21話 軋み
『君は一人でここへ来たのではないはずだ』
挨拶をする間も無く、横になったままの男性から冷ややかな言葉が浴びせられた。薬草を取りに出かける前と比べてシューラに懐疑を抱いているように見受けられる。
「あ……あの、急にどうしたんですか?」
『君は今、人間と行動を共にしている。違うか?』
シューラの言葉にはほとんど耳を傾けようとしない。初対面の時に見せていた拒絶と似たものがある。だがシューラのことを遠ざけようとしている訳でもなく、彼の中でどのような変化があったのか推し量ることができない。
シューラにはどうすることもできず、それ以上を言葉にはせず黙って頷いた。
彼がどう感じているかは別にして、エルクたちのことを指して問いかけているのは間違いないだろう。これまでそれを負い目に感じたことはないが、彼にとってはシューラを見極める重要な判断材料になるのかもしれない。
彼との会話を考えると、それが印象にプラスに働く可能性は低いと思われる。
『君はその人間を信用しているのか?』
畳み掛けるような質問に、シューラは唇を噛んだ。
この質問にどう答えたところで、一度抱かれてしまった疑念を取り払うことは難しいだろう。彼の中で、シューラの言葉はすでに『疑わしいもの』として扱われているのだ。
「どうしてですか?」
『どうして?』
「私も知ってます。私たちに酷いことをする人間がいることを知ってます」
それでもシューラは、エルクたちのことを信じようと考えていた。
彼女の中で、彼らは既に『仲間』として受け入れているのだ。誰に何を言われようと、シューラに彼らを疑うつもりなど全くない。
エルクたちはシューラのことを代償なしに信じてくれている。シューラが彼らを信じる理由は、ただそれだけで十分だった。
「でも、だからと言って人間すべてを拒絶してしまってはダメなんです。怖いかもしれませんけど……私たちからも一歩、踏み出さないといけないんだと、私は思います」
エルクもメフィも、何の気兼ねもなくシューラと接してくれた。植物族だと知られてしまった後もその態度に変化はなかった。
だからこそ、シューラの中にこれほど大きな変化が表れたのだろう。
彼にもエルクやメフィのような人間の存在を受け入れてほしい。
シューラが望むのは、ただそれだけだった。
男性は再び沈黙した。彼の中でシューラの言葉はどのように受け止められたのかシューラに知る術はない。ただ、こうして熟考を要するだけの影響はあったのだと確信を持つことができる。
『人間を――』
「え?」
『君が行動を共にしている人間を、ここに連れてきてほしい。隣の部屋で待っているんだろう?』
男性がシューラの瞳を見据えている。先刻の目とはまた違い、どういった感情を伴っているのか読み取ることができない。
『なに、君の信じる人間を見定めようと思ったまでだ』
「えっ、えっと……」
『もちろん嫌なら強要はしない。君の連れの人間をそのように判断するだけだ』
決して強い語調ではない。それにもかかわらず、男性の言葉にはシューラに反論を許さないだけの力が込められていた。
エルクたちが男性に嫌悪を示すことはないだろう。しかし、男性がエルクたちを許容する保証はどこにもない。エルクたちに危害が及ぶような事態は何としても避けておきたいところである。
男性と同じ異種族として。そして、エルクたちの仲間として。
「…………分かりました」
シューラが悩んだのは、ごく短い時間だった。
エルクとメフィなら――そんな期待とともに、シューラは男性の要求を呑むことにした。
「……薬のことはどうなったの?」
扉を前にして、エルクは声をひそめてシューラに問いかける。シューラは元々薬を渡すために男性と会っていたはずだ。それがどうして、エルクが男性と会って話をするという展開になっているのだろうか。
「ご、ごめんなさい。その、薬のことを言い出しにくい空気になってしまって……」
「あー、わかるわかる」
メフィの同意が後ろから耳に入る。周囲の空気を気にしたことがあったのか、という感嘆は胸の内にしまっておくことにした。
「じゃあ、話がひと段落したら僕から……いや、シューラから切り出したほうがいいのかな」
「それは……ちょっと、自信がないです」
男性に疑われたことを気にしているのか、シューラが悲しそうに目を伏せる。エルクが解決できる問題ではないので今は何もしてあげられない。
「まあ、まずは実際に会ってから考えようよ。ここで悩んでも仕方ないでしょ?」
メフィの意見に反論の余地はなく、エルクは改めて男性のいる部屋へと向き直った。
「失礼します」
エルクが恐る恐る扉を開くと、真っ先にベッドに横になる男性の姿が目に映った。決して広いとは言えない部屋で、無骨なレイアウトがどうしても気になってしまう。病人のいる部屋であると思い出してすぐにその考えを打ち消したが、自分が同じ立場に置かれた時のことを想像したエルクは気が滅入りそうになる。
「ちょっと、早く入ってよ」
「あ、ごめん」
後ろからメフィに背中を押された。入り口で放心しては邪魔なだけだと気付き、エルクはすぐにベッドの脇まで歩み寄る。すぐにメフィ、そしてシューラと女性もそれに続く。
男性は、すぐそばまでやってきたエルクとメフィを冷え切った瞳で睨みつけてきた。病気で衰弱しているのは目に見えて明らかだが、気力の面に限れば健康体のエルクにも負けていない力強さがある。
「……初めまして」
「…………」
挨拶を口にしても向けられた殺気に変化はない。ただ、それは単純な敵意や警戒心とは趣が異なっているように感じられる。エルク、そして後ろに立つメフィのことを吟味しているかのようだ。
シューラの言葉を反芻し、エルクは彼がどういうつもりなのか少しずつ理解し始めていた。
「僕たちのことは……シューラから聞いていると思います。僕がエルク、彼女がメフィです」
「は、初めまして」
男性に気圧されたのか、メフィは普段の活発な様子からは想像できないほどしおらしくなっている。あまり彼女を男性の前に押し出さないようにして、エルクは自分一人で男性と対峙することを決めた。
「……僕らはあなたたちを差別したりはしません」
あえて飾らず、エルクはストレートに断言する。
「あなたやシューラがどんな仕打ちを受け、どんな気持ちで今ここにいるのかはわかりません。ただ……その仕打ちが間違っているというのは、僕たちにも断言できる」
下手に回りくどい言い回しをしても男性の信頼を得るには足りない。取り繕ったような言葉では彼の心を開くことなどできないだろう。そう確信したエルクは、ただ自分の心の内だけをつらつらと語り続ける。
「僕たちを信じて、とは言いません。ただ、シューラがあなたを本気で助けようとしているのは紛れもない真実です。どうかそれだけは分かってあげてください」
「……!」
特に何かを意識したわけではなかった。
だが『その一言』で、男性はあからさまに動揺していた。
「?」
「……、……」
何をしようとしたのか、男性は横になったまま体を不自然に動かし――すぐにそれをやめ、枕元からノートとペンを取り出した。乱暴な手つきでページをめくり、中ほどのページでペンを滑らせ始める。
そしてそれを書き終えたかと思うと、書き込んだページをエルクに突き付けて見せた。
『君はなぜ、シューラと共に行動している?』
筆談で意思の疎通を図るつもりのようだ。女性やシューラとの会話でもこの手法を用いたのだろうとエルクは推測する。
「なぜって……彼女は仲間ですから、当たり前のことじゃないでしょうか」
シューラは『故郷に帰りたい』と言った。そしてその後『一人では心細いから』という理由でエルクたちに同行するようになった。
振り返ってみても、何か特別にシューラと親密になるような事件があったわけではない。男性が不思議に思うのも無理はないだろう。
それでも、彼女がいることにエルクが疑問を覚えたことはない。
リオナたちとの一件や、今回の依頼に関してもシューラの存在は不可欠だった。なるべくしてなったとも考えられるが、既にエルクとメフィにとって彼女は『行きずり』で済ませられるような間柄ではないのだ。
「まあ彼女の故郷に着くまでの間だけですけどね。大切なのは一緒にいる時間や出会ったきっかけではないと、僕は思っていますよ」
「……」
断言したエルクに男性は何を感じ取ったのか、ペンを握ったまましばらく硬直してしまった。そして難しい顔をしたまま、ゆっくりと筆が動き始める。
『異種族である彼女を仲間として受け入れることに抵抗はなかったのか?』
「え?」
ある意味予想できた質問に、エルクは疑問の声をあげた。
男性はこの質問をしようか迷ったようだ。エルクと目を合わせようとせず、しきりに背後のシューラへと意識を傾けている。エルクの真意というより、彼女の本心を気にしているのだろうか。
それがエルクには不思議だった。
「そんなの、あるわけないじゃないですか」
「……!?」
あっけらかんと言ってのけるエルクに、男性はノートを取り落としそうになるほどの衝撃に襲われたようだ。
エルクも男性の反応には気付いたが、気にすることなく言葉を連ねていく。
「だって当たり前でしょう? 人間かどうかが仲間になる障害にはなりませんし。それに彼女は人間でも珍しいくらい優しいですし、拒絶する理由なんてありませんよ」
「え、エルクさん……」
話を聞いていたシューラが頬を桜色に染めて俯く。恥ずかしそうにしているものの、褒められるのはまんざらでもないようだ。エルクも言い終えてから大胆なことを口走ったと自覚して顔が赤くなる。
一方の男性は、ペンを握ったまま完全に静止してしまっていた。当初の疑惑の意志はどこへやら、ただ信じられないといった表情でエルクのことを見据えている。
「と、とにかく……きっかけはどうあれ、シューラは大事な仲間であり、友達なんです。いまさら種族がどうとか、気にしたりしませんから」
咳払いをし、男性への返答をまとめる。
言いたいことは言った。あとは男性がエルクの考えにどこまで理解を示してくれるかだ。結局のところは彼自身から歩み寄ってもらわなければ何も進展し得ない。これ以上言葉を連ねても意味はなさないだろう。
しばらく続く沈黙は彼が決意を固めるまでの時間と考え、エルクは口を開かずに待った。
『ああ……道化は私の方だったようだ』
沈黙を先に破ったのは男性の方だ。
『なるほど。シューラ、君が信じた人間がどういう者なのか、私にもようやく理解できたよ』
「あ、ありがとうございます!」
「え? あ、あれ?」
言葉を交わす男性とシューラを交互に見合わせ、エルクは現状が理解できずに目を白黒させる。
『私も君を信じることにしたよ。そう慌てないで、冷静に話をしようじゃないか』
「そう、ですけど……え? これってどういう……?」
リアルタイムで進行する『違和感』が、エルクの余裕を一瞬で奪い去った。
今、確かにこの場の誰とも異なる声が聞こえた。明らかに男の声色だったが、この場に彼とエルク以外の男はいない。となれば、必然的に彼の発したものだと絞り込むことができる。
しかし、男性は口を全く開いていない。
ノートを介した筆談での意志表現でもなく、まるでエルクの脳に直接言葉を送り込まれているような感覚で男性の『声』が聞こえてくるのだ。
「エルクさん、落ち着いてください」
「あ、うん……ごめん」
「エルクったら慌てすぎ。私たちの常識が通用しないことくらい、シューラで十分予測できたでしょ?」
同様の状態のはずのメフィはエルクよりもはるかに落ち着いており、余裕のある表情で混乱するエルクを諭してきた。それでも男性のことは怖いらしく、エルクよりも前に出ようとはしないが。
「えっと……僕たちと会いたいって言ったのは、こういう理由だったんですね。もういいんですか?」
『自覚していないだろうが、十分すぎるほど君たちのことはよく分かった。どうやら君たちは、愚直なまでにお人好しな子供ばかりのようだな』
「……なんか引っかかる言い方ね」
『これでも褒めているつもりだ。おかげで私も、人間という存在を少し見直すことができた』
「そうですか……よかった……」
男性にわずかでも影響を与えられたと分かり、エルクは胸をなでおろす。
あのまま拒否されたままであれば、わざわざ彼の治療を申し出たシューラが不憫な思いをする結果となっていただろう。彼女の胸中を鑑みれば、より良い方向に話が進んでいるようだ。
「ねえ、ちょっと待って。全然話についていけないわ」
するとそこで、最後方で黙っていた女性が抗議の声を上げた。
「あなたたちは何の話をしているの? 人間じゃないとか、異種族がどうとか、さっき見せたメモとは少し違うみたいだけど……そ、それに」
洪水のように情報が押し寄せ、女性は話の整理をつけられていないようだ。そしてその混乱が頂点に達したとき、女性の視線は男性へと向けられていた。
「どうして彼は、口を動かさずに喋っているの?」
『そうだな。これまで世話になったのだし、あなたにも知る権利はあるだろう』
疑問に答えたのは当人である男性だ。自身が人間でないことを隠すつもりはないらしい。
まだ病が治ったわけではなく、時折男性の顔が疲労と苦痛に歪む。しかしそれを常時あらわにすることはなく、男性はあくまで淡々とエルクたちと相対していた。
『君たちも聞いておきたいんじゃないか? 君……エルク君の様子から見るに、異種族についてはその存在を知っている程度しか知らないんだろう』
「……ええ、そうですね。是非お聞かせください」
男性の言うとおり、エルクたちが知っているのは彼が人間でないというところまでだ。先刻までは彼も植物族と信じて疑わなかったが、女性の話からはシューラとも違う別の異種族である可能性も十分考えられる。
全員が自身の言葉に意識を傾けていることを確認すると、男性は少し間を置いてから『話し』始めた。
『結論から言うと、私は人間ではない。人間からは蜘蛛族と呼ばれている異種族だ』
「人間じゃ、ない……!?」
女性が目を丸くして男性の言葉を復唱した。その反応はシューラの時のエルクたちとよく似ている。
エルクたちにとっても、『蜘蛛族』という新たな異種族の名前はショッキングな存在だった。覚悟こそしていたものの、未知の存在を容易に受け入れられる程エルクも達観していない。
『私たちは発声器官を持たない種族だ。なので、口を使って言葉を発することはできない』
「……病気は関係なかったのね」
今も男性は口を動かしていない。音声はすべて、聞いている四人の頭に刻み込まれるかのように流れ込んできている。
「じゃあ、この会話はどうやって行っているんですか?」
『これは種族名の由来にもなった点だが……我々は、蜘蛛のように体から糸を放出することができる。頑丈な糸で、移動から輸送まで大概のことはこなせる。いや、糸で大概のことをこなせるように進化した種族と言うべきか』
そう言って男性はおもむろに右手を挙げ、人差指から糸を射出させてノートを拾い上げて見せた。蜘蛛とは違って様々な箇所から糸を出せるらしく、伸縮や細さなども調整が効くようだ。
『そして、我々はこの糸をコミュニケーションの手段としても用いている。具体的に言うと――相手に糸を繋ぎ、それを介した振動によって擬似的に相手に伝えている。耳で聞き取る音の振動が元になっているから、君たちにも言葉として伝わっているはずだが』
「はい……確かに」
男性の言うような糸が体についているようには見えない。肉眼では見えないほど細いのだとすれば、本物の蜘蛛にも引けを取らない能力であると言える。
どれほど高度な技なのだろうと感心しかけたエルクだったが、彼らにとっては自分達の発声と同じ感覚なのかもしれないと考えることにした。
「しかし……僕たちはともかく、あの人に教えてしまって良かったんですか? あなたにとっても、彼女にとっても弊害がありそうですけど」
『私は当分ここから動けない。しばらく世話になる人にいつまでも隠し事を続けられる程、面の皮は厚くないのでね』
「薬を使ってもダメですか」
エルクの言葉にシューラがはっとして、男性のために作った塗布剤を取り出した。相変わらずの毒々しい外見に思わず眉をひそめそうになる。
『薬というのはそうすぐに効きはしないさ。それが無ければ病状はより深刻になっていくだろうが』
「じゃ、じゃあすぐに塗らないと! 失礼しますっ」
「シューラ、待って! そこまで急を要する訳じゃないから!」
『さすがにこの人数の前では……』
今にも男性の上着を脱がし始めそうなシューラを諌め、エルクと男性は大きく息をついた。必死になった彼女は周囲の様子が目に入らなくなってしまうようだ。
「薬は話が終わってからにしてもらえるかしら。一区切りつけてからの方が落ち着いて作業できるでしょう?」
「あ。そ、そうですね……すみません、取り乱してしまって」
女性に言い聞かされ、シューラもようやく納得したようだ。どうやら女性も少しずつ今の状況を理解してきたらしく、真剣な面持ちで男性の言葉へ注意を払っている。
シューラが冷静さを取り戻したのを見計らい、エルクは再び口を開いた。
「念のため確認しておきたいんですけど……蜘蛛族も、植物族と同じように人間に迫害されているんですよね?」
『ああ。私たちやシューラの種族に限らず、異種族全体を弾圧する動きが人間の間に存在しているのは確かだ』
「それは有名な話なんですか? すみませんが、人間である僕たちはそんな話をほとんど聞いたことがないんです」
『直接確かめたわけではないが、異種族であれば例外なく知っているだろうな。既に多くの被害者を生み出していて、少なくとも私の里ではかなり深刻な問題になっていた』
「……そうですか」
つまり、まだエルクたちの知らない未知の異種族も同様の憂き目に遭っているということだ。他にどれだけ異種族が存在するにしても、人間のせいで大手を振って街中を歩くこともできないのだろう。
理不尽な現実に歯がゆさを感じながら、エルクはさらに質問を続けた。
「では、それを把握した上であなたがこの街にやってきた理由はなんですか? 差別されている人にとってこの街は危険な場所じゃないでしょうか」
『君たちにも同じことを言ってやりたいが……まあいい』
シューラを連れていることを指して言っているのだろう。確かに、可能であればシューラがこの街に長くとどまるべきではない。どこが安全か不明瞭なまま行動するのが危険であるために現状で落ち着いているだけなのだ。
『来たくて来たわけではない、というのが正直なところか』
「それって……」
「つまり、誰かに無理やり連れて来られたってこと?」
メフィの予想に、男性は幾分か表情を暗くして頷いた。
「あなたの身に……何があったの? 私と出会う前、あなたはどんな目に……」
いい予感をさせない男性の態度に、これまで冷静を装ってきた女性も我慢しきれなくなったようだ。震える唇から彼女の不安が零れ出していく。
そんな彼女を突き放すでもなく、男性は優しい口調で回答を拒否した。
『あまり詳しくは訊かないでくれ。あの時のことを思い出すだけで……今でも吐き気が治まらなくなる』
「……そう。ごめんなさい」
何かを感じ取ったのか、女性はしつこく言及するようなことはしなかった。
「……訊かないでくれ、か」
男性の放ったフレーズがエルクの耳に残響し、かつてのシューラの言葉と重なる。
おそらく、彼らは同じような理由で望まずして人間の領域へと放り込まれてしまったのだろう。今はエルクたちとわだかまりなく過ごしているシューラだが、彼女もまたかつては男性と同じ絶望の中にいたのだ。
エルクたちはまだ、彼女の心の闇を知らない。
『私の人間不信もそこから始まった。以前から話に聞いていたのでもともと良い印象は持っていなかったが』
眉をひそめながら男性が吐き捨てた。聞けば聞くほど、彼の信用を得られたのが奇跡のように感じられてくる。その言葉の通り、現在でも彼は人間に対して激しい憎悪を抱いているだろう。
あまり触れる話題ではない。そう感じ取ったエルクは、早々に会話を切り上げることにした。
「ありがとうございました。貴重なお話が聞けてとてもためになりました」
『気を遣わせてしまったかな』
「とんでもないです」
男性もエルクの判断を分かっているようだ。それでも言葉数が少なくなっているのは、それほどまで当時の記憶が残酷なものだからなのだろうか。いずれにしても深入りすべきではないだろう。
「それじゃあ、薬を塗ってしまいましょうか。席を外しましょうか? それとも、僕たちも手伝った方が――」
『ああ、その前に少しだけいいかな』
次の行動を計画し始めたエルクを男性が引き留めた。
「何でしょう」
『私からも一つだけ――君たちに聞いて欲しいことがあるんだ』
男性の瞳がエルクたち三人を見つめる。
その瞳には、それまで覆い隠されて見えなかった慈愛の光が煌々と輝いていた。