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ぼくらの天使  作者: 半導体
二章
31/56

30話 孤高の里へ

 話を聞く姿勢になっていたシオリが目を見開いて玄関の方向を見つめる。どうやら家のすぐ外に誰かがやって来たようなのだが、場所が場所であるだけにエルクたちの不安は嫌でも引き上げられてしまう。

「誰か来たのかな」

「他の蜘蛛族の方……ですよね、やっぱり」

 もともと人間は近づくことのできないような場所であり、シューラの予想はまず当たっているだろう。

 今の状況を見られた場合、どんな扱いを受けるのか予想ができない。動けないのをいいことに(なぶ)られる可能性も考えられる。そこまではいかなくとも、蜘蛛族にとって人間であるエルクとメフィは快い存在ではないだろう。

「……」

 シオリは先刻よりも更に表情を歪ませ、苛立ちを隠そうともせずに玄関へと向かう。硬直するエルクたちの横をすり抜け、糸を手繰って部屋の扉を開く。

「誰が来たの? シオリの友だち?」

 無言で立ち去ろうとするシオリにメフィが声をかける。そんな場合ではないとエルクは突っ込みかけたが、呼びかけられた当人は複雑な面持ちでメフィに振り返っていた。

『たぶん、上の人の犬』

「犬……」

 あまりいい響きではないため詳しく尋ねることが憚られる。シオリ自身も、心当たりの人物に対して好ましい印象を持っていないようだ。

『待ってて。すぐ戻る』

「って、このままで? ちょっと、おーい……行っちゃった」

 メフィによる制止も空しく、エルクたちをそのままにしてシオリは玄関へと姿を消してしまった。

「ひどいよ、このままにして行っちゃうなんて」

 ないがしろにされたメフィが唇を尖らせる。

 予告なく動きを封じられたため、今の三人は動作の一部分を彫像に彫りだしたかのようだ。文句の尽きないメフィは、右腕で腰のベルトを握った姿勢のまま固まっている。

「うう、首が痒い……掻けないぃ……!」

「怒ってるのはそこなんだ……。ほどいたら逃げるって思ったのかもしれないね。僕らの事はあんまり信用してないみたいだし」

「でも、話は聞こうとしてくれましたよね。全く信じてないっていうわけでもなさそうでしたよ」

「うん。あの子もだいぶ悩んでるみたいだったからね。信じられないっていうか、信じたくないって感じかな」

 対話の際の彼女を思い返してみても、彼女の心はひどく揺れ動いているようだった。これから彼女がどう決意を固めるのか、そこにエルクたちが口出しすべきではないだろう。

「誤解もあると思うんですけど……本当にどうしようもないんでしょうか。せっかく会えたんですから、シオリさんとも仲良くなりたいです」

「気持ちは伝わってると思うよ。ただ、状況がそれを許してくれないかもしれない」

 今後、彼女とまともに会話をする機会は二度と無いかもしれない。手紙とペンダントを渡してしまえば、彼女との接点は無くなってしまうのだ。

 今という短い期間で彼女の心を開くというのは簡単な事ではない。

「そうですか……」

 心から残念そうにするシューラに、メフィが励ますように言葉をかけた。

「まだそうと決まったわけじゃないよ。今しか会えないなら、今仲良くなればいいじゃない」

「そ、そうですよね!」

(それは向こうの気持ち次第じゃないかな……)

 彼女から拒絶されればエルクたちからはどうしようもないだろう。現在は彼女がこちらを引き留めているようなものだが、良好な関係を築くには難しい状態だ。

 もっとも、二人の考え方もまた間違いではない。彼女たちの気持ちにシオリが応えようとしてくれれば、時間の短さは問題でなくなるだろう。口に出すのは野暮だろうと考え、エルクは黙って二人の言葉に聞き入ることにした。


「ん?」

 他愛もない雑談に花を咲かせていたところ、玄関から騒々しい物音が響いてきた。

 それだけならシオリと訪問者が何か揉めていると考えてあまり気にしなかっただろう。だが、その騒音は乱暴な足音を伴ってこちらに近づいてきているようだ。

「え、なに? 何?」

「こっちに来る……?」

 困惑するメフィやシューラをよそに、足音はどんどん大きくなる。荒い足取りやその数からシオリでないことは確実だ。

 そしてそれを確かめさせるかのように、部屋の扉が吹き飛ぶようにして開いた。

「っ!」

 威圧感を伴って上り込んできたのは三人の男。最後尾の男の腕を掴んで引き留めようとしているシオリも一緒にいる。引き攣った表情を見る限り、彼らと親しい間柄ではないようだ。

 全員が鳴子のようなものを提げた変わった格好をしており、歩くたびに渇いた音を鳴らしている。不安を呼び覚ますような音は、聞いているだけで思わず顔が強張ってしまう。

「あー……どちら様でしょう」

 得体の知れない圧迫感に耐え兼ね、エルクは様子を窺いながら対話を試みることにした。

「エルク、それ私たちが言えるセリフ?」

「それはそうだけど、他に何言えばいいのさ」

 現段階では、彼らが蜘蛛族であることくらいしか分からない。訊こうと思えば他にも色々あっただろうが、咄嗟に思いついたのがこの質問だったのだ。

「……」

 先頭の男がエルクたちの顔を一瞥する。

 その瞳には、哀れみとも蔑みともつかない、冷ややかな感情を汲み取ることができた。

 どうやら、彼らもエルクとまともに会話をするつもりはないらしい。

「……!」

 男たちとの間にシオリが割り込んでくる。エルクたちに背を向け、自分の倍近い背丈の男を物怖じせずに睨み付けた。

「……!」

「……」

 男の一人がシオリに掴みかかる勢いで体を乗り出す。対するシオリも一歩も退かずその迫力に立ち向かっている。

 その様子をひやひやしながら見守っていたエルクは、あることに気付いてメフィたちに声をかけた。

「ひょっとして、あっちだけで会話してる?」

「そうみたい」

 厳しい表情や身振りなどから察するに、どうやら何か口論をしているようだ。

 部外者に聞かれたくない内容なのか、単に忘れているだけなのか。とにかく糸がエルクたちに繋がっていないので、話している内容は一切伝わってこない。

 やがて決着がついたのか、男たちの注目がシオリからエルクたちに移った。そして先頭の男が一歩踏み出し、糸越しに語りかけてきた。

『人間の客人よ。すまないが、我々と共に来てもらえるだろうか』

「えっ?」

 雑な言葉を投げかけられると予想していたエルクは、意外に丁寧な対応に驚いてしまった。エルクたちに良い印象こそ持っていないのはよく分かるが、それを態度に表さないという節義はありがたい。

「……」

「……っ」

 男がシオリに目配せをする。シオリはそれを受けて眉を顰めたものの、渋々といった様子で右手をかざした。

「あ」

「ひゃうっ」

 その途端、エルクたちを捕縛していた糸が一斉に効力を失って緩んだ。体重を任せていたらしいシューラが思い切り前につんのめる。

「ふう、やっと動かせるようになった」

「首痒いー」

「…………」

 いかにも不満そうな様子のシオリ。男たちに指示されて嫌々エルクたちを解放したのだろう。まさに彼女の求める情報を与えようとしていたところであり、歯がゆい気持ちはエルクにもよく分かる。

 そんな事情など知る由もなく、男は休む間もなく話を進めていく。

『里長が面談を所望している』

「里長?」

『我らの民をまとめるお方だ。外界からの探訪者ということで、君たちの話を聞きたいそうだ』

「里長……偉い人ってことだよね。なんで私たちと」

『詳しくは後ほど話そう。今はとりあえずついて来てもらえるか』

 無理やりではないものの、選択権はないに等しい。

 協力を拒んだところで、山中を移動するには蜘蛛族の協力が不可欠なのだ。最終的にはそれを盾にされて聞き入れざるを得なくなるのが目に見えている。

「あまり深く関わるつもりはなかったんですけどね……分かりました」

 ここで刃向うメリットは薄い。そう判断し、エルクは彼らの要求を呑むことにした。蜘蛛族の方から接触を図ってきた以上避けることはできないだろう。

『あたしも行く』

 黙り込んでいたシオリも名乗りを上げた。

『あたしにも責任がある。一緒に行く』

『彼らを里に招き入れた責任、か?』

『そう』

 男の問いかけに対し、シオリは無機質に頷く。

 エルクたちに対してもそうだが、男はシオリの事を侮蔑に近い眼で見ているようだ。言葉にこそ出ないものの、一挙一動にその片鱗が見て取れる。

 そしてシオリもまた、彼らに敵意を持っているのが分かった。

『動けるか?』

「あ、はい。大丈夫です」

『では急ごう。時間を無駄にはしたくない』

 シオリとはそれ以上顔も合わせようとせず、三人の男が部屋の外へとつま先を向ける。見た目にも負傷しているのが分かるシオリへの気遣いは一切ない。

 ただ、そこに関して部外者であるエルクたちから言えることは何もないだろう。


「はぁ……」

 めまぐるしく移り変わる状況についていっていなかったのか、シューラが一拍子置くように溜息をついた。外に向かった男の後を追いかけなければいけないのだが、気持ちの整理をつける暇が欲しかったのはエルクも一緒だ。

「とにかく……言う通りにするしかないよね」

「そ、そうですね」

 今の立ち位置を言葉に表すと、混沌としていた頭の中がいくらか落ち着いてきた。シューラも冷静に現状を把握できたようで、緊縛されていた箇所をさすりながら家の外へ注意を向けている。

「……」

 そのまますぐに外へ向かおうとしたのだが、唐突にメフィが足を止めた。何事かと問いかける暇もなく、出入り口から向きを変えて顔色の悪いシオリに駆け寄っていく。

「シオリ、ゴメンね?」

「!」

 呆然としていたシオリは、声をかけられるなりびくりと体を震わせた。エルクたちを脅しつけていた時の威勢はすっかり影をひそめ、全てに対して恐怖を抱いているかのように小さく縮こまってしまっている。

「なんだかよく分からないことになっちゃったけど……あっちの用事が済んだら、ちゃんとお父さんの話するから」

「……」

「また私が支えるから、とりあえず一緒に行こう?」

「……」

 手を差し出しながら微笑むメフィに、シオリは驚きながらも小さく頷いた。

 男たちにないがしろにされた彼女への配慮なのだろう。気を許していなかったはずのシオリは、その言葉に抗わず素直にメフィの手を取った。

「メフィ……すごいね」

「えっそう?」

「うん。よく気が回るなあって……ホントにすごいと思う」

「そ、それほどでも……当然の事じゃない」

 彼女の行動に心からの賞賛を送る。

 自分のことで精いっぱいだったエルクには、シオリの事を気にかける余裕などなかった。自身の身の安全さえ保障できていないのはメフィも同じであるはずなのに、彼女はシオリの事を心配して声をかけたのだ。

 よほど予想外だったのか、シオリが目を丸くしてメフィを見つめた。その視線に気づき、メフィもシオリの目を見つめ返す。

「…………」

「どうかした?」

『なんでも、ない』

 照れたように慌てて顔を逸らすシオリを見て、メフィの笑顔は一層明るいものとなった。



『お前は里に人間を呼び寄せた。それが掟に背いているというのは分かっているな』

 メフィに支えられて歩きながら、シオリは男たちとの会話を思い返す。

 人間を嫌っているシオリにとって、里の掟など改めて確認する必要もないものだった。もともと蜘蛛族以外には立ち入ることすら難しい土地なので、そんな機会に巡り合うこと自体あり得ないとさえ考えていたのだ。

 しかし現実に、シオリは自らの意志で人間を里に招き入れた。たとえ里の外れの自宅だけであっても掟を破ったことに変わりはない。何かしらの処罰は受けることになるだろう。

 それでも、後悔はしていない。

 掟に背いたとしても、父の行方を何としても確かめたかったのだ。何年も会っていないせいで顔もろくに覚えていない父親だとしても、その足跡を追うためなら躊躇いはなかった。

(人間に引き離されたパパのことを人間に訊くしかないなんて……出来の悪い皮肉)

 心中で悪態をつきながらも、隣を歩くエルクたちに対しては不思議と深い憎悪を覚えていないことに気付いた。

 言葉ではうまく言い表せないが、彼らと一緒にいることを不快に感じているわけではない。人間に対する評価を改めてはいないものの、彼らが父親を奪った人間とは別種であることは十分理解している。

(人間を認めようとは、思わないけど……)

 長年抱いてきた価値観はそう簡単には崩れない。だからこそ未だに彼らと正面から向き合わずにいるのだ。

 意識して避けているようなものなので、彼らに対する背徳感も少なからずある。今の関係のままではいられないことも分かっているつもりだ。

 今後について考える時間はまだある。

 だからシオリは、考えることを決して諦めない。

 それが、里の掟よりも彼女が大事にしている信念であるから。






「まだ着かないの?」

 移動を始めて最初に音を上げたのはメフィだった。

『あと少しだ。辛抱してくれ』

「そればっかりじゃない……おんなじ景色ばっかりだし」

 メフィに付いてサポートしている男に口を尖らせている。半ば強引に連れて行かれているという状況のためか、彼女の発言にも遠慮がない。

「あそこまで迷いなく文句が言えるのもすごいよね」

「それがメフィさんですからね」

「確かに」

 男たちを刺激してしまわないかと肝を冷やしたエルクだったが、子供の言葉として上手く聞き流してくれているようだ。エルクのサポート役の男も体調などに気を配ってくれたりして、むしろ丁寧に扱われているように感じられる。

『あそこに岩が見えるだろう』

「あ、はい」

 男が指差した先を見上げると、確かに巨大な一枚岩がせり出しているのが見えた。

『あの上から里を一望できる。そのまま下りていけば近道でもある』

「つまり、あそこを目指すんですね」

 その岩はエルクたちのいる地点よりもかなり高い位置にそびえており、その先の展望を一切分からなくしている。登りやすそうな凹凸は見受けられるが、やはり蜘蛛族の糸の力が無ければ上に立つことは難しいだろう。

『先に登っておこうか』

『いや、こっちにはシオリがいる。こいつにも手伝わせよう』

「…………」

 メフィとシオリを連れた男が岩の上部に向かって手をかざす。二人連れているためか、目に見える太さの糸が繰り出されて岩の上部へ射出された。

 シオリに手伝わせるというのは、上から後続を引き上げようということだろう。登る作業は強制していない分だけ、彼女の怪我を配慮していると言えるだろうか。

『しっかり掴まっていてくれ』

「オッケー」

 まずはメフィが、先行する男に引っ張られる形で岩を登り始める。糸のおかげなのか身のこなしが非常に軽く、流れるようにその姿が上昇していく。

「うわぁ、体が軽い!」

『暴れると、糸が切れる』

「えっ……き、気を付けるね」

 シオリの一言ですぐさま大人しくなるメフィ。慎重さを取り戻すと、素早く頂上まで登って行った。

「よしっ。エルクー、シューラー、早くおいでよー!」

 メフィの声が上方から降り注いでくる。遠足に来た子供のようにはしゃぐ様子から察するに、不満を抱きつつも今の状況をかなり楽しんでいるようだ。

『よし。次、我らも行こうか』

「分かりました」

 エルクに付いている男が岩に近づいて合図を送る。エルクが傍によると、上から二本の細い糸が飛んできてエルクに巻きついた。先行した男とシオリの糸だろう。

 体重の多くを支えてくれているようなので、転落死の恐怖は幾分か和らいだ。もちろんまかせっきりにするわけにはいかないので、自身の腕でもしっかりと岩の突起を掴む。

「それじゃあ、行きますよ」

 上の二人に呼び掛けてから窪みに足を引っ掛け、慎重に体を持ち上げた。二人にもそれが伝わったようで、魚釣りのようにエルクの体が引っ張られていく。

 糸のサポートは想像以上に力強く、腕の力だけでも登っていけそうなほどだ。遠くに見えていた(いただき)が見る見るうちに近づいてくる。

「……すごいや」

 滑るように断崖を登っていく疾走感に感嘆の息が漏れた。

 自分が蜘蛛族になったような感覚で、メフィが注意されるほど興奮してしまったのも納得できる。それほどまでに新鮮な感動がエルクの中を駆け抜けていったのだ。

「エルクっ」

「え、メフィ?」

 手を伸ばして次の突起を掴もうとしたところ、その手をメフィが握りしめてきた。気が付かないうちに上部までたどり着いてしまったようだ。

「よい、しょっ」

「あ、ありがとう」

 メフィも加わった三人でエルクを岩の上まで引き上げる。二人目の男もすぐに追いつき、あっという間に蜘蛛族の疑似体験は終了してしまった。

「あとはシューラだけね」

「うん。……うわっ、高い」

 見下ろしてみて改めてその高度を目の当たりにし、驚嘆が思わず言葉として表れる。慣れない感覚のせいで、登っている間の距離感がおかしくなっていたようだ。

『こちらは大丈夫だ』

「あ、はい。よろしくお願いします」

 シューラも準備が整ったらしく、男二人とシオリが岩下に向かい糸を放つ。エルク自身も体験したことなのであまり不安はしていないが、やはり登ろうとしているシューラから目が離せない。

『これ、上げられるかも』

『ああ。一気に引き上げたほうがあの娘の負担にならないだろう』

「はい? いえ、私は別に……あ、ひゃああぁぁ」

 三人分の糸はかなりの強度になるらしく、シューラはほとんど糸に持ち上げられているような状態だ。焦ったような悲鳴が糸に吊り上げられて一気に近づいてくる。

「シューラ、掴まって!」

「ひゅえぇっ? は、はい」

 差し出された手を夢中で握りしめるシューラ。混乱した様子を見る限り、エルクやメフィとは違った感想を持ったかもしれない。

「あ……」

 その光景を見ていると、エルクの脳裏にある記憶が蘇ってきた。

 その記憶を鮮明に思い出したエルクは一瞬だけ表情を曇らせ、すぐにそれを振り払う。

「はふぁ、び、ビックリしました」

 平らな場所に足が着くなり、シューラは荒くなった呼吸を懸命に整え始める。彼女の中ではエルクの考えていた以上の恐怖が溜まっていたのかもしれない。

『こういった経験があまりないようだな。こちらも少々配慮に欠けた』

『うん。ごめん』

「いえ、良い経験になりました」

「足震えながら言っても、ねえ?」

「僕に振らないでよ」

 今にも転びそうなシューラを危なっかしく思いつつ、全員が無事に登り切れたことにエルクは安堵を覚えた。負のデジャヴは忘れ、進む方向に視線を向ける。

「ここから里が見えるんですよね?」

『反対側に寄れば下に見えるはずだ』

「なるほど」

 岩は想定していたよりも幅があり、もっと近寄らなければ下を臨むことはできないようだ。そちらにも茂っているはずの木々の先端さえも見えないので、反対側も崖のようになっているのが窺える。

 男の答えを受け、足場に気を遣いながらそちらへ近づいていく。興味をそそられたらしいメフィと、独りにされたくないらしいシューラも後を追ってやって来る。

 すると間もなく、明らかに自然のものではない何かの姿が眼下に映り始めた。


「わあぁ……」

 三人の溜息が綺麗に重なる。

 山の急斜面を覆う深緑の森の中に、溶け込むようにして家々が建てられているのが分かった。完全に自然を排除するのではなく、それらと共生することを目的として住居の構造が工夫されているようだ。

 それでいて殺風景ということは無く、自然に包まれた素朴な集落の姿は、新鮮であると同時にエルクたちの郷愁を誘う。

「すごいね……」

「はい。見ていると不思議な気持ちになります」

 ほとんど平地のないという立地条件は決して住みやすい環境とは言えない。岩を登るだけでも緊迫を余儀なくされたエルクたちにとっては、常に滑落の恐怖に苛まれる過酷な場所である。

 そこに展開されている「生活の気配」は、感動を覚えるには充分な風景と言えた。

『気持ちが落ち着いたのならばすぐに降りよう。何度も言うが、時間が惜しくてな』

「そう、ですね」

 これからこの光景の中に飛び込んでいく。

 それを想像すると、エルクの心は再び静かな歓喜に包まれた。蜘蛛族の人々から邪険にされるかもしれないという恐怖よりも、見たこともない世界に対する好奇心の方が上回っているのだ。

「あれ? エルク、ひょっとしてワクワクしてる?」

「えっ! そ、そんなことないよ」

 メフィから突然指摘されて必要以上に狼狽えてしまう。

「ちょっと、それは分かりやすすぎ! エルクってば単純ね!」

「うぅ……いいから、早く行こう」

 よほど可笑しかったらしいメフィが口元を押さえて笑う。恥ずかしさで顔まで赤くなったと自覚したエルクは、それを紛らわすように意識を集落へと集中させる。

『ふむ、もう準備はできているようだな。それでは行こうか』

 やり取りを見守っていた男の一人が先行して岩を飛び下りた。そうして降りる先からエルクたちの降下をサポートしようというのだろう。


 こうしてエルクたちは、蜘蛛族の里へと足を踏み入れた。

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