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ぼくらの天使  作者: 半導体
二章
27/56

26話 絡み合うイト

 歩みを進めるにつれて平坦だった大地は一気に傾斜を増し、広葉樹ばかりだった植生も針葉樹が生い茂る森林に様相を変えている。

 他では見られないほどの急激な環境の変遷は、ヒューク山がいかに切り立った過酷な環境であるかを如実に表していた。

「ひゃう!」

 何度目とも分からない転倒にメフィが声を上げる。

 すでに彼女の全身は土にまみれており、錆色の髪も小枝と絡んでぼさぼさになっているという状態だ。

 すっかり慣れてしまったエルクはすぐメフィに近づき、しりもちをついている彼女に手を差し出した。

「大丈夫?」

「うん、ありがと」

 余計な言葉はとっくに言い飽きているので、やり取りもごく単純になっている。器用にバランスをとって歩いているシューラは、疲労のせいか一言も喋らなくなってしまった。


 つまりそれほどの時間、三人は山中を探索し続けているのだ。


 先駆者たちによるものか、木々の間を縫うようにして道のようなものが続いている。もちろんしっかり舗装されているわけではなく、誰か通った形跡がある程度のものだ。

 それだけのものであっても、エルクたちの探索には充分な助けとなっていた。

 急勾配に加えて落枝や根などで足場が悪く、自由に歩きまわることさえ難しい。目印が全くない未開の土地より、こうして筋道をたてるきっかけのあるほうが探しやすいのだ。

 事実、エルクたちの探索は事前の予想よりも遥かに早く進められていた。


「あそこで少し休憩しようか」

 前方に開けた場所があることを認め、エルクが久しぶりに意味のある言葉を発した。それを聞くなり、沈黙していたメフィとシューラの表情が一気に明るくなる。

「そろそろ休まないと体が持たないからね」

「……っ!」

 無言で何度も頷く女子二人。その反応を見たエルクは、彼女たちに登山は酷だったかもしれないと不安を覚え始めていた。

 これほど登りにくい山は、体力自慢の登山家でも手を焼くレベルの場所だ。おまけに正体不明の何かが中腹に出没して、それに襲われる人間が後を絶たないというではないか。

 シューラは体力に自信がないと話していたし、メフィもつい先日までは山と無縁の生活を送る一人の少女にすぎなかった。

 そんな彼女たちに、いきなり難易度の高い山を登れと言うほうが無茶なのだ。

「きついようなら、二人は麓で待っててもいいよ?」

「……っ!」

 やはり何も言わないまま、今度は首を横にぶんぶんと振る。さらにメフィからは恨めしそうな視線を浴びせられた。

 彼女たちの言わんとしていることはエルクにも分かる。それに納得できないからこそ、こうして頭を抱える羽目になっているのだ。

「まぁそうだろうね。なんとなく分かってたけど」

「……」

 大きく頷かれてしまい、エルクは大きく溜息をつく。

 二人にもエルクの懸念は伝わっているはずなのだが、共に行動することに固執している節がある。各々の事情で孤独を避けようとしているとはいえ、別行動が全くできないというのは何とかしなければならない。

 しかし、エルクも今すぐに一人で行動できるほど心が据わってはいないのだが。

「……ん、この辺りでいいかな」

 頭上から淡い光が差し込んでいるのを確認し、エルクは歩んでいた足を止めた。

 木が生えていないため、枝葉に覆われて見えなくなっていた空がよく見えている。風にそよぐ木々の影に従ってそれはゆったりと蠢き、濁った青緑色の空はまるでくすんでいるかのようだ。

 光があまり届かず、肌に纏わりつくような湿気が充満している。水分を多く含む土は踏み込むだけで沈んでしまい、仮にも居心地の良い場所とは呼べない。部分的に安定した平地になっているだけまだましなのかもしれない。

 幸いなことに、手ごろな大きさの倒木が一本横たわっていた。一面が苔に覆われているものの、腰を下ろして一息つくにはちょうどいいサイズである。

「よっこいしょっと」

 エルクが腰かけると、メフィとシューラもそれに続いた。接地面が徐々に湿っぽくなっていく点を踏まえても、今の二人には充分な救済だろう。

「……エルク、『よっこいしょ』だって。おじさんみたいだね」

「んな!?」

「あはは……いいじゃないですか。可愛らしいですよ」

 休憩に入るなり二人から笑いかけられた。

 馬鹿にしているニュアンスはなく、単に気を紛らわそうとしているだけのようだ。それでも複雑な心境に変わりはなく、エルクは気恥ずかしさから顔を明後日の方角に向けた。



 ふと思い返す。

 登山者を襲っているバケモノが出没するのは、蜘蛛族の暮らす中腹のあたりだという。そして、エルクたちが目指しているのもまた中腹である。

 どのあたりが中腹か具体的に線引きできるわけではない。あくまで『山の中辺り』を中腹と呼ぶのであって、人によって『中腹』というものは違ってくるだろう。

 ――つまり、エルクたちの今いるこの場所もまた、中腹と呼ばれている可能性もあるのではないか?


「伏せてっ!」

 全身が感じ取った『何か』に従うまま叫ぶ。同時に手を伸ばし、反応の遅いメフィとシューラを思い切り突き飛ばす。


 その直後、突き出した手が石のように固まって動かなくなった。



「ちょっ……いきなり何すんのよ? 変な瘴気にでも感化されちゃった?」

 事態を呑み込めていないメフィが打ち付けた腰をさすりながら苦言を呈する。だが、明らかな異変が襲いかかっているエルクに釈明する余裕などない。

「エルクさん?」

「二人とも、できるだけ一か所に纏まって! できれば周りの様子も警戒して」

「っ! 敵ですか!」

 不自然に硬直した腕を見てシューラも現状を把握したようだ。メフィに駆け寄り、お互いの背中を合わせて死角をつくらないように身構える。

 二人が適切な行動に移ったことを確認すると、エルクは気持ちを落ち着かせて未知の敵の対処を模索し始めた。

「くっ……」

 いくらか前後に動かそうとしてみても思い通りになる様子はない。外見に束縛されている様子はないが、鎖でがんじがらめにされたような感触で動きを制限されている。

 敵が仕掛けてきたのは間違いない。だが、このあからさまな隙に追撃を加えてこないのは奇妙だ。よほど用心深いのか、あるいは姿を見られたくないのだろうか。

 その結果として、エルクはまだ相手の位置すらも把握できていない。

「……何も、起きないね」

「ええ……」

 緊迫感とは裏腹に場が静まり返り、メフィとシューラが不安を口に漏らす。あくまでエルクの腕が拘束されただけであり、彼女たちはまだ実感を持てていないのだろう。

「え、エルク? その腕、ひょっとしてつっちゃっただけなんじゃ――」

「来ちゃダメ!」

 不用意にエルクに近寄ろうとしたメフィを一喝する。

「え」


 直後、メフィの体がゴム毬のように吹き飛ばされた。


「ひゃああぁあぁあ!?」

「メフィさんっ!」

 盛大に土砂の波をたてながら地面を引きずられ、全身が泥にまみれてからようやく止まる。その勢いで木に直撃していれば大怪我どころでは済まなかっただろう。

「メフィ!」

「うー……口に土入ったぁ」

 泣きそうになっているメフィに駆け寄ろうとしても、絡め捕られた腕がそれを許さない。ただし、思い切り力を込めると少しずつ動き始めたので、物理的に押さえ込まれているだけのようだ。

「もぅっ、どこに居るのよ! か弱い乙女をこんな目に遭わせて!」

「待って、すぐ行く」

 今にも怒りで暴走しそうなメフィをなだめ、エルクは冷静に状況を整理する。

 再びメフィが標的にされれば、今度は無事でいられる保障などない。敵の注意をエルクに引き付け、メフィとシューラの逃げる隙をつくらなければならないのだ。

「っ……!」

 腕に激痛が走り、浅い裂傷が生じる。それと同時に、後方から枝の軋む鈍い音が聞こえた。

 エルクが腕に力を込めると再び枝がざわめく。わずかな振動にも反応して、腕と枝が連動しているかのようだ。

 その事実に気づき、エルクは一つの事を悟った。

「そうか、これは……」

 レクタリアで会った蜘蛛族の男性のことを思い出す。

 彼は会話において自らの『糸』を利用しており、会話以外でも様々な用途があると話していた。

 ならば、この硬直もその『糸』によるものではないのか。

 糸の先を手近な枝に巻きつけておけば、エルクを無力化してメフィとシューラに集中することができる。メフィが突然吹き飛ばされたのも同様の手を使ったのだろう。

 もちろん、敵が蜘蛛族であると確認できるまで断定はできないのだが。

「やっ、やああぁぁっ!」

「ひああぁっ!?」

 メフィとシューラの悲鳴で、エルクの意識は現実に引き戻された。二人は一纏めにされて捕まってしまったようで、不自然に密着しながら大木に括りつけられている。糸が見えないため、幹に張り付いている二人の姿はどこか滑稽だ。

「っと、悠長に分析してる場合じゃなかった」

 エルクは完全に封じ込めたと思っているのか、新たに攻撃を仕掛けてくる気配はない。今のうちに突破できれば状況を逆転することも可能だろう。

「え、エルク! どうしようこれどうしよう!?」

「分かってるから落ち着いて!」

 パニック状態のメフィが長くもたなそうなので、エルクはすぐに腕へ力を集中させ始めた。

 ぎちり、と嫌な音がして全身に電気が走る。刃が肉に食い込むようにして次々と新たな傷が生まれ、力んだ反動で勢いよく血が噴き出す。

 肘から先が切り落とされるような激痛を覚え、それでもエルクは込める力を緩めない。

「ぐっ……こ、の」

 自身を束縛しているのであろう後方の枝を見つめ、想像する。

 ――この腕だけで、僕はあの枝を折れる。

 枝と言っても、若木の幹ほどの太さがある。外見から折れた様子を想像するのは難しい。

上に乗って体重をかけても折れるかどうか怪しいそれに、腕のみの力で打ち勝てると自身に言い聞かせて染み込ませていく。

――いける!

 一瞬に全てをかけ、力の限り腕を引き寄せる。

「こんのぉぉおおぉぉあぁぁあぁ!」

「!?」

 その瞬間、落雷のような爆音と共に巨大な枝が幹から剥がれ落ちた。


「……あ……ぅええ? エルク、何やってん、の……?」

「うん? 何って言われても……見たままとしか」

 自由になった腕でナイフを取り出し、目に見えない糸を手探りで切断する。切れた感触があったので、やはり襲ってきたのは蜘蛛族で間違いないようだ。

「信じられない……人間ってこんなこともできるんだね」

「人間じゃなくても無理だと思いますけど……」

 身動きが取れないままの二人の言葉を聞き流し、エルクは相手の次の一手を警戒して身構えた。

 驚いているのはメフィやシューラだけではない。三人を隠れて見ている敵もまた、今の所業は驚愕せずにはいられなかっただろう。狙い通り、エルクに注目が集まっているのは確かめるまでもない。

 だがそれは同時に、先刻よりもさらに厄介な策を講じてくるということになるだろう。

 これまではあくまで行動を封じてくるだけだったが、エルクにはそれが通じないと判断した可能性もある。多少は身の危険も覚悟しなければならなくなったかもしれない。

「それでも姿は見せないのか。よっぽど人目を嫌ってるのかな?」

「そんなのんびりしてていいの!?」

 ジタバタするメフィの言葉は聞こえないフリをして、エルクはまず敵の出方を窺うことにした。

 エルクが自由になったのは伝わったはずだ。それでも焦って攻め立ててくることはなく、様子を見守る姿勢を崩さない。度を越した慎重さとも言えるが、対応しにくいことこの上ない戦法だ。

 相手の出方を待っていれば、今度はエルクでも対処しきれなくなるかもしれない。特別な戦術でなくとも、大木の幹に括りつけられればどうしようもなくなるのだ。

 そう考えたエルクは、一つの賭けに出ることにした。

「……何もしかけてこないようだし、そっちを助けた方がよさそうだね」

「え? あ、う、うん」

「すみません、お手数かけます」

 糸を取り払ったナイフを握り、行動不能に陥っているメフィとシューラの元へと駆け出す。

 注意は二人に向けられており、エルク自身も不用意だと自覚できる行動だった。

「うっ」

 ナイフを持つ手が突然何かに掴まれたような感覚に襲われる。

 エルクのナイフを封じようと糸を絡ませてきたのだろう。走り出していたエルクの体は後ろに引っ張られる。

「ちょっとエルク!」

「んっ……大丈夫!」

 確かに不用意な行動ではあった。

 しかし、だからこそ相手がどう動くかを容易に読むことができる。

 その攻撃を『予測していた』エルクは、慌てずにすぐ態勢を整え直す。

 そして、まだ相手と繋がっているだろう腕の糸を力の限り引き返した。

「これは……アタリかな」

 確かな手ごたえ。

 エルクの体が切り刻まれることはなく、糸の反対側を引き寄せている感触がある。真上から抵抗があるので、相手はどうやら枝の上に隠れていたようだ。

 それを裏付けるように、エルクたちの上方の枝が不自然に音を立てた。

「気を付けて、落ちてくるよ」

「いえあの、動けないんですけど」

 いくつもの枝にぶつかりながら何かが落ちてきているようだ。警戒を緩めず、三人は音のする方向をじっと見つめる。

「……来た!」

 一際大きな音を立てて頭上の枝が大きくたわみ、先端が折れる。そして枝と共に人影が落下してきた。

「…………!」

 それは少女だった。

 明るい金色のショートヘアに、髪とは対照的な漆黒のオーバーオール。深い青色を湛えた大きな瞳は、あからさまな敵意を含んでエルクのことを睨みつけている。

「こ、子供?」

 メフィが目を丸くしている手前で、エルクもまた言葉を失うほどに驚いていた。目の前に現れたのがエルクたちと変わらない年齢の子供だったのだから無理もない。

 警備の任に就くのは、普通に考えれば腕力のある男性だ。糸の扱いを重視するのであれば女性が当たっても不自然ではないが、それでもエルクたちと同年代であるのは違和感が残る。

「……っ」

 困惑するエルクたちをよそに、少女は殺気を纏いながら立ち上がろうとする。だが落下した時にどこかぶつけたのか、バランスを崩して再びしりもちをついてしまった。

「あ、だ、大丈夫?」

「…………」

 物騒なナイフはしまって声をかけてみるが、少女が気を許す気配は微塵もない。今しがた引きずり落としたばかりなのだから無理もないだろう。

 しかしそれを踏まえても、少女の様子は明らかにおかしい。枝から落ちただけにしては全身があまりにも汚れており、息も不自然なほど荒くなっている。ついさっきまで戦場を駆け巡っていたと言われても納得できる、満身創痍を体で表現したような有様だ。

 エルクと戦う意志を見せてはいるが、今にも(くずお)れてしまいそうな危なっかしさがある。

 彼女の闘志の中に、エルクはある種の決意のようなものを見た気がした。

「……今ので怪我したって訳でもなさそうだけど。えっと、驚かせちゃってゴメン。でも僕たちに争うつもりは――」

「……!」

 言葉を遮るように少女が腕を突き出す。それと共に無数の白い糸が放たれ、エルクを縛り上げて動きを制限してきた。肉眼で確認できるようになった分、容易には振りほどけない強度がありそうだ。

「うわぁエルクが繭玉みたい」

「そこまでではないですよ。巻き板、くらいじゃないですか?」

 やけに冷静に実況している後ろの二人に言ってやりたいこともあったが、少女の力が思いのほか強く、そちらに集中せざるを得なくなってしまう。

 避けようと思えばできないこともなかった。ただ、避けてしまうと余計に彼女の警戒心を強めてしまうだろう。本気で殺しにかかってきているわけではなさそうなので、エルクは大人しく彼女の術中に嵌まることを選んだのだ。

 こうでもしなければ対話が成立しないという事実には、幾ばくかのやるせなさを感じずにはいられなかったが。

「僕の話って、なんでこう聞く耳持ってもらえないのかな……」

「エルクさん?」

「うん、今はそれどころじゃないよね」

 エルクを捕縛したことで冷静さを取り戻したのか、少女がゆっくりと立ち上がる。糸を出しているのは腕ばかりでなく、とにかく『全身から』放出しているようだ。

「……」

 優位に立ったと理解しても少女の顔に油断の色は見られない。怒りや憎しみといった感情は溢れんばかりに剥き出しているものの、彼女にいくらか戦闘の心得があることを示唆している。

「んー。確定はした、けど……」

「?」

 彼女が蜘蛛族であることを疑う理由はもうないだろう。ただ、それを口に出してしまうと彼女の神経を逆なでする結果になるのは目に見えている。

 無意味に争う理由を増やすより、まずは彼女との和解を優先すべきだろう。

「…………」

 少女はエルクの出方を窺っているようだ。下手に動けない状況に、誰も口を開くことができない。

 もっとも、蜘蛛族である少女はそもそも『言葉』を持っていないのだろうが。

「うーん。敵じゃない、って言っても信じてもらえないよね」

 ジロリとねめつける視線は「当たり前だ」とでも言いたげだ。糸を介した会話をしないのは、エルクとコミュニケーションを図ること自体を嫌がっているからだろうか。

「どうすればいいかな……とりあえず、君の要求には従おうと思う。どうして欲しいか言ってみてもらえる?」

 エルクの提案を聞き、少女は一瞬だけ眉をひそめたように見えた。その言葉を信じていいのか、そこから吟味しているようだ。

 やがてしばらく思案した後、簡潔な要求が糸を介して伝わってきた。

『帰って。今すぐ』

「あー……」

 予想通りと言えば予想通りの、いささか拍子抜けすらしそうな撤退勧告。ただ、自分と同年代の少女の言葉としてはあまりに重苦しいようにも感じられた。

「ごめん。僕たち、人を探していてね……見つかるまではどうしても帰れないんだ」

「…………!」

 極力刺激しないように言葉を選んだつもりだったが、少女は再び戦闘態勢を取ってエルクの緊縛を強めてきた。

『だったら、力づくで追い返す』

「いっ、痛い痛い!」

 体に糸が食い込み、バラバラに切り刻まれるような痛みに襲われる。機嫌を損ねてしまったのか、締め付ける力にも手加減がない。

 誰の目に見ても状況が悪く、本気で一旦逃げた方がいいかもしれないと考え始めた、その矢先のことだった。

「……っ」

 足元のおぼつかなかった少女が、とうとう崩れるようにして倒れてしまったのだ。

「あっ!」

 三人の声が重なる。相手が倒れたことで自由になったエルクは、すぐに駆け寄ってうつ伏せの少女を抱き起こした。

「ちょっと、大丈夫?」

 既に意識は無く、目を閉じてぐったりしている姿からエルクに対する敵意や闘志は感じられない。

「よくわからないけど、無茶しすぎじゃ――」

 体を支えながら呼びかけていたエルクの言葉が止まる。

「エルク?」

「これ……」

 近くで見てみると、少女の全身は信じられないほど傷ついていることが分かった。

 重傷と呼べる深手こそ負っていないものの、露出する腕や首筋には痛々しい裂傷や刺傷、青紫色の打撲痕まで多々見受けられる。どんな境遇で、彼女はこれほどの怪我を負わなければならなかったのだろう。

 想像を絶する苦痛に苛まれていたはずなのに、彼女の振る舞いにはそれらしい仕草は全く見受けられなかった。歳に見合わない強靭な精神力を感じさせるが、これではあまりにも不憫だ。

「と、とにかく……このままにはしておけないよね」

「エルクさーん」

「こっちも助けてー」

 少女に集中しかけたエルクを二つの声が呼び止めた。

「ああ、ゴメン、忘れてたよ」

「忘れてたの!?」

 タオルを敷いた上に少女を優しく寝かせ、それから身動きの取れなくなっている二人の解放へと向かう。実際は忘れていたわけではないのだが、妙に余裕を見せる二人よりも少女の容体の方がエルクにとっては見過ごせない点だったのだ。

「ちょっと待ってね……よし、これでだいじょ」

「このっ、バカァッ!」

「ふぐぇっ!」

 解放するなりメフィから鳩尾に蹴りを入れられ、エルクは苦悶にうずくまる羽目となった。






 厚手のカーテンを閉め切っているため、白昼にも関わらず室内は暗く沈みこんでいる。

透かし彫りのテーブルに置かれた天使の像の前で、一人の老翁がテーブルに両肘をついて沈黙の中に溶け込んでいた。

「失礼します」

 静寂が前触れなく崩壊し、藍色の服を着た女性が薄闇に入り込んでくる。入室から老人に会釈するまで動作に一切の無駄がなく、作り物のような印象が彼女の周りに付きまとう。

 老人は女性の姿を一瞥するだけで、彫像のように静止したまま動かない。

 ただし、それが無視ではないと知っている女性は、しばらくの間を開けてから無機質に口を開いた。

「……『奴ら』に動きがありました」

 ただ、その一言だけ。

 老人からの反応は相変わらず無かったが、女性はもう一度頭を下げ、そして老人からの反応を待った。

「場所は」

 その短い一言が、一瞬で部屋の空気を塗り替える。部屋中の装飾が牙を持ち、獲物を喰らい尽くさんと目を光らせているかのようだ。

「レクタリア北、ヒューク山麓です。目撃された際は二人だったようです」

 気圧されるでも自己主張するでもなく、女性は淡々と自身のペースを保って報告を続ける。目の前で猛る『部屋全て』を、鉄格子の向こう側から傍観しているかのように。

 老人と女性の間には、お互いに決して干渉できない不落の壁が存在しているかのようだった。

 硬直する時間。全てが静止し、無音の時間が非常にゆっくりと流れていく。

「もし『奴ら』が行動するようならば、阻止しろ。ただし人員は二人までだ」

 老人が、動いた。

 闇の中でもはっきりと分かるほど瞳に炎を滾らせ、鋭い眼光を直立する女性へと向けた。その途端、室内に充満していた殺気が纏めて女性を凶悪に包み込む。

「かしこまりました」

 それを肌で感じている女性は、それでも感情を動かされることなく無表情で踵を返した。

「……」

 扉が重厚な音を立てて口を閉ざし、老人は再び闇と静寂の狭間へと埋まる。

 暗黒に身を委ねる彼が何を考えているのか、知る術はない。

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