1話 嵐
「失礼、ちょっと道を尋ねてもいいかな」
いかにも隊商の一員といった風貌の男が、近くにいた少年を呼びとめた。退屈そうにしていた少年は声をかけられた位置から動こうとせず、顔だけを男に向けた。
見た目は十代半ばといった雰囲気の少年に、男は気さくに歩み寄っていく。
「この道を行けばレダーコールの街につくかい?」
「ああ……はい、着きますよ」
少年の声のトーンは予想よりも低いものだったが、男はさして気にせず質問を続けた。
「どのくらいで着くか分かるかな」
「普通の人の足なら……三時間くらいでしょうか。歩き慣れた人ならもっと早いかもしれません」
「なるほど。ありがとう、助かったよ」
軽く頭を下げ、男は仲間の元へ戻るべく踵を返す。
「でも、行かないほうがいいですよ。絶対に」
だが、少年がそう告げて男の足を止めた。
「……どういうことだい?」
怪訝そうに眉根を寄せる男。今の少年の発言は、嫌でも気になってしまうほど大きな違和感があった。まるで警告のようにも受け取る事ができ、無視することが躊躇われてしまう。
対する少年は、あくまでも平然とした態度のまま、衝撃的な言葉を口にした。
「あそこはもう、ただの廃墟ですから」
レダーコールは、シダ大陸の南東に位置する比較的大きな町として知られている。
大陸第五位の人口を保有し、貿易の中継点として多くの商人が行き来する。そのために多種多様な物資を手に入れることができ、利便性の高さから『市場』という愛称で親しまれていた。
その『市場』が、見る影もない廃墟と化した。
一体何があったのか、情報は一切人々に伝わらなかった。事実を伝える人間が一人たりとも存在していなかったことが大きな要因となっているだろう。
事件の大半が「未知」のままとなり、大陸中の人々に不安と恐怖を撒き散らしていった。
この事件こそが始まりであったと発覚するのは、もう少し後の事となる。
遠ざかっていく男の姿を見送りながら、少年――エルクは小さく溜息をついた。
空一面を厚い雲が覆っており、日中だというのに薄暗い。風も強くなってきており、今にも雨が降り出しそうな気配だ。早急に雨をしのげる場所を探さなければならないのだが、彼にはまだそこを動けない理由があった。
「エールクッ! お待たせ!」
後ろから肩をたたかれたエルクは、呆れたように息を吐いてゆっくり振り返った。
「メフィ、遅いよ」
そこに立っているのは、錆色の髪の少女。自信に満ち溢れた目で、うんざり顔のエルクを真っ直ぐに射抜いている。
メフィと呼ばれた彼女は、レダーコールを離れる際に一緒になったエルクの幼馴染だ。幼さの残る顔立ちをしているが、それを感じさせないほどの勝気な態度が最大の特徴としてエルクに認識されている。
レダーコールを出た二人は現在、街道沿いの小池で小休止をとっていた。二人揃って全身汚れまみれだったので、ここで汚れを落とすことにしたのだ。
「僕はもうちょっと早かったと思うんだけど……」
「男とは違うのよ。洗い残したら嫌だもん」
言いながらメフィは、自らの頬を指でなぞった。ススで汚れていた彼女の顔は、今はその面影を感じさせない。対するエルクはというと、メフィより先に洗ったにもかかわらずまだ汚れの存在が目立つ。どちらが綺麗になっているかは一目瞭然だった。
「エルクももう一度洗ってきたら? そしたらちょっとはマシになるかも」
「いいよ、別に。雨も降りそうだし、それで流せば十分」
「……もう」
「?」
突然メフィが怒りだした理由が分からず、エルクはまた溜息をつく。急に疳癪を起こすのは以前からよくあったので、今ではエルクもほとんど気にしなくなっている。黙って嵐をやり過ごした方が被害を抑えられると、長い経験の中で学習しているのだ。
「早く出して」
見るからに不機嫌な表情と共に突き出される掌。
「何を」
「タオル!」
ほとんど叫ぶような声に、エルクは半ば呆れつつ――内心では、その元気に安心していた。
濡らしたタオルで手を拭いているメフィを見ながら、エルクは廃墟となったレダーコールでの事を思い出していた。
メフィと二人で少し歩き回ってみても、誰かの姿を見つけることはできなかった。既に街を離れていたか、他に生存者がいないのか、とにかく時間の無駄でしかないことは二人にもすぐに分かった。
街の姿から予想できていたことなので、 エルクはそれほど気落ちしなかった。もちろんその惨状を簡単に受容できたわけではなく、今も気が動転していると自覚している。
対するメフィは、途中で一切口を開かなかった。表情は普段通りの強気な少女のままひたすら沈黙を貫き通している姿が、エルクの脳裏に焼き付いている。
現在の彼女は、旅路の疲労を感じさせない活発な様子に戻っている。一見すればいつも通りの姿なのだが、無理に明るく振舞おうとしているのが端々に表れている。エルクは、とっくにそれに気づいていた。
当然だった。エルクもまた、彼女と同じ状態なのだ。
あれほどの惨事の直後だというのに、エルクもメフィも、あまりに落ち着きすぎている。
お互いが相手に気を遣いすぎているのかもしれない。だからこそ、こんな状況にありながら異様なまでに冷静であろうとしているのだろう。
乱暴な手つきでタオルをたたんだメフィがエルクの元へと戻ってきている。不自然に自然なその仕草を、エルクは遠い目で眺めていた。
「あ、降り出した」
空を見上げ、エルクが呟く。雲の色はますます濁ってきており、そこから降ってくる雨粒は既にかなりの勢いを得ている。本格的に土砂降りとなるまでそれほど時間はかからないだろう。
「やだ、せっかくキレイにしたのにー」
「とにかく急ごう。まだ強くなりそうだよ」
不満を口にするメフィをたしなめ、エルクも出発の準備を始める。もともと荷物はほとんど持ち出していないので、準備らしい作業があるわけではない。枝に提げていたリュックを掴んだエルクが振り返ると、いつでも走り出せそうなメフィがもどかしそうに彼を待っていた。
「しかしまあ、濡れるのも悪くないかもね」
「どういう理由で?」
「汚れが落ちる」
「……」
無言のままエルクの頭を小突き、メフィが先に走りだす。その後を追うようにして、エルクもすぐに駆け出した。
草木の葉に水滴が当たって弾み、降り注ぐ雨の勢いがどれだけ強いかを如実に表している。黒く姿を象っている雲はめまぐるしい速度で流れていき、遠方からは雷鳴のような音が近づいてきている。
「どんどん強くなるなあ……まいったな」
下り坂の空模様を確かめてから、エルクがメフィの横に並ぶ。基礎体力の差か、メフィの全速力もエルクにとってはそれほど速くないようだ。
「これ、多分嵐になるよ。外にいると危険なんじゃないかな」
「……エルク、何でそこまで落ち着いて……ううん、なんでもない」
走りながらメフィは、その顔から先刻までの勝気な表情を消し去った。だがそれも一瞬の事で、またすぐに普段通りの顔を作りだす。
「それくらい私でも分かるわよ。だからこうして走ってるんでしょ?」
「正論だけど……あてがあって走ってるんだよね?」
「……」
エルクの問いに、メフィは沈黙する。誤魔化すように目をそらす様子から、エルクはどんな返答がくるかおよその見当をつけた。
「ご、ごめん。慌ててたから何も考える余裕なくて」
「……まあ、メフィは昔からそうだもんね。大丈夫、気にしてないよ」
「ちょっ、それは酷くない!?」
メフィの抗議を聞き流し、エルクはスピードを上げてメフィの前に出た。進路は変わらず道に沿っているものの、その走り方は何か明確な目標がある時のそれだ。
メフィが首を傾げると、示し合わせたようにエルクが説明を始めた。
「メフィがいないときに隊商っぽい人に会ってね。別れてからあんまり時間も経ってないし、まだ近くにいると思うんだ。その人もどこかで雨宿りをしてるはず」
口を動かしつつも、エルクは道の両脇にくまなく視線を送っている。それらしいものを見つければ即座に反応できる態勢だ。
「なるほど、そんなことがあったのね」
納得したメフィも、エルクの後ろについて隊商の姿を探しはじめた。
「ついでに食料も分けてもらえると嬉しいんだけどなぁ」
「僕に訊かれてもね……」
滝のように雨が降り、容赦なく大地を叩いている。しきりに稲妻が輝き、時折落雷したかのような振動が伝わってくる。あまりの悪天候に、三歩先の障害物はもう見えなくなってしまうほどだ。水はけの悪い地面では、小規模な池や川が生じ始めていた。
パシャリ、と音がして水がはねる。ほとんど間を置かず、パシャ、パシャリと続く。
小柄な人影が水の上を駆け抜けている。そこに足元の水音と、酷く荒れた呼吸の音が重なった。
「助けて……」
誰にともなく発せられた声は、嵐の轟音の中に吸い込まれて消えてしまう。
「誰か、助けて……」
救いを求める言葉が繰り返される。だが、それすらも虚しく雷雨にかき消されてしまい誰の耳にも入らない。
何度も後ろを確認しながら、人影の疾走は続く。ただがむしゃらに走っているのは火を見るよりも明らかで、しばらくして急激に速度が落ち、倒れるようにして近くの大木にもたれかかってしまった。幹に頬をつけ、自身の過呼吸の確認をする。
「助けて……たす、け……」
言葉が途中で切れる。それと同時に頬が離れ、人影は地面に倒れ伏した。