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ぼくらの天使  作者: 半導体
二章
28/56

27話 小さくも大きな誤解

 レクタリアから西に進むと、周辺一帯の川の本流であるシクナ運河が姿を現す。

 大陸でも屈指の水量を誇るこの運河は、周囲の環境に実に豊かな恵みをもたらしている。ひざが濡れる程度の水深には小さな魚影が散見でき、透き通った水によって育まれた深緑の森が川に沿って続いている。古い時代の文明人によって建設されたものだが、長い時間の間に自然物として馴染んでいて違和感がない。

 人為の及ばない自然に満ち溢れたそこは、大陸でも有数の野生動物の宝庫である――ガルドはそう認識していた。



 手ごろな大きさの石に腰を落ち着かせ、ガルドは川で遊ぶ旅の同行者に視線を向ける。

「冷たくてキレイな水ですね」

「そうね、魚もいっぱい」

 移動ばかりで疲れただろうという配慮からの休憩だったのだが、リダにとっては体の疲労よりも水に対する興味の方が勝るようだ。歳の近いリオナもリダに付き合うことへの抵抗はないらしく、一緒になって川遊びを楽しんでいる。傍から見ると仲のいい姉妹のようだ。

「あんまり岸から離れるなよ。船舶の通路なんだから、中心はかなり深いはずだ」

「分かってますよー」

 危険を考慮しての忠告も、魚影を追い求めているリダの耳にきちんと届いたのかは怪しいものがある。リオナがついているので過度な心配は不要なものの、できるだけ目を離さないようにしておいた方がいいだろう。

「いや、そもそも運河にこんな河川敷があること自体が変なんだよな……まあいいけど」

 砂利の敷き詰められた河原は、いかにも自然に出来上がった川であると錯覚させる。古代の人々がそうしたディティールにまでこだわったと考えるのは流石に空想が過ぎるだろうが。

「っと、ここから先は深そうね。もう少し手前で遊びましょう」

「あうう、みんな逃げちゃいました」

「浅瀬にもたくさんいるわよ」

 深みに向かおうとしたリダをリオナが引き留めたようだ。初対面時のイメージと違い、とても面倒見のいい少女であることが窺える。

 アドネッセの元では不機嫌そうな印象だった仏頂面は、ガルドとの旅に出てからあまり見ていない。特に、仲良くなったリダとの会話が増えてからの変化は顕著だった。


 ガルドとリダ、そしてリオナの旅が始まって数日。

『兄さんを、探したいの。ついでで構わない……お願い、私も連れて行って』

 出発の際、ガルドにそう告げたリオナの顔を思い返す。

 何かを決意したような表情からは、彼女の並々ならぬ強い意志が感じられた。アドネッセが彼女に尽力しようとした理由を、ガルドはその時に理解した。

「見て見て、あそこにたくさん泳いでるわよ」

「うわぁ……すごいですね」

「……」

 微笑ましいやり取りを遠い目で見つめる。

 彼女から詳しい事情を話そうとはせず、ガルドたちもあえて訊かないまま彼女を受け入れた。この状態をいつまでも保ってはいられないだろうが、急いで全てを知る必要もないのだ。

 だからこそ、今のリオナの振る舞いがガルドに不安を感じさせた。

 リオナは真面目で自分の意志をしっかり持っている反面、何でも自分一人で抱え込んでしまうきらいがある。こうしてリダと無邪気に魚を追いかけていながら、その一方でガルドの負担を考えて無理をしているような気がしてならないのだ。

(何でも気兼ねなく打ち明けられるようになればいいんだけどな)

 全ては時間が解決する問題でしかない。焦る必要はないと自身に言い聞かせたガルドは、今後の旅の展望を想像して僅かに頬を綻ばせた。


「ひゃわぷっ!」

 独特な悲鳴によってガルドの瞑想が大胆に妨害される。

「ちょ、ちょっと大丈夫!?」

 顔をあげてみると、水面に体の前半分を沈ませているリダをしゃがみ込んだリオナが助け起こしている様子が映った。

 つまずいて転んだ、というのがここまでよく分かる状況というのも珍しい。普通の人は手をついて着水を回避するくらいはできるだろう。

 もっとも、巨大な鉄斧を背負ったままのリダにバランスを要求する方が可哀想なのだが。

「ふえぇぇ、びしょびしょになっちゃいました」

「あーあー、何やってんだよお前は」

「ご、ごめんなさい……」

 呆れ顔で二人を岸に呼び戻す。傍で水飛沫を浴びたリオナはまだしも、ほぼ全身が水浸しになったリダは悲惨な有様だ。衣服も水分を吸収し、白い肌が服の下にうっすらと透けて見える。

 これも予測できた事態であり、ガルドの対応は素早い。

「そのままじゃ風邪ひくぞ。着替え持ってくるから、とりあえず服全部脱いどけ」

「あ、はい」

「っっっ!? ちょっ、いきなり何を言い出してるの!?」

 着替えの指示を出したガルドに、突然リオナが顔を真っ赤にして声を荒げた。上着を脱ぎかけたリダを制止し、唖然とする二人に向けて怒りとも羞恥ともつかない感情を向けてきている。

「ガルド、あなたがそんな人だとは思わなかったわ!」

「あの、リオナがなんでそんなに怒るのか分からないんですけど」

「リダもそんな簡単に実行しないの! いくら年が離れてたって、女の子が男の人に裸を見せるなんてダメ!」

「……」

 眼前に指を突き付けられ、しばらく沈黙するリダ。ガルドも口を開かず、数秒がその姿勢で費やされる。

 やがて、リダの方がガルドに救助要請を送ってきた。

「またですよぅ。リオナにまで言われるなんて」

「そうだな、無理もない……っていうか、まだ教えてなかったのか?」

「普通はわざわざ教えるようなことじゃありませんよ」

「……? 何の話?」

 複雑な表情のリダとガルドの会話が、リオナには訳の分からないもののように聞こえたようだ。まだ顔を赤くしながらも、眉をひそめて困惑を露わにしている。

「こっちの話……ってわけでもないか。うっかりしてたよ」

「こんなのゼッタイおかしいですよぅ」

「だから、二人は何の話をしてるの?」

 焦らすとますます苛立たせてしまうだろう。不服そうにしているリダは差し置き、ガルドは彼女に事実を告げておくことにした。

「私、そんな変なこと言ったかしら?」

「いや、俺たちの不備だ。リオナは悪くない」

「僕は納得いかないんですけど……」

「??? リダがどうかしたの?」

「いや、こいつさ、男なんだよ。こんなナリしてるけどさ」

「…………」

「…………」


 静寂。


 リオナの視線がリダの全身を嘗め回す。凝視されたリダは恥ずかしそうに身をよじらせるが、誤解を解くために耐え忍んでいるようだ。そうやってモジモジしている姿はむしろ女の子のようなのだが。

「男……」

 ぱっちりとした丸い瞳。ふわふわの黒いリボン。艶のある髪と、特徴的なポニーテール。

「……ホントに?」

「ホントにホントですっ! どこからどう見ても男じゃないですか!」

 どこからどう見ても少女にしか見えない。

 本人は意地でも認めようとしないので、ガルドにとってもこのやり取りは面倒に感じられる。彼にとっては充分男らしくしているつもりであるようで、周囲のこの反応は気に入らないらしい。

 まなじりを吊り上げながら、リダがびしょ濡れの服を勢いよく脱ぎ捨てる。上も下も、とにかく身に着けているものは全て。

「男ですから、ガルドに見られても平気ですっ!」

 取り外した鉄斧を置きながらそう宣言し、ガルドの方へ振り返って胸を張って見せた。体が小さい分、威厳があるというよりは可愛らしいという表現がしっくりくる。

「……いや、だったらリオナに見られるのを恥ずかしがるべきじゃないのか」

「あ。……あ、ひゃあぁぁぁ!?」

 赤面して目を逸らすリオナに気づき、両手で体を抱きながら悲鳴をあげて隠そうとするリダ。ますます女の子のよう、というより狙っているとしか思えない。

「うぅん……まあ、その、ごめん」

「が、ガルド! 早く、早く服を!」

「お前って奴は、全く……」

 慌ただしいリダに頭を抱える羽目になるのはこれから先も変わらないだろう。ある意味で前途多難な旅路を憂い、ガルドは誰にも聞き取れないような溜息をひとつついた。






「ふぅ……」

 一息をついたところで、エルクは次にするべきことを見失ってしまったことに気付いた。事態はひとまず収束したものの、蜘蛛族の少女の介抱がひと段落したことで何もすることがなくなってしまったのだ。

襲いかかってきた相手とはいえ、このまま置いて行くのも後味が悪い。彼らの里へ向かおうというのに、里へ入る前から心証を悪くしては人探しも難しくなるだろう。人によっては無視して先に進もうとするかもしれないが、三人の中で意識不明の少女を見捨てられる神経の持ち主は存在しなかった。

「すごいボロボロ……よくあんなに動けたね、この子」

 メフィが沈痛な面持ちで少女を見下ろす。

 横になっている少女は、肌の見えている部分がことごとく怪我を負っている。顔が綺麗なままで残っているのが不思議なほど、全身が傷ついてしまっているのだ。対面した時にも見せつけられたそれらは、こうしてまじまじと見つめるとより一層痛々しさが増して感じられる。

「よっぽど僕らのことを追い返したかったのか……なんにしても、精神力はすごく強いみたいだね」

「なんだか私たちを恨んでいるようにも見えましたし……やっぱり、蜘蛛族は人間が里に入ることを認めないんでしょうか」

「だとしても行くしかないわよね。今さら無理ですってあの人に言えないし」

「……そうですよね」

 考えれば考えるほど、不安ばかりが先行して暗い影を落としていく。下手をすれば命の保障さえない場所であるのに、心中を明るく保っていられるはずもない。

「……二人は先に戻ってていいよ。あとは僕が」

「はいダメ―。それ以上口にしないの」

「むぐっ」

 メフィとシューラの身を案じて下山するよう言おうとしたところ、先読みしたメフィによって口を塞がれてしまった。

「エルク置いて降りられるわけないでしょ」

「そうですよ。帰る時は三人一緒、ですからね?」

「……そうだね」

 以前にも同じようなやり取りがあったことを思い出し、学習しない自分を恥じながらエルクは照れ笑いをして見せた。


「…………っ」

「んう?」

 少女の口からかすかに息が漏れたのをメフィが聞き取り、彼女の顔に注目し始めた。彼女の容体を気にしていた二人も少女へと視線を集める。

「…………」

「どう?」

「気が付いたみたい」

「そうですか、よかった」

 うっすらと目が開き、まず覗き込んでいるメフィと目が合う。それから周りに集まってきたエルクとシューラに目を移し、それぞれの顔を呆けた表情のまま眺める。

「ねえ、大丈夫? どこか痛くない?」

「……?」

 まだ状況が理解できていないのか、心ここにあらずといった様子だ。横になった姿勢から起き上がろうとせず、そのまま再び目を閉じてしまうのではないかという危うささえ感じられる。

「ねえ、傷は痛まないかな。ひどい怪我をしてるようだけど」

「…………」

 エルクが重ねて声をかけてみるが、やはり反応は帰ってこない。エルクに顔を向けただけで何かを考えているようには見えず、どう対応したものか判断に困る。

 彼女の対応を今しばらく待った方がいいと考え、意思の疎通を諦めたエルクがその場に腰を下ろす。

「…………!!」

「あっ」

 少女の変化はその瞬間に訪れた。

 眼前のエルクを信じられないといった様子で凝視し、華奢な体を硬直させる。そしてバネ仕掛けのように体を起こし、燃え滾る炎のような敵意を再び瞳に宿らせた。

「……っ!」

「ああ、まだ動いちゃダメですよ。怪我がひどいんですから」

 そのまま後方に下がろうとしたようだが、立ち上がろうとした瞬間に表情をひきつらせてうずくまってしまう。全身を蝕む数々の傷は、やはり彼女の行動を大きく束縛しているようだ。

「初めて会った時のシューラと似た反応だね」

「蜘蛛族も人間が嫌いって証明された訳ね」

「うん……できれば違っててほしかったよ」

 シューラに支えられて体を寝かせ直す少女。なおもエルクをすさまじい形相で睨み付けており、体が動けばすぐさま襲いかかってきそうな雰囲気だ。

「……! ……っ」

「お、落ち着いてください。もう少し休んでおかないと」

「…………」

「ひっ……ひうぅぅ、すみません」

 興奮する少女をなだめようとしたシューラが威嚇されて怖気づいてしまう。世話をされることも不服に感じているのだろうが、臆病なシューラには酷な仕打ちだったかもしれない。

「……で、どうする?」

 その様子を見ていたメフィがエルクの袖を引っ張ってきた。

「どうするって訊かれても」

「助けてくれてありがとー、お礼に里まで案内しますー、ほどはないにしても、これじゃまともに手当てもさせてもらえなさそうじゃない?」

「ん……」

 メフィの言葉に反論できない。彼女の言う通り、少女はエルクたちが近づくことすら許さずにいる。こんな状態で治療を施せるとは思わない方がいいだろう。

「せめて彼女が動けるようになるまでは傍にいようよ」

「寝首をかかれないか心配ね……」

「そんな子じゃないよ。僕たちの事も、あくまで『追い返そう』としてただけだし」

「……どこまでも人がいいんだから、エルクは」

 どこか呆れたような、しかし喜んでいるような微笑みを向けられた。

 自身のお人好しな性格はエルクも自覚している。自分だけならばまだしも、それにメフィとシューラまでつき合わせてしまうのだからもう少し冷静になって然るべきだろう。

 彼女たちは、エルクのそんなところを受け入れた上で一緒にいようとしてくれている。そしてそれに気付いている以上、エルクは彼女たちの好意を利用していると言っても間違いではない。

「……少し早いけど、今日はここでキャンプにしよう」

 自己嫌悪を抑えこんで口にできたのは、そんな簡潔な一言だけだった。




「ねえ、こっちで一緒に食べない? そこそこおいしいよ、エルクの作ったごはん」

「…………」

 夕食時になり、嵐のように荒れていた少女もだいぶ落ち着いてきたらしい。体も動かせる程度には回復したらしく、エルクが食事の準備を始めた頃には体を起こして体調を確認していた。

 だが当然というべきか、エルクたちからは一歩距離を置いたまま必要以上に近寄ろうとせず、食事が始まってからはずっと空を見上げている。メフィが食事に誘ってみても、反応は予想通りのものだった。

「うー……何か食べた方がいいよ? でないと傷の治りが遅くなっちゃうし」

「…………」

 ジロリと睨まれ、メフィもどうしようもなくなって口を噤む。何を言おうとも、一緒に食事をするという選択肢は彼女にはないらしい。

「毒なんて入ってないのに……」

「まあ仕方ないよ。そんなすぐに信じろって方が無茶なんだから」

「エルクが言い出したんじゃない」

「それを言われると返す言葉がないんだけど」

 少女の身を案じて一緒にいるというのに、その少女から拒絶されてしまっているのだ。矛盾と言えば矛盾した状況でもあり、なんともやりきれない心境になる。

「彼女に無理やり食べさせるわけにもいかないし、向こうから近づいてきてくれるのを待つしかないのかな」

「シューラほどあっさりとは分かってくれなさそうね」

「分かってくれてる、のかな?」

 理由が理由なのでいまいち肯定しきれない。

「あの子はシューラよりずっと気難しそうだし、私たちの事も嫌いっぽいし」

「シューラなら異種族同士だし、少しは分かり合えるかも……あれ、シューラは?」

 会話の途中から、隣にいたはずのシューラがいなくなっていることに気付く。食事を済ませた後はあるのだが、それを差し引いてもなぜか食器が一セット足りない。

「……ああ、あそこか」

 なんとなく確信を持ちながら少女のいる方へ目をやる。すると予想通り、新しくよそった夕食を持って少女に近づいていくシューラの姿が見えた。

「視線だけであんなに怯えてたのに」

「面倒見がいいのよ。優しいよね、シューラは」

「同感」

 どこまでも他人想いなところは自分以上かもしれない、とエルクはなんとなく考える。そうして思いやりの心を持つことには、人間か異種族かどうかなど関係ないのだ。

 まだ目に見えてこない差別の存在が、どうしようもなく憎らしく感じられた。


「どうぞ」

 湯気の立ち昇るスープを少女の脇に置いたシューラは、そのまま自分も少女に並んで腰を下ろした。シューラの存在には間違いなく気づいているだろうが、あえて無視しているのか顔も向けようとしない。

「温かくて元気が出ますよ」

「……」

 沈黙したまま空を見続ける少女。もともと声帯を持っていないので声は出せないが、例え出せたとしても今の少女は何も話すつもりはないだろう。

 しばらく返事を待ってみたシューラだったが、やはり一切の反応は帰ってこなかった。

「……仕方ないですよね」

 寂しげに微笑み、それから少女に合わせて空を見上げる。無理に飲ませようとはせず、少女と同じ景色を見てシューラの気持ちもそちらに向けられた。

 少女はシューラの存在をやや気にしているようだが、やはり声はかけずに無視を徹底するつもりらしい。

「空、キレイですね」

「…………」

 空気が澄んでいるのか、見上げて映る星のまたたきは街中で見るそれよりもはるかに輝いている。高くそびえる木々が視界を狭めているものの、それを補ってなお余りある魅力に満ち溢れていた。

 もう一度、シューラが少女の様子を窺う。空から視線を外さないまま、しかし自分の方を向いたシューラには気が付いたようだ。口をへの字に曲げ、いかにも機嫌が悪いことを演出しようとしている。元々あまり愛想がよくなかったため、そうした表情の変化は非常に薄い。それでも、すぐ隣で見ていたシューラはその変化を敏感に感じ取ることができた。

「……あのう」

 しばらく迷っていたシューラだったが、やがて恐る恐る言葉を口にする。

「やっぱり、私たちはこれ以上山に入らない方がいいですよね?」

「……」

 目を合わせずに頷く少女。そこに関しては今も意見の変化はないようだ。

「でしたら、あの、私たちの代わりに会ってきてもらえませんか? それなら、私たちも無理にお邪魔しなくて済みますから」

「……」

 相変わらず何の返事もないが、続きを待っているようにも見える。そう解釈したシューラはさらに話を続けていく。

「ええっと、あの、手紙とペンダントを預かっているんですよ。蜘蛛族の方だったんですけど、ずっと会っていない娘さんに渡してほしいって」

「……?」

 そこまできて、初めて少女に動きが見られた。

 シューラの言葉を聞いた途端、それまでは無かった輝きが目に宿り、ゆっくりと顔をシューラへと向けてきたのだ。そして話題への興味を隠すことなく、さらなる詳細を求めるように続きを促してきた。

「あ、あのう……? 私たちが頼まれたのはそれだけで、あまり難しい内容ではないと思うんですけど」

『名前は?』

「え?」

 簡潔な言葉が脳内に響く。

 どうやら、彼女が初めて『糸』を使って会話を試みてくれたようだ。厳密には昼間の戦闘中もエルクに対し数語の語りかけをしていたのだが、意思の疎通を図っているのはこれが初めての事だった。

『名前。頼んできた、その人の』

「あ、はい……でもあの、すみません。訊き忘れてしまったんですよ」

 蜘蛛族の男性の名前を思い出そうとして、当時はドタバタしていて最後まで名前を訊けなかったことを思い出す。多少は親しくなった間柄であるだけに、そのドジはうっかりと呼ぶには度が過ぎていると言えるかもしれない。

「あ、でも、娘さんの名前は聞いてありますよ! あの、その人のこと知ってたらぜひお願いします」

「……」

 むしろ、尋ね人の名前まで知らなかったらどう探すつもりだったのか。それを問いかけるような視線が少女から浴びせられても、シューラは意に介せずに柔らかく微笑む。

「今年で十五歳になったそうなんですけど……シオリさんって人、知りませんか?」

 少女から語りかけてくれたことを嬉しく感じ、シューラは自然と笑顔を浮かべていた。少女の心がわずかでも開いたことを喜び、無意識のうちに饒舌になる。

 だからこそ、その一言はある意味で迂闊だった。

「……!」

 少女が硬直する。

 糸で縛られたエルクのように、全身の挙動の一切が静止した。空のような青色を湛えた瞳でシューラをまっすぐ見つめ、心の中を覗き込もうとしているかのようだ。極端な無表情を貫いているものの、反応としてはこれ以上ないほどに分かりやすい。

「あの……?」

 顕著な変化に流石のシューラも気づき、いくらか恐懦(きょうだ)を蘇らせて少女と目を合わせる。

『シオリ?』

「は、はい……ご存じなんですか?」

 少女の方から訊き返され、たじろぎつつもしっかりと言葉を返す。

 名前を再確認してきたあたり、心当たりがあるのだと推測できる。それが非常に親しい仲なのか、たまたま名前を知っている程度なのかは分からないが。

「…………」

 表情を強張らせ、糸による発言もなくなり、完全に沈黙する少女。その姿からはあまりいい情報を期待できない。

「ひょっとして、シオリさん……」

『死んではない。生きてる』

「そ、そうですか」

 最悪の事態ではないと分かり、ひとまず胸をなでおろす。

「それで、そのシオリさんはお知り合いなんですか?」

「…………」

 シューラの問いには答えず、少女は会話を打ち切って再び夜空に没頭し始めてしまった。深追いしてほしくないという意思がひしひしと伝わり、これ以上会話は続けられないと痛感させられる。


 だがその際に、少女さり気なくスープの器を手に取ってからシューラに背を向けた。

 ただそれだけのことだが、それがシューラには何よりも嬉しいことであった。

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