えていなかったのだ。一緒になって食べてもかまわなかったのだが、リダがもう少し食べ進んでからにしようと決めてテーブルで頬杖をついた。
「はむ……ふむふぐむぅ……、はむっ」
「……」
パンを口に運ぶ度にリダのポニーテールが揺れる。質素な黒いリボンで結わえられたそれは、今までガルドの見てきたどのポニーテールよりも長く大きい。それだけに、ガルドにとってはリダのシンボルのようなものだった。鮮やかな水色の髪は丁寧に手入れされているのか、思わず触りたくなるほどの艶がある。
それだけならば可愛らしい少女としてやや注目を集める程度だっただろう。
だが、そういったイメージをあっさりと打ち崩す要因が、リダの座っているすぐ横に立てかけられていた。
リダの身長を超える、巨大な鉄斧。
闘いの場において、リダが最も得意とする武器。
刃物ではあるが、『斬る』というよりもその重量を活かして『叩き割る』といった方が用途を的確に表現していると言える。
腕力に自信のある成人男性でも両手で叩きつけるように使うのがやっとのそれを、リダは軽々と振り回すのだ。しかもそれを持ったまま走り回ったり跳び上がったりと、その身体能力は人間のレベルを逸脱している。
だからといって、ガルドはリダを特別扱いしているわけではない。
常識外れな腕力と俊敏性を除けば、こうしてちょっとした御馳走にも目を輝かせる普通の子供なのだ。それを理解しているガルドは、普通の子供と全く変わらない対応をすることにしていた。
「あぁ、そろそろ俺も飯にするか」
しばらくリダの食べる姿を眺めていたガルドだったが、自分も同じように空腹であることを思い出すと自分も朝食を取り出した。
リダのものと同じ大きさのパン。ただし、色はそちらと比べるとずいぶん黒い。リダの物は丁寧に挽いた小麦粉を多く使用しているが、こちらはライ麦の割合がかなり多くなっているのだ。コストがかからない分、味や食感はややランクダウンしてしまう。
苦い上に、非常に固い。長期間保存できるので長旅には良い食料なのだが、贅沢を言えばあまり口にしたいとは思えない代物だ。
金がないわけではない。ただ、自分の食事だと思うともったいなく感じてしまったのだ。
買った当初、ガルドはそんな風に考えてそれを疑いもしなかった。だが、目の前でこうも美味しそうに食事をされるとやはり辛いところがある。リダに気を遣わせたくないので口にはしないが。
「……ガルドのパン、僕のと違いますね」
ちまちまとかじっていると、既に半分以上食べてしまったリダがライ麦パンに気付いたようだ。自分の物と見比べ、興味深そうにその眼差しを向けている。
「俺のは安物だからな」
「美味しいんですか?」
「普通、だな」
おいしくないとは言わなかった。そのかわり、その固いパンをもう一口押し込む。固い外側を力の限り噛みちぎるが、リダのように食事を楽しめるほどの余裕はなかった。
「じゃあ、僕のと交換しましょう! すごい美味しいんですよ!」
「は?」
何が嬉しいのか、リダは笑顔のままほぼ完食していた自分のパンとガルドのライ麦パンを取り替えてしまった。食べかけのパンから残っていたチーズがゆっくりと垂れ、ガルドは指ですくってパンに載せなおす。
そうしている間に、ほとんど食べられていない黒パンにリダがかぶりついていた。
固くて食べられないのではないか。そう思ったのは一瞬だけで、リダの幸せそうな表情を認めるとすぐに考えを改めた。
「むぐ、むぐ……これも結構おいしいですね。僕はこっちの方が好きかも、です」
そのまま無遠慮に食べ進めるリダ。瞬く間に黒パンはリダの口へと消えていき、結局ガルドが口を挟む前に完食してしまった。
「ごちそうさまでした」
あとに残されたのは、たった一切れのチーズ載せパン。口に放り込むと、確かに黒パンよりも上質な旨味が口の中に広がったが、すぐに食べ終わってしまった。
「……」
「あれ? ガルド、どうかしましたか?」
「リダ……一個じゃ足りなかったんだな?」
「あ、はい。でもガルドのパンも分けてもらったので……」
「で……俺の分は?」
「……へ?」
「俺のことはすっかり忘れていたと、そういうことか」
「……」
「……」
「ひ、ひあぁぁぁぁ! ごめんなさいぃ!」
笑っていない笑顔を向けると、リダは椅子の上で縮こまってしまった。そのまま頭を抱え込み、半泣きの表情でガルドの様子をうかがっている。
もっと厳しく躾けなければならないとガルドは思うのだが、リダの肉親というわけでもないのでそこまで強気になれない。しかもこの状況は、傍から見れば自分が少女を苛めているようにも見えてしまう。
「……まあいいさ、お前が満足なら」
下手に誤解を招くより、さっさと機嫌を直すかこの場を立ち去った方がいいだろう。そう考えたガルドは、意味のない苛立ちを抑えこんで勢いよく立ちあがった。
先ほど前を通りかかった際にはもう少し人がいたはずなのだが、あらかた出払ってしまったらしく、掲示板の前の人の姿はまばらだった。
「……確かに、こうして見るといろんな内容がありますね」
眺めていたのは明らかに腕自慢の賞金稼ぎばかりだったが、こうして見てみると依頼のバリエーションはかなり幅が広い。
単なる討伐だけでなく、逃げたペットの捕獲や買い出し、荷物の配達から農作業の手伝いまで、ありとあらゆるベクトルの『困ったこと』が集められているようだ。エルクたちでもできそうな内容の依頼もちらほら見受けられる。
「最近は討伐依頼やるヤツばっかになっちゃってさ、みんなみたいな人手が欲しかったんだよねー」
「……あれ? いつの間にか上手く利用されてる気が」
「あ、これなんかどう? 初めての依頼にちょうどいいんじゃないかな」
嬉しそうにするエディカが無造作に一枚の依頼を剥がし取る。エルクの発言は意図的に無視したようだ。
舌戦では勝ち目がない気がしたので、エルクは仕方なく押しつけられた紙切れを受け取って内容に目を通した。左右からメフィとシューラも興味深そうにのぞきこんでくる。
綺麗な字で書かれているその依頼は、どうやら何かのハーブを調達してきてほしいという内容のようだ。依頼人はハーブティーを作るのが趣味で、ちょうど切らしているハーブを摂ってきてほしいらしい。
「ふーん、ハーブかぁ。簡単そうだけど」
「僕らにできますかね?」
これならできるかもしれないという期待と、失敗を想像すると湧き上がってくる不安。他に選択肢は無くても、エルクは訊かずにはいられなかった。
「これだけで家を建てるのは無理だろうけど、生活していく分には困らないと思うよ。結局は自分の頑張り次第としか言えないわけだけど」
「……私たち三人分も、ですか?」
「そんなの、三人で頑張ればいいじゃん」
依頼をこなした分だけ収入が得られるわけなのだから、それは当然の事だろう。不安定な生活を強いられることになるのは、旅に出た時点で全員覚悟ができている。
テロ集団を追い、正体不明の連中に追われ、その上依頼をこなしている余裕があるかは分からない。だとしても、もうエルクたちに他の道は残されていないのだ。
「そろそろあの連中もいなくなったかな。……もう出発する?」
名残惜しそうにエディカが問いかける。
「そうします。じっとしている時間は、まだ僕らにはありませんから」
対するエルクは、自嘲気味にそう答えた。
「そっか」
エルクの返事を聞いて、それまで活発な印象だったエディカの笑顔が寂しそうなものに変わった。笑顔であることに変わりはないのだが、その目はどこか遠くに向けられているようだ。細かい表情の変化はなく、彼女が何を考えているのかまでは分からなかった。
「……どうかしたの?」
「ん、なんでもないよ。ごめんごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」
恥ずかしそうに頬を掻くエディカ。そこに先刻の寂寥感は残っていない。
「私もいろんな街に行って依頼を受けてまわってるから、どこかでまた会えるかもしれないね」
「会えるかなぁ……私たち、なんて言うか……明日の見えない道を歩いてるから」
メフィが哀しそうにそう呟いた。
普段は弱音を吐かずに気張っている彼女も、やはり不安はあるのだろう。こうして胸の内を吐露する瞬間、エルクは彼女の本当の思いを感じてやりきれない気持ちになる。
「また会ったら、その時はまたパンでも作ってあげるから。気持ちは強く持たなきゃダメだからね?」
「うん」
エディカは何を察したのか、メフィの肩に手を置いて彼女の顔をじっと見つめた。不安そうにしていたメフィだったが、エディカの顔を見ているうちに少しずつ普段の元気を取り戻してきたようだ。
「……そうだよね。ありがとう、エディカ」
少しでも気が楽になっただろうか。もしそうなら、それはエルクにとっても嬉しいことだった。
「……エルクさん」
しばらく黙っていたシューラがエルクの袖を引っ張ってきた。なぜか声をひそめ、しきりに窓の外を気にしているようだ。
「どうしたの? あ……ひょっとして、さっきの奴らが?」
「い、いえ……そうじゃないんですけど……」
しばらく口をモゴモゴさせていたシューラだったが、ついに言うのを諦めて俯いてしまった。窓の外も見なくなったので、気にしていた何かはどこかへ行ってしまったのだろう。
「気になることがあったら早めに言ってね。早く行動することに越したことはないから」
「は、はい……」
エルクは安心させようと言ったつもりだったが、彼女の表情が晴れることはなかった。
「それでは」
「お世話になりましたー」
「あ、ありがとうございました」
三者三様の挨拶を口にしてその足を外へと向ける。まだ仕事が残っているらしいエディカは、もうしばらくここにとどまるそうだ。むしろ責任者としてはずっといるのが普通なのだろうが、いまさら突っ込むような真似は誰もしなかった。
「ん、頑張ってねー」
ひらひらと手を振るエディカ。顔に浮かべている明るい笑顔は、会った時と変わらない印象だ。
そうして見送られながら、三人はギルドを後にした。
「ふぇぇ……すみません……」
とめどなく溢れ続ける涙をぬぐいながらガルドの後をついて歩いているリダ。斧はベルトでしっかりと留めて背負っているのだが、大きさが身長を超えているため、たびたび地面と擦れて鈍い音を放っている。
リダにズボンをしっかりと握られているガルドは、何度目とも分からない謝罪を受けてそっとその頭を撫でた。
「もう泣くなって。新しいヤツ買って食べただろ?」
「でも……でも、ガルドは無駄遣いが嫌いなんでしょ?」
「いや、こういう時の食費までケチるつもりはないが……お前が大食いなのは会った時から分かってるし」
自分の読みが甘かっただけのことだ、とガルドは小さく笑う。
行動を一緒にするようになった当初は、小さな体のどこに収まってるんだと驚いていたのを思い出す。そういうものだと割り切ってからは全く気にしなくなったが。
「ガルドには僕のせいで嫌な思いしてほしくないんですよぅ」
「そう思うならもう少し自分の食欲をだな……おっと」
「あっ」
後続のリダに気を取られすぎていたせいか、すれ違った少年と肩がぶつかってしまった。
「あぁ、ごめん。よそ見してた」
「あ、いえ、こちらこそすみません」
どうやら少年の方も地図を見ながら歩いていたようだ。お互いそれではぶつかってしまうのも無理はない。
「ちょっとエルク、前見て歩かないと」
「地図を押しつけておいて言うかなあ……」
少年は他に少女を二人連れていた。そのうちの一人が彼に対して延々と話しかけており、少年は苦笑しつつその対応をしている。二人の関係がそれだけでおおよそ推し量ることができた。
もう一人の少女は、奇妙なキノコの帽子を被っている。こちらは二人の会話に介入せず、なぜかガルドのことを怯えたような目で見つめている。
平均年齢を含めて変わった集団であったが、わざわざ口出しするようなことでもない。そのまま通り過ぎ、すぐに彼らの事など忘れてしまうことにした。