表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぼくらの天使  作者: 半導体
二章
34/56

33話 接触

 エルクの前を先行していた蜘蛛族の男が、唐突に足を止めた。

 糸を必須とする急勾配地帯は既に抜けており、今はエルク自身の足で男の案内について行っている状態である。後続のメフィとシューラもしっかりとついて来ており、誰かを待って立ち止まったわけではないようだ。

『私が見たのはこの辺りだったが』

 男が周囲を見渡しながら呟いた。

「この辺り、ですか」

 エルクもつられて周辺の様子を確認する。

 相変わらず変調の少ない樹木が林立し、目に映る範囲が非常に狭い。人手も期待できない今、探索の効率が悪くってしまうのは避けられないだろう。

「シオリさん、この近くで捕まったんですか?」

「じゃあ、まだ近くにいるかもしれないのね」

「うん。まだそう遠くに入っていないはず」

 二人の言葉を肯定しつつ、エルクは別種の不安を抱えていた。

 まだ里からあまり離れておらず、何も知らない人間がたまたま立ち入るような場所でもない。あるいは誰かが迷い込んでいたとしても、糸を使える蜘蛛族に人間が対抗できる可能性は低いだろう。

 だが、シオリが捕まったというのは事実だ。

 まだシオリの体力が万全になっていないとはいえ、普通の人間なら後れを取ることは考えにくい。だからこそ、彼女が捕まったというのが敵の強大さを表しているように感じられてならない。

「……急いで捜そう。なんか嫌な予感がする」

 激しい危機感がエルクの胸中で渦巻く。

 言葉では具体的に表現できないが、とにかく事態が悪い方向へ進んで行っているのは肌で感じることができた。一刻も早く助け出さなければ、シオリがどうなってしまうか想像もつかない。

 それは他の二人も察していたのか、真剣な表情で何も言わず頷いた。

「もし怪しい奴が近くにいたら、無理はしないで一旦戻ってきて。今回の相手は多分、僕たちだけじゃ力不足だ。蜘蛛族の人たちの力も借りないと――」

『残念だが』

 同伴していた男の言葉が重なる。

『これより先は我々の領域ではない。踏み入るのであれば君たちだけで行ってくれ』

「え……?」

 無表情に紡がれた協力拒否の通達に、三人はすぐに反応をする事さえできなかった。

 彼は比喩でも皮肉でもなく、ストレートに「自分たちはここまでしか手伝わない」と言った。それが彼個人の意志か種族全体の意向かは分からないが、彼以外に蜘蛛族のいないこの状況ではどちらでも同じようなものだ。

「……何言ってんの……?」

 最初に動き出したのはメフィだ。細々と紡ぎだされた声が震えているのは、彼に対して本気で怒りを覚えているからだろう。

『言葉のままだ。私はもちろん、蜘蛛族は全員、これより先の土地に出ることはない』

「……何? 蜘蛛族は人間の世界に入ると死んじゃうの? この山から離れられないような体質なの? 仲間一人を見殺しにできるほどの理由があるっていうの?」

 表情をひきつらせながらゆっくりと男に歩み寄っていく。シューラは何も言わずにその様子を見つめているが、いつになく険しい表情をしているのでメフィと同意見なのだろう。

 怒気の矛先を一身に受けた男は、それでも冷静な態度を徹底している。こうした状況に多少慣れているのか、あるいはそうした訓練を受けているのかもしれない。

『助けに向かえる状況ではない、というだけだ』

「そのすまし顔がガマンできないの!」

 飄々とした男に怒号を浴びせるメフィ。掴みかかるのは踏みとどまったようだが、これではいつ理性の堤防が決壊するか分かったものではない。

「そうやって引きこもってるから人間にも理解されなてこなかったんじゃないの!? 自分の身を守ることばっか考えてないで――」

「メフィ、もういいよ。行こう」

 全ての不満を叩きつけようとしたメフィを、エルクが肩を掴んで引き留めた。それでもメフィの勢いは収まらない。

「エルク、止めないで!」

「彼らの事に僕たちが口を出すべきじゃない」

「でも!」

「ここで言い争うより、僕たちだけでも早くシオリを探した方がいいよ。その時間がもったいない」

「……っ。……、……。うん。確かに、エルクの言う通りね」

 現状を再確認させることで、どうにかこの場を収めることができたようだ。

 冷静を装っているだけで、エルクもメフィと同じ気持ちだった。シオリのことを心配こそしても、助けに行こうとしないその態度がエルクにはどうしても理解できない。簡単に仲間を見捨てているようにも見え、苛立ちすら覚える。

 しかし、エルクやメフィは蜘蛛族ではない。生きてきた環境や価値観が異なる以上、これは割り切るしかない軋轢とも言えた。

 もし自分が同じ立場なら、というのは意味の無い例え話だ。彼らと同じ境遇に立ったわけでもない人物が安易に彼らと同じ目線になってものを見たところで、説得力は皆無だろう。

「ただ、一つだけお願いします」

「?」

 相手に対する感情を全て切り捨て、エルクは落ち着いた顔で男と向き合う。

 本当に優先すべきは自分の怒りではなく、シオリの安否なのだと自らを制して。

「僕たちを糸で中継して、お互い連絡を取れるようにしてもらえますか?」

『糸?』

「シオリを見つけた時、それを他の二人に知らせなければならないでしょう。会話ができなくても構いません。何か合図を送れる手段が必要なんです」

 シオリの近くには彼女を襲った人間もいるはずだ。真正面から立ち向かうにしろ何か策を講じるにしろ、迅速に三人の態勢を整えなければできる事はかなり限られてしまう。とはいえ、他二人を呼びに戻るような時間もない。

 この状況で、蜘蛛族の糸の力を活用しない手はないだろう。

 男はしばらく考え込むように目を閉じ、それから小さく頷いた。

『それくらいなら簡単だ。この場所からでも三人と糸でやり取りするくらいはできるだろう。と言っても、君たちは糸に言葉を乗せることはできないだろうが』

「一緒に探してくれてもいいんだけど?」

 皮肉げにメフィが睨むが男は反応しない。彼の直接的な協力は期待しない方が良さそうだ。

「もう糸は繋がりましたか?」

 エルクの問いかけに男が頷く。見ると、三人の腰には既に糸が巻き付いていた。

 目で確認できる糸の中では、これまで見てきたものの中でも特に細いような印象だ。木々の隙間から差した光で白く輝く線がくっきりと浮かび上がり、繊細な美しさと儚さを醸し出している。

 しかし実際の強度はかなりのもののようで、エルクが引っ張ってみても千切れる様子はない。これならば樹木の間を縫って進んでも途中で切れてしまう心配はないだろう。


 簡易の連絡法を決め、もはやこの場に留まる理由もなくなった。あとはこの広大な山林の中、しらみ潰しにシオリを探すだけである。

「よし、急いでシオリを探そう」

「ゼッタイ助けましょうね」

「もちろん! 襲った奴も許さない!」

 三人は向き合って頷き合い――そして一斉に森の中へと駆け出した。






「……?」

 頭に響く鈍痛で目を覚ましたシオリは、自身が縛り付けられていることに気が付いた。木の幹に自身を巻きつけている縄は、いかにも力任せに縛られたというのが窺える。その時点で蜘蛛族の仕業という可能性は無くなった。

 頭がクラクラして視界が歪み、意識を失う前後の事がよく思い出せない。里を出て考え事をしながら移動していたところまでは覚えているのだが、何がきっかけでこうなってしまったのかはまるで分からなかった。

 周囲の様子を確認しようとしても、全身をくまなく襲う激痛のせいで力が入らない。エルクたちの前で倒れてからほとんど休んでいないのが祟ったのだろう。

「気が付いたようだな」

「!」

 突然声をかけられ、警戒心を最大にしてそちらに目を向ける。

 真っ黒な装束に身を包んだ男が一人。冷ややかな笑みを顔に張り付けたまま木の傍の岩に腰かけ、動けないシオリを片手でナイフを弄びながら見下ろしている。お世辞にも友好的とは思えない態度だ。

 何の気兼ねもなく接してくれていたエルクたちとは決定的に違う、自身の最も嫌悪しているタイプの人間だとシオリは確信する。

「気分はどうだ……と、いいわけないわな。こういう状況を楽しむ連中もいるらしいが、お前はそいつらとは違うっぽいし」

 妙な語り口の端々からはシオリに対する侮蔑の意思が感じられた。かつて父親を奪っていった人間たちと同種の雰囲気を身にまとっている。

 過去の略奪者とこの男の関連は不明だが、シオリはこの男をはっきり『敵』と認識した。

「しっかし、惨めなもんだな。たった一人でこんなトコうろついて、フラフラのままオレらに捕まって」

「……」

 敵である以上、不毛なやり取りは不要だ。そう考え、シオリは相手の言葉を黙って受け流す。反撃は到底望めない状況であり、今できる精一杯の抵抗が無視であったのだ。

「仲間がいる様子もないし。切なく思ったりするんじゃないか?」

「……」

「ああ、何も言わなくていいぞ。というか口じゃ何も喋れないだろうが、糸で何か伝える必要もないからな」

「!」

「もともと蜘蛛族とコミュニケーションとるつもりもあんまりないし。ま、オレの愚痴でも黙って聞いててくれ」

 自然と紡がれた言葉を聞き、シオリの背筋がまっすぐに凍りついた。

 この男は、自分が蜘蛛族であることを知っている。

 これまでに山でシオリが遭遇した人間に、蜘蛛族のことを知っている人間はほとんどいなかった。エルクたちは蜘蛛族を目的に入山していたが、それも外界の父親から頼まれて来ていたにすぎない。

 この男は違う。彼の態度や口調からは、最初から蜘蛛族を目的としてここにやって来たということが窺える。実際は自身が捕まっている段階で想定しておくべきだったのだが、未だ意識のはっきりしないシオリはそこまで思い至ることができなかったのだ。

「そう睨むなよ、まだ縛っただけで何もしてないだろうが」

「……」

 脳内で警報音が鳴り響く。

 彼らが蜘蛛族を襲いに来たのならば、縛られて身動きの取れない現状はかなり危険だ。このままいけば、どう転がっても父のように見知らぬ土地に連れて行かれてしまうのは避けられないだろう。そこでどんな仕打ちを受けることになるのか、山から離れたことのないシオリには想像もつかない。

「敵意を抱くのは当然か……ま、それで済むなら好きなだけ睨んでくれてかまわないぞ。それで何か変わるわけでもないし――」

 挑発的な言葉と共に、男が目を鋭く細める。

「じきに、そんな余裕もなくなるだろうからな」

「っ!」

 その一言を聞いた途端、シオリの全身をうすら寒いものが駆け巡った。

 この男は、これまで山から追い払ってきた人間たちとは格が違う。下手をすれば、いや下手をしなくても、彼に屈服したら絶対に無事では済まないと確信を持つことができる。

 物理的な影響を受けた訳ではない。だがこの男の放つプレッシャーは、赤子の生皮さえ笑いながら剥ぎ取ってしまいそうな冷たく澱んだものとなって、硬直するシオリを押し潰しにかかってくる。

 自分はこれから何をされるというのか? 予期して覚悟を決めようとしても見当がまるでつかず、なけなしの虚勢すら張ることができない。

「……っ」

 それまで敵意だけを持って人間と相対してきたシオリの胸中に、初めて恐怖という感情が湧き上がってきていた。


「ようやく目が覚めたのか」

 唐突に新しい人物の声が割り込む。過敏に反応したシオリは素早くその方向へ首を回す。

「ハイドか。どうだった」

「ああ、奴らの姿を確認した。あまり目立った動きはすべきでないかもしれないな」

 シオリのすぐ横に、座っている男と同じく漆黒に身を包んだ男が佇んでいる。

 手を伸ばせば届くような距離に、男はいつの間にか立っていた。物音一つ立てず、気配すら感じさせずにそこに『現れて』いたのだ。

「そうか……少し気がかりだな」

 シオリなど既に眼中にないといった様子で、腰かけていた男が難しい顔をする。そしてゆっくりと立ち上がると、森の奥地へ向かいゆっくりと歩き始めた。

「案内を頼めるか? オレも様子を確かめておきたい」

「こいつを残して行っても大丈夫か?」

「問題ないだろう。この状態じゃ何もできないだろうし、他の蜘蛛族が助けに来るとも思えないしな」

「……」

 まるで蜘蛛族の内情を把握しているかのような言葉に、シオリは得体の知れない不気味さを感じ取る。持っている情報一つから見ても、相手の力が全く測り取れない。

「悪いな。少し待たせることになりそうだ」

 シオリに向けて放たれる男の言葉。音の一つ一つにまで黒い力で溢れ返っており、巨大な手で握り締められたように体が竦んでしまう。

 もはや敵意すら向けなくなったシオリに男の一人が近づいて片膝をつき、彼女の顎に手を添えて顔を持ち上げてきた。それによりシオリの目線が無理やり男と合わせられる。

「……っ」

「恨みたければ恨め。恨まれて当然のことをしている自覚はある。しかし、だ」

 息がかかるほど顔を近づけてきた男がシオリの目を真っ直ぐに射抜く。歪んだ光に満ちた男の瞳が目の前いっぱいに広がり、そこに吸い込まれてしまうような錯覚に陥ってしまう。

「その程度のことで俺たちが退くことは無い、と言っておく。恨まれる『程度』のこと、とっくの昔に慣れきってるんだよ」

「っ! ……っ」

 胸を締め上げる威圧感にシオリの呼吸が止まる。

「じゃ、行くぞ」

 即座にシオリから離れた男は、もう彼女には欠片も興味を示さずに背を向けた。様子を見ていたもう一人の男に声をかけ、奥地の森へと歩き出す。

「ああ」

 そのまま男二人はシオリを置き去りにして木々の間へ進んで行き、すぐに見えなくなってしまった。


 体が震えている。

 全てを飲み込むような恐怖は、男たちがその場を去ってもなおシオリの心を支配していた。

 油断している、という表現は正しくないだろう。縄はしっかりと結わえつけてあり、シオリがいくらもがいても全く緩まない。問題ないと断言するだけの根拠はあったようだ。

 このままじっとしているわけにはいかない……そうと分かっていても、身動きは完全に封じられている。外界との接触を避けている他の蜘蛛族が、里から離れた場所までやってくるとも思えない。

「……っ」

 自分が何もできないことに気付いたシオリは、無力感に涙が抑えられなくなった。

 里を人間から守るなどと意気込んでいながら、肝心な時になってなす術もなく敵の手に落ちてしまっている。里の人々の意見を無視してまで意志を貫き通した結果がこれだ。

 ――はたして自分に何ができたのか? 結局、独りでは何もできないただの子供に過ぎなかったのか?

 意味がないと分かっていても考えるのをやめることができない。

 やめてしまえば、目の前の絶望に塗り潰されてしまうと分かっていたから。

 空白の思考で自身を誤魔化し、少女は涙を流し続ける。




「!」

 勢いよく飛び出しそうになったのを咄嗟に堪え、エルクは木の陰に体を張り付けてその先の様子をそっと確認した。

 全身を黒い装備で固めた男が一人、確認できる。大岩に腰を下ろして誰かと話をしているようだ。どこか相手を小馬鹿にしているように見えるものの、何を話しているかまでは聞き取ることができない。

 木の陰から覗き込んでいるため、話し相手の姿はまだ見えない。ただし、明らかに通常の登山家とは違う男の格好から様々な予測が立てられる。

 ある種の期待も込め、エルクは少しずつ顔を出してそこにいるもう一人の姿を確認した。

(あっ)

 思わず声が出そうになるのを慌てて押さえる。

 男の言葉の先には、大木に縛り付けられているシオリの姿があった。だいぶ疲弊したう様子で、男に語りかけられながら弱々しく相手を睨み付けている。

(見つけた……! まだ無事みたいだ)

 エルクはすぐに腰に巻いた糸を握りしめ、強く二回引っ張った。これでシオリを発見したことがメフィとシューラにも伝わる手筈になっている。

 きちんと伝わったのか一瞬だけ不安になったが、すぐに男の方が糸を引き返してきた。どうやら無事に連絡できたようだ。

(さて……二人が合流するまでにどうやって助け出すか考えないと)

 万全の態勢を整えるまでは迂闊に動かない方が良いと考えたエルクは、まず慎重に男の動向を探ることにした。

 しばらくすると、男と同じように黒で身を包んだ人物がもう一人現れた。体格などを見るに、どうやらこちらも男のようだ。

(まずい……このままどんどん増えたりしたら)

 相手が増えればそれだけシオリの救出が困難になる。相手の規模が掴めないことに不安を覚え、エルクは静かに拳を握りしめた。

 このまま彼らがシオリに手を下す危険もある。もしそうなりそうな時は、もう悠長に隙を窺っている暇などない。一人でも飛び出して止めに入ろうとエルクは覚悟を決める。

 二人の男はどちらも、見るからに戦闘術の類を会得していることが分かった。一人ならばまだしも、二人を同時に相手取って素人のエルクが出し抜ける可能性はほとんど無いと言ってもいいだろう。

 自分が交戦している間にメフィとシューラがシオリを助け出せないかとも期待しかけるが、結局のところ成功する確率が低いことに変わりはない。

「エルクさん」

 エルクの後ろからシューラが身を低くして声をかけてきた。そのさらに後ろにはメフィも控えている。

「早かったね」

「エルクの連絡が早すぎただけ。よし、探すぞーって途端に呼び出されて驚いたんだから」

「まあ、安心もしましたけどね」

 小声で雑談を交わすが、状況を顧みてすぐにそれを切り上げる。そして二人で奥の様子をそっと覗き込んだ。

「あいつらがシオリを襲った奴ね。二人だけかな?」

「見るからに強そうですね……このまま飛び込むのは危ない気がします」

 冷静になっている二人もエルクと同じ感想を抱いたらしい。無鉄砲に飛び込んでいこうとしないだけでもエルクは充分ありがたかった。

「確実な隙があればいいんだけど……って、あれ? どこに行くんだろ」

「ん?」

 メフィの言葉につられ、エルクも男たちの動きに注意を向ける。

 先刻までは、男の一人がシオリに近づいて何かしていた。だがその男が、不意に立ち上がって奥の方へと歩き始めていたのだ。もう一人もそれに従うようにしてシオリから離れていく。

 そのままぐんぐん木々の間を分け入っていき、すぐに見えなくなってしまった。

「急にどうしたんだろう」

「近くにまだ仲間がいるのかな?」

 周囲に注意を巡らせるが、他に誰かがいる気配はない。どうやら彼らは、本当にシオリだけを残してこの場を去ってしまったようだ。

「罠、でしょうか」

「私たちの事がバレてるってこと? そんな風には見えなかったけど」

 相手が素人でないと分かっているので、メフィとシューラもすぐに飛び出していくような真似はしない。姿を消した男たちに対する警戒は解かず、シオリの周囲に不審な仕掛けなどがないか慎重に確かめる。

 そこで三人は、縛られたまま俯いていたシオリの変化に気付いた。

「……」

 シオリは、泣いていた。

 完全に独りきりとなった空間で、子犬のように震えながらさめざめと泣いているのだ。

「シオリ……」

 涙の理由は多々あるだろうが、今の彼女がどんな気持ちでいるかは推し量ることもできない。

 想像もつかないほどの絶望に苛まれている、ということだけは間違いないだろう。

 すぐにでも解放しに向かおうとする感情を押し殺し、エルクはあくまで冷静に次の行動に思考を巡らす。

「罠かもしれないけど……今を逃すと、もう助けられるタイミングは無いかもしれないね」

 これまでの状況も顧みて、エルクはそう判断した。

 彼らがシオリを置いたままこの場を離れたというのは、普通に考えれば不自然だ。単に忘れていたり、シオリの存在自体がさほど重要でないという可能性もあるが、これまでの彼らの行動と辻褄が合わない。不特定の蜘蛛族に向けられた罠というのが、現状思いつく中では最も納得できる理由だろう。

 だが仮にそうだとして、今を見過ごした後により良い救出のチャンスが巡ってくるなどあり得るだろうか。

 シオリはこの後、戻ってきた彼らによって『どこか』に連れて行かれることになるだろう。移動の間、彼らがシオリの傍から離れるとは考えにくい。彼女が『どこか』に着いてからはさらに手を出しづらくなるのも目に見えている。そもそも、『どこか』に捕まったシオリがいつまで無事でいられるかも分からない。

「今、助けよう。できるのは今しかないと思うんだ」

 危険であることに違いはない。

 しかし、今こそ彼女を助け出せる可能性が最も高い状況でもあるのだ。

「そうね。このままじゃシオリが可哀想だし」

「あんな辛そうなシオリさん、見ていられません」

 メフィとシューラもエルクの意見に賛同する。失意の底にいるシオリを一刻も早く助けたいという感情もはたらいたのだろう。

「警戒は怠らないようにね」

「分かってる」

 いつでもナイフを抜けるように手を添えつつ、木の陰から出て素早くシオリに駆け寄る。

「シオリ!」

「!」

 俯いていたシオリが呼びかけに応じて顔をあげる。そしてエルクたちの姿を認め、驚愕に目を見開いた。

 彼女の両頬には涙の伝った筋がくっきりと残っており、今もそこをとめどなく涙が流れ落ちている。事態が上手く呑み込めていないようで、気持ちをエルクたちに向けている今も涙が収まる様子はない。

「大丈夫? ケガしてない?」

「待ってて、すぐに縄を解くから」

 メフィがシオリを励まし、その間にエルクが縄をほどきにかかる。シューラは周囲の様子に気を配って黒い男たちを警戒し、自然と役割分担が完了した形となった。

「うわ、なんだこの結び方……しかも固い」

「エルク、早く!」

「分かってる。けど、手でほどけるかな……」

 いつ敵が戻ってくるか分からない。急いでシオリを助け出さなければならないのは重々承知しているが、エルクの初めて見るその結び方は初見で解き方が分かるような代物ではなかった。

 エルクはすぐに結び目をほどくのを諦め、ナイフを抜いて縄の切断へと切り替える。

「縄も丈夫だなぁ……このっ!」

 何度も刃を往復させるが、一向に縄に食い込んでいかない。焦燥感だけが募り、ナイフを握る手に力がこもる。

『なんで』

「え?」

 呆然としたままのシオリが、突然エルクたちに向けて語りかけてきた。

 少しずつ冷静になってきたらしく、落ち着いた様子でメフィとエルク、シューラを順番に見つめてくる。その表情には、先刻とは違った驚きの感情が含まれているように感じられた。

『なんで、ここに』

「それはもちろん、シオリを助けるために」

 エルクやシューラに反応をする余裕は無く、シオリの正面にいるメフィが言葉を返す。

『どうして、あたしなんかのために』

「あたし『なんか』って言わないで」

『あなたたちは、関係ない。ぜんぶ、あたしの責任』

 どうやら彼女は、エルクたちが自分を助けに来たことを何より意外に思ったようだ。まだ会ったばかりの、それも嫌悪の対象として襲いかかったりした相手なので当然と言えば当然の疑問だろう。

 ただ、その理論で納得できるような頭の持ち主はこの三人の中に存在しないのだが。

「せっかく知り合えて仲良くなれたのに、そんな風に言われたら悲しいよ」

『仲良くなんて、なってない』

「じゃあこれから仲良くなればいいよね。一緒にご飯も食べたりしたんだし、きっと相性バツグンよ?」

「――」

 無茶苦茶な言い分に、シオリは返す言葉を失ったようだ。それに関してはエルクも同意見だったが、今は彼女の力押しの説得に任せて縄の切断に集中することにした。

「私はね、ゼッタイにシオリと仲良くなりたいってずっと思ってたよ? もちろん今も」

『そんなこと、言われたって』

「……やっぱり困るかな。ずっと人間が嫌いだったんだし、急に仲良しになるなんて怖いよね。それは仕方ないと思うし、私だけでどうにかはできないと思う。でもね、シオリ」

 メフィがシオリの両肩に手を置き、真剣な目つきでシオリの瞳を覗き込む。皮肉にもそれは、先刻シオリが恐怖を味わわされた方法と全く同じ姿勢だった。

「仲良くなるのにきっかけは必要かもしれないけど、理由なんて必要ないんだからね?」

「…………」

「時間はかかるかもしれないけど……友だちはたくさんいた方がゼッタイ楽しいし」

「…………」

「友だちになれたら、人間とか蜘蛛族とか植物族とか、そんなの関係ないから」

 まくしたてるようなメフィの言葉にシオリは黙り込んでしまう。それでもメフィから視線は逸らさず、真剣に彼女の言葉に耳を傾けているようだ。

 眼前で目を輝かせるメフィに、彼女は何を思ったのだろうか。

「……よしっ切れた!」

 強固だった縄がようやくエルクによって切断された。一か所が分断されたことで全体の拘束力が失われ、弾けるようにして縄が地面を転がる。当然ながら縛られていたシオリの足にもかかるが、それは既にシオリ一人でどかせる程度のものでしかない。

 シオリの解放を確認したメフィは、その場で立ち上がりシオリに向けて手を差し出した。

「だからシオリ、お願い! 私と友だちになって!」

「……!」

 目の前に差し出された手を凝視するシオリ。

 戸惑っているのは傍目から見ているエルクにもよく分かった。荒唐無稽なメフィの話だけではなく、人間から『友だちになって』と言われたこともかなりの衝撃だったようだ。

「……」

 シオリはしばらく硬直して動かなかった。

 だが、緊張していた表情を僅かに綻ばせると――メフィの手を、そっと握り返した。

「よろしくね、シオリ!」

 掴んだ手を思い切り引っ張ってシオリを立たせたメフィは、シオリを支えながら満面の笑みを浮かべる。

「……」

 屈託のないその笑顔を、シオリも疑うことなく受け入れたようだ。


「無事に助けられてよかった。あとはここから逃げるだけだね」

「っと、そうね。あいつらがいつ戻ってくるか分からないし」

 エルクの言葉で現在置かれている状況が再確認され、穏やかだった空気は一瞬にして張り詰める。ここで敵に見つかってしまっては何の意味もないのだ。

「シオリさん、一人で歩けますか?」

 シューラにそう訊かれたシオリは、支えられていたメフィの手を離れて自力で立とうとする。しかしすぐにバランスを崩し、倒れそうになったところを再びメフィに支え直されてしまった。

「難しそうですね……」

「なら僕も肩を貸すよ。とにかく早く、敵の目の届かない場所まで逃げないと」

 蜘蛛族の里まで戻れば追いかけて来られないだろう。現在地からそれほど遠いわけではなく、充分に逃げ切れる距離である。


 このまま全て上手くいくかもしれない。心配性のエルクでさえ、この時ばかりはそう考えていた。

 しかし――迫り来る魔の手は、そう簡単に逃がしてはくれないらしかった。



 エルクの全身が殺気を感じ取る。

 考えるよりも先に体が動いていた。


「っ!」

 金属音が響く。

 咄嗟に振り上げられたエルクのナイフ。その刃は空を切らず、新たに出現したもう一つの刃と交錯してその動きを止めていた。

 新しい刃の軌跡の先にはシオリの首筋があり、確実に彼女を狙ってきた一撃であることが分かる。

「ぅわっ!?」

 一瞬遅れて三人が反応し、その刃から慌てて距離を取った。エルクが防御していなければ、その反応すらできずに絶命していたかもしれない。

「……ほお、まさか見切られるとはな」

 エルクから離れたナイフの持ち手は静かにそう呟いた。今しがた一閃を放ったナイフを手元でクルリと一回転させ、エルクに向けて悠々と構え直す。

「嫌な予感がして戻って来てみれば……これはまた、ずいぶんと若いナイフがやんちゃをしているときた」

 唐突に現れたのは、黒い服で身を覆う一人の男。

 全身に異様なまでの殺気を纏っており、向かい合っているエルクにも押し潰すような覇気が襲いかかってきている。くすんだ瞳には澱んだ光がどんよりと渦巻いており、目を見ているだけで不安が掻き立てられていく。

 そして何より異常だったのは、男の表情がとても嬉しそうな『笑顔』という点だ。

 底なしに明るく、しかし極限まで歪んだ笑み。シオリと会話していたメフィのものとは違い、思わず体が竦んでしまいそうな凶悪な感情がそこから溢れ出ている。

 この男は危険だ。理屈ではなく、本能でエルクはそう確信した。


「お前は……お前たちは何者なんだ」

 ナイフを構えながら慎重に問いかける。

 それとは対照的に、男は軽い調子のまま肩をすくめて見せた。それはまるで、これから始まるであろう死闘を心待ちにしているかのように。

「その問いに答えるのは非常に難しいが……俺はあえて、この一言で全てを答えるとしよう」

 そして紡がれた男の答えを聞き――エルクとメフィは、おぞましい記憶を蘇らせることとなった。


「俺たちはテロリスト……名前も持たない、ただのテロ集団だ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ