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ぼくらの天使  作者: 半導体
二章
39/56

38話 父からの手紙

 エルクの目の前にはフォークに刺さった鹿肉がぶら下がっている。

 じっくりと炙られて深みの増した香りと共に、やや赤みの残る肉色が食欲をそそる。味付けとして淡い黄色のソースがかけられており、宙で揺れる肉にあわせてそれが一滴垂れた。

 空腹になっていればすぐにでも口に運びたくなる逸品だが、エルクにはそうもいかない理由がある。もちろん、自由を封じられている腕だ。

「しょうがないから私が食べさせてあげる」

「いや、自分で食べるよ」

「その手じゃ無理よ」

 包帯で雁字搦めにされた手でフォークを持つことはできない。肉を携えた目の前のフォークを現在代わりに握っているのは、エルクの補助をするにあたって妙に目を輝かせているメフィだ。彼女からすすんでその役を引き受けたのは、純粋にエルクの看病をしたいからではないだろう。

「観念しなさいっ。ほら、あーん」

「…………」

「あーん!」

「……あーん」

 気恥ずかしさから開かずにいた口に無理やりフォークをねじ込まれそうになり、エルクは観念して口を開く。その直後、乱暴な手つきで鹿肉が突っ込まれた。さっぱりとした味わいが口の中に広がるものの、それを楽しむ余裕を持てないまま思わず顔をしかめてしまう。

『羨ましいねえ。仲良しの女の子にそんなことしてもらっちゃって』

「そんな上品ならよかったんですけどね……」

 茶化すようなキプリに対して苦笑するエルク。

「こういうのいいねっ。なんていうか、征服感があるよね」

「こんなこと言ってますし」

 晴れやかな笑顔のまま凄まじいことを口走ったメフィを流し目で見て、エルクは諦めたような溜息をついた。


 日が暮れかかった頃になって外出していたメフィとシューラが戻ってきて、今は全員で夕食をとっている状況だ。極端に豪勢ではないが、エルクたちにとっては充分な御馳走がテーブルに並べられている。旅という状況のために偏った食事が多いエルクたちにとっては至福の時間だ。

「かなり豪華ですよね。その……失礼ですけど、大丈夫なんですか?」

 里の限られた土地を考えると、食料事情も余裕があるとは考えにくい。それを懸念しての質問だったのだが、キプリはあっけらかんとした様子で笑って見せた。

『そんなに気にしなくていいよ、子供三人分に窮するほど切羽詰まってるわけじゃないし。というか、これもそんな贅沢って物じゃないよ?』

「そうなんですか? 鹿肉なんて、外じゃ滅多に食べられない代物でしたよ」

『この山、動植物は結構豊富なんだよね。蜘蛛族は昔から狩りが得意だったから、むしろ肉料理は充実してるよ』

「狩り、ですか。それってやっぱり」

『うん、たぶん想像通りだと思う』

 実際の蜘蛛と同じように糸を操ることができる彼らにとっては、狩猟とはまさに種族に適した食料の調達方法と言える。もちろん対象は小さな虫ではなく、今食べているような大型の哺乳類まで含まれているのだろう。

 虫の如く糸に絡まってもがいている鹿というのも想像しにくい情景ではあったが、蜘蛛族にとっては当たり前のようなことなのかもしれない。

「そう聞くと、糸が使えるってすごいことだって思いますね。人間はそう上手く鹿を捕まえられないですから」

「私たちも無理だと思います……。あんまりお肉を食べないというのもありますけど」

 シューラも感心した様子で目の前の肉料理を眺めている。植物族にとっても驚嘆するほどの事実だったようだ。

『まあ、早く良くなるように体力のつく料理を出してるのは確かだけどね。普段は割と偏った食事が多いから』

「気を遣わせてしまってすみません」

『いやいや、当然のことでしょ。シオリのことも含まれてるわけだし、本当に気にしないで』

「そうですか。そう言ってもらえると助かります」

 本当に大したことではないといった様子で手を振るキプリ。竹を割ったようなさっぱりした性格のおかげか、彼女と話しているだけでエルクの気分まで明るく転向していくようだ。

 数日間気を張り続けていた反動もあり、エルクはこの和やかな食事の時間に暖かな安心感を覚えていた。

 普段よりも人数が多いからか、しっかりした家屋での食事だからか、あるいは純粋にキプリの人柄のなせる業か。いずれにせよ、余計な緊張感を抜きに料理を楽しめるこのひと時は、エルクに安らぎを覚えさせるのに十分な安堵をもたらしていた。

 落ち着いて過ごせる貴重なこの時間を、じっくりと噛みしめる。

「……なんでそんなに嬉しそうなのよ」

 表情を綻ばせていたところ、どこか不服そうなメフィによって一際巨大な肉塊が口にねじ込まれた。



「……」

 キプリを含めて会話を弾ませている横で、シオリは黙々と食事を続けている。

 キプリの『糸』はシオリにも繋がれており、エルクやシューラも時折気にかける様子を見せるが、シオリはあえてそれらを無視して会話に参加しないことを選んでいた。父親について考え事をしていると思ったのか、あちらから話しかけようとはしてこない。

 その気遣いに、シオリは内心でのみ感謝していた。

 父親のことを考えていたわけではない。広い意味では父親のことも考えているのだが、エルクたちの考えているであろう内容とは異なる。


 シオリの脳裏を駆け巡っているのは、今よりもずっと昔の記憶の数々。

 エルクたちと出会うよりも前。

 父親と別れるよりも前。

 この里に移り住むよりもさらに前。

 『ここではないどこか』で、親子三人で暮らしていたころの記憶。


 まだシオリが五歳にも満たない頃のことで、断片的な記憶しか残っていない。それでもシオリは、覚えている限りのことをしっかりと頭に焼き付けている。

 そこでの生活は決して裕福ではなかったが、これまでのシオリの人生のなかで最も充実した期間だった。人間や蜘蛛族といったしがらみはまだ知らず、大好きな父と母が自分のすぐ傍にいるだけで幸せを感じることができた。

 幼かった彼女は、この時間が永遠に続くものだと思っていた。今ならばそんなことはありえないとすぐに理解できることだが、当時の彼女は本気でその生活が無限に続くものだと信じて疑っていなかったのだ。

『パパ!』

 シオリと手をつなぎ、父親が笑う。

『ママ!』

 シオリの頭を撫で、母親が笑う。

『パパ、ママ、大好き!』

 そんな二人に挟まれて、シオリも笑う。

 どこにでもあるような、仲の良い家族の姿。他の家族と触れ合う機会はほとんど無かったものの、これが幸せなことだというのは子供心なりに理解していた。

 ――もう、あんなふうに笑えることはないかもしれない。

 当時と今の自分を比較し、シオリは自分がひどく荒んでしまったことを認めてやりきれない気持ちになった。



「シオリ?」

「っ!」

 突然の呼びかけに驚き、息を詰まらせながら慌てて意識を現実に呼び戻す。

「こっちで一緒に食べない? せっかく美味しい御馳走なんだし、一人じゃ味気ないでしょ」

 声をかけてきたのはメフィだ。他の二人のように雰囲気から気を遣うだけの注意力は持っていないようだ。とはいえ、それが彼女の良さでもあると理解しているシオリに批難するつもりはない。

「あ、シオリにも食べさせてあげようか?」

「……」

 メフィの無茶な提案には首を振る。エルクと違い腕が使えないわけではないので、食べさせてもらうというのはただ恥ずかしいだけだ。

 申し出を拒否されたメフィは一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、すぐに明るい表情を取り戻して頷いて見せた。

「そっか、残念。もし一緒になりたくなったらいつでもこっちに来てね」

 それ以上我を通すつもりはなかったようで、先刻まで料理を食べさせていたエルクの方へ戻っていく。面倒見がいいと言うより、彼で遊ぶのが好きなだけらしい。

「そういえばメフィもシューラも、今日一日何してたの? まさか蜘蛛族の人に会ったりしてないよね?」

「お、よくぞ訊いてくれました! 私とシューラの壮絶な冒険譚をエルクも聞きたいのね」

「……一応忠告しておくと、あんまり自分でハードル上げすぎないほうがいいよ」

「そ、そんな大したことしてませんよエルクさん」

 再び仲間内で話に花を咲かせ始めた三人を眺めながら、シオリは自分の中で様々な思いを巡らせていく。


 ――最後にああやって笑えたのはいつだったかな。

 日常から『幸福』が消えて以来、心の底から笑った記憶は一つも無い。恐懦(きょうだ)や苦悩と隣り合わせの状況で過ごす日々の中で、喜びを感じられるような出来事は何一つなかったのだ。

 数日前まではそれを苦痛とも感じていなかった。他人との接触も目に見えて減り、疑心に埋もれて過ごすだけの、単調にして暗中のような毎日。それが積み重なっていき、いつしか自身が孤立した存在であることも当然のことだと感じるようになっていた。

 この数日の間に、それが大きく覆された。それも、最も嫌悪していたはずの人間によって。

 ――彼らと会ってからなんだか変だ。昔の自分なら絶対に許せないようなことを自分からしている。

 人間と同じ部屋で寝泊まりすることはもちろん、言葉を交わすことすら一生無いと考えていたのだ。それだというのに、エルクやメフィに声をかけられるとその決心が揺らいでしまう。彼らに対する警戒心が、どういうわけか薄らいでしまっているようだ。

『私と友だちになって!』

 黒服に捕まった際、助けに来たメフィから差しのべられた手を思い出す。

 人間はおろか、キプリを除く同族の人々にも心を閉ざしていたシオリ。誰も寄せ付けない氷冷の壁の内側に閉じこもり、自分の世界に他者の介入を認めなかった。

 だが彼女の手が向けられた瞬間、シオリの中で厚く張っていた氷の壁が溶けていき――気がつけば、自然とその手を握り返していた。

 ――まさか、自分から握り返すなんて。

 その時の自分がどんな表情をしていたかは知らない。しかし、彼らに対する敵意がその瞬間に消えてしまったのは確かだ。心境に大きな変化が訪れたのは、おそらくこの時だろう。

 これ以来メフィはシオリのことを『友だち』として扱うようになり、シオリもその扱いを受け入れることにした。

 彼女の中で孤独への恐怖が芽生えたのはそれからだ。

 傍に誰もいないというかつての状況を思い返すと、どうしようもないほどに胸が苦しくなるようになった。そして自分の横にキプリやエルクが、食事の際にはメフィとシューラも居るというだけで安堵を覚えるようになったのだ。それは彼らが特別な人間なのではなく、シオリの方に変化があったのだろう。

 自身が変わってしまった理由をシオリはよく分かっていないし、分かろうともしていない。ただ、そうした変化を許容できるほどにシオリの心は彼らを受け入れているのだろう。

 今のシオリは、独りでいることが怖い。自分しかいないという状況が恐ろしく感じるようになっていた。

『いいか、シオリ。人間は恐ろしい種族だ。絶対に心を許してはダメだ。彼らと関わるのは、戦場で敵として向かい合う時だけでなければならない』

 父の言葉が蘇る。

『人間はお前からママを奪った。その悔しさを、怒りを、絶対に忘れてはいけない』

 何があろうとも絶対不変の(ことわり)であった言葉。それが今、何の抵抗もなく崩れ去ろうとしている。

 ――パパ、あたし分からないよ……どうしたらいいの?

 口に出すことの叶わない疑念を抱き、シオリは独り悩み続ける。



『シオリ、ちょっといいかい?』

 優しく触れるようにキプリが声をかけてきた。

 シオリが考え事を始めたあたりから、キプリはしきりに何か言い淀むような素振りを見せていた。シオリと話したいことがあったが、雑談で盛り上がるエルクたちの手前ではなかなかタイミングを掴めずにいたようだ。今は彼ら三人で盛り上がり始めているので、会話の輪から外れても大丈夫だと判断してシオリに声をかけてきたのだろう。

 どうやらエルクたちとの糸の接続は一時的に絶っているらしく、三人はこちらの様子に気づいていない。あえて聞かれないようにするほど彼らに聞かせにくい用件なのだろうか。

『なに?』

『これ。エルクから渡すように頼まれてね』

 体で隠してエルクたちに見えないようにしつつ、キプリが懐に手を入れる。

 しばらくまさぐってようやく目的のものを捉えられたようで、したり顔でシオリに『それ』を手渡してきた。差し出していた手の上からさらに手を重ね、シオリの手を優しく包み込む。

『遅くなってゴメンって伝えてくれ、だってさ』

 もったいぶるように『それ』の姿を隠していた手がどけられる。

 シオリの手に握られていたのは、手作りとおぼしき小さなペンダントだった。

「……!」

 高価な品というわけではない。目を見張るほど精巧に作られているわけでもない。言ってしまえば、どこにでもありそうな簡素な品だ。

 だがシオリにとって、『ペンダント』が示す意味にはとてつもなく大きなものが含まれている。

『それからこれも。ちょっとボロボロだけど、中身は見てないから大丈夫』

 追い打ちをかけるようにしてキプリが一通の封筒を差し出す。シオリもそれは分かっていたのだが、頭の中で様々な要素が重なってスパークし、受け取るための手を出すことができない。

 エルクから渡された一通の封筒とペンダント。あまりに明確な心当たりがあり、自身の動揺を抑え込むことができなかったのだ。

『直接は渡しづらかったんだろうね。シオリに気を遣ったんだと思う』

 震える手でペンダントを握りしめ、少し落ち着いてきたところでようやく差し出されたままの封筒に手を伸ばす。多少折り目がついていたりしてはいるが、大切に扱われていたというのは見ただけでもよく分かった。

 高鳴る鼓動を感じながら、恐る恐る封筒の差出人を確認する。

「っ!」

 半ば予想していたにも関わらず、シオリは思わず口元を抑えた。

 汚れて読み取りにくくなっているそこには、まぎれもない父の名前が記されていた。


『お礼はちゃんと言っておきなよ。エルクだって渡せずにいたことを気にしてたみたいだからね』

 完全に意識が封筒とペンダントへ向けられていることを認め、キプリは軽く手を振ってシオリに背を向ける。そして仕事は終わったとばかりに、騒いでいるエルクたちの方へ離れていった。

 それに対して何か反応を示すことはなく、シオリは渡された二つの品を食い入るように見つめている。視界にはすでにそれしか入っておらず、通常ならば耳に触るほどのエルクたちの喧噪も彼女の世界の外側の存在だ。

「……っ」

 しばらく呆然としていたシオリははっと我に返り、未だ震えの収まらない手で慎重に封筒を開き始めた。早く中身を確認したい衝動に駆られながら、同時に乱暴に取り扱うことを体が拒否している。父に関するものに飢えていたシオリにとって、唐突に手に入ったそれらはどんな宝石よりも価値のあるものとして目に映っていた。

 完全に開封されたところで封筒に手を入れ、したためられていた手紙を取り出す。しっかりと四つ折りされている紙に文字が透けて見え、否が応でも緊張が高められていく。

 ――パパからの、手紙……。

 一旦目を閉じて深呼吸をし、昂ぶる心を落ち着かせる。

 そして決心を固め、その内容へと目を通し始めた。




『シオリへ


 会えない間にどのくらい大きくなったのか、とても気になっています。この手紙がすぐに届けられれば五年……女の子なら、もうパパから離れていく年頃かな。パパの方はいろいろとあったけれど、今はだいぶ落ち着くことができました。

 仲のいい友だちはできましたか? 家の掃除はちゃんとしていますか? 話したいことはたくさんあるけれど、それはまた会えたときのためにとっておくことにしましょう。

 申し訳ないけれど、パパはもうしばらく帰ることができそうにありません。

 実は少し前から重い病気にかかってしまい、今はその治療をしているために動くことができません。どのくらいで完治するのか詳しくないパパには分からないけど、数日で治るものではないようです。必ず元気になって会いに行くから、もうしばらくだけ待っていてください。 


 独りで生活するようになって、色々な悩みごとも増えてきただろうと思います。

 シオリのことだから、やっぱり人付き合いで苦労しているんじゃないかな? 見知らぬ人と会ったときにすぐ隠れようとする癖は治ったでしょうか。

 そういうとき、側にいて色々なことを教えてあげたり、時には厳しく叱ってあげるのが父親だと思います。それができないパパは、立派な父親ではないのかもしれません。シオリに対して親らしいことは何一つしてやれなかったと悔やんでいます。

 誰にも頼れず、たった一人で困難に立ち向かわなければならなくなって、辛い思いをしていることでしょう。時には何もかもから逃げ出して、ずっと泣いていたくなることもあるでしょう。

 不安に耐えられなくなったら、我慢せず思いっきり泣いてもいいんだよ。悲しい分だけ泣きはらせば、それだけシオリは強くなれるから。

 もしも何か迷った時は、周りの人は関係ない、自分が正しいと思ったことを信じれば絶対に大丈夫。自分で決めて進んだ道は、きっとシオリの力になってくれるから。


 一緒に届けたペンダントは、シオリの十五歳の誕生日プレゼントです。遅くなってしまってごめん。手芸はあまり得意ではないけれど、少しはママみたいに上手にできたかな。

 また会えるようになるのはまだ先のことだけど、そのペンダントをパパだと思って大事にしてくれると嬉しいです。

 一緒にいてあげることはできないけど、パパはいつでもシオリのことを応援しています。


パパより』




「……」

 手紙を持つ手に力がこもった。折ってしまわないように気をつけながら、記述のあったペンダントへと視線を移す。

 中心部分に楕円形の蓋のようなものがついており、どうやら開くことができるらしい。中を見たい気持ちと見たくない気持ちに苛まれつつも、人差し指を押し当てて恐る恐る開いていく。

 そこにはめ込まれていたのは、三人の人物を写した写真。こちらを向いて微笑む二人の男女と、彼らに抱かれている赤ん坊が映っている。

 女性の肩を抱き、力強い笑みを湛えている男性は――やや若い印象ではあるが、まぎれもない父親の顔だ。そして父と並んで柔らかく微笑んでいる女性もまた、シオリの記憶に強く響きかけてくる顔をしていた。

 ――ママだ。

 笑顔の男女が両親であると確認すると共に、中心の赤ん坊の正体も同時に悟る。

 ――つまり、この赤ちゃんは、あたし……。

 生まれてから一年も経っていないような小さいころの写真だ。当然ながら、当時の記憶など全く残っていない。母親を含めた家族全員の映った写真を見るのも生まれて初めてのことだ。

 それでもシオリは、その写真から温かいものを感じ取っていた。

 父親が不器用であることをシオリは知っている。このペンダントを作り上げるのにも相当な苦労をしたに違いない。写真もかなり古いものであり、長い間手元に置いていたものをペンダントとしてシオリに渡してくれたのだと分かった。

 こみあげてくるものを感じたシオリは、ペンダントも手紙もそれ以上直視できずに目を閉じてしまう。


 シオリは思い出していた。

 何を、というわけではない。自分のこれまでの幸不幸を含む『何もかも』が、目まぐるしい勢いでシオリの頭を駆け巡っているのだ。

 両親と過ごした幼少期、母親との死別から蜘蛛族の里にやって来た時のこと。父が捕まった当時のことや、それから始まった長い孤独な生活、エルクたちと出会った顛末も。楽しかった記憶も辛かった記憶も、とにかく全てのことが映像として脳内で再生されていく。

 臥薪嘗胆の日々に埋もれて忘れかけていた何かが、鮮やかな色合いを取り戻してシオリの心に押し寄せてきている。自己暗示と諦念で堅くそびえていた堤防は決壊し、抑え込んでいた思いの数々が次々に表へと浮かび上がっていく。


「っ」

 父の手紙を胸に抱きしめ、シオリはぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 父親と別れてからの五年間にこうして心の底から泣いた経験はない。それどころか、まともに感情を表に出すこともほとんどなかった。

 この五年間に積み重なった悲哀が氷解して流れ出しているかの如く、とめどなく涙が溢れ出て止まらない。まるで、それまで泣かずに歯を食いしばってきた分まで泣こうとしているかのように。

「……っ、……っ」

 もとより声は出ない。それでも、押し寄せる感情の波によって口から嗚咽が漏れる。

 もう自分を縛りつける必要は無い。自分だけの世界に閉じこもって暗闇を彷徨い続ける必要は無い。

 エルクたちと会ってから少しずつあらわになり始めた本心。それではいけないという自己暗示によって押し込められていたそれが、はっきりと自覚できる程にシオリの心中に満たされている。

 ずっと目を背け続けてきた自分自身と改めて向かい合い――シオリは、それまで押し殺してきた感情に嘘をつくのをやめた。

 自分には、エルクにメフィ、シューラという『友だち』がいる。彼らは人間だが、今はそれでも構わないと胸を張って言える。

 もう一度、人間を信じてみよう。

 そして彼らと一緒に里を出て、パパに会いに行こう。

 あらゆる束縛から解放されたシオリはそう決意し――同時に、もうしばらくこのまま泣きつづけることにした。

 今まで我慢してきた分も、心が晴れるまでひたすら泣き明かしたいと思ったから。

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