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ぼくらの天使  作者: 半導体
一章
17/56

16話 風に紛れて

「……変な臭いしない?」

 走りながらメフィが疑問を口にした。

「すごく酸っぱい臭い……気分が悪くなりそう」

「あ、そうですね……? ちょっと、だけですけど」

 並走しながらシューラも同意する。言葉が短い間隔で切れるのは息があがってきているからだろう。

 鼻にかかるほどではない、かすかな刺激臭が先ほどからずっと漂ってきているのだ。いつまでも付きまとってくるのでメフィはそろそろ嫌気がさしてきたようだ。


 犬が逃げ込んだのは、曲がり角が多く視界の悪い細道だった。小柄な犬にとっては追跡から逃れる絶好の舞台だ。それを分かってここに逃げ込んだとすれば、相手は想像以上のキレ者ということになる。

「エルクはどこに行ったの? 近くにはいないみたいだけど」

「さっきまで、いたんですけど……回り、込んでるんで、しょうか」

 辺りを見回すがエルクの姿は見えない。待っていると犬に逃げられてしまうので、二人とも立ち止まらずに走り続けている。

 犬の方がはるかに足が速く、がむしゃらに追いかけていてもまるで距離が縮まらない。このままでは振り切られてしまいそうだ。

「また見失っちゃう!」

「はぁ、はぁ……あ、足が……っ」

「シューラ!」

「へ、平気、ですから……」

 息も絶え絶えなシューラは足取りも乱れており、これ以上の全力疾走は厳しそうだ。苦しさのあまり顔色もあまり良くない。

「シューラ、無理はしなくてもいいよ」

 彼女を置き去りにして行くわけにもいかず、この場の追跡を諦めようかという考えがメフィの頭をよぎる。

「およ?」

 そこで二人は、犬の様子がおかしいことに気付いた。

 道の途中で突然立ち止まってしまっている。そして何を思ったのか、少し手前の小道まで引き返してそこに飛び込んでしまった。

「……なに? 今の」

「エルクさん、来たんでしょうか……?」

 反対側から来たエルクに気付いたのであれば分かるが、それらしい姿は見当たらない。障害物のない直線なので、少なくとも臭いで感知できるような距離にエルクがいないのは確かだ。

 理解に苦しむ現象に、二人は呆気にとられてしばらく固まってしまう。

「……っと、それどころじゃなかった!」

 まだ犬を捕まえたわけではないことを思い出し、すぐに二人で走りだした。



「なんか、動きが、鈍くなったね」

 しばらく追跡を続けたメフィの感想がそれだった。

 これまでのように圧倒的なスピードで振り切られることがなくなったのだ。一時的には引き離されそうにはなるのだが、しばらくすると立ち止まって右往左往している犬に追いつく。二人の姿を見ると再び逃げ出すものの、流石にスタミナが切れてきたのか走るスピードが落ちてきている。

「これなら、追いつける、かもっ!」

「で、です、ね……はぁ、はぁ」

 だが、二人の方も体力の限界が近い。追いつくか逃げ切られるかは五分五分といったところだろうか。

 犬は大通りでの逃走をやめ、どんどん細い脇道に入っていくようになった。見通しが悪くなると同時に走りにくくなるので、それを狙ってもぐりこんだのだろう。

「頭いいのね、まったく……!」

 メフィがぼやく。これまでの行動でも汲み取れたことが、この段階になって彼女の苛立ちを一層強くしているようだ。あと一歩のところで捕まえられない歯がゆさがメフィから余裕を奪っている。

 そのためか、すぐ後ろに続いているシューラの様子にまで気が回らなかったようだ。

「あと、ちょっと……がん、ば……」

 これまで笑顔を保っていたシューラが、糸が切れたようにその場にへたり込んでしまった。

「シューラ!」

 それに気付いたメフィが慌てて引き返して駆け寄る。座ったままやや俯いているシューラの呼吸はひどく荒れており、肺を限界まで酷使しても酸素の供給がまるで追い付いていない様子だ。

「い……いぬ、が……」

「シューラ、もういいよ!」

 なおも走っている犬を追おうとするシューラを、メフィが前に立ちふさがって止めた。シューラの両肩を掴み、立ち上がろうとする彼女を再びその場に座らせる。

「犬は、また探せば、いいから! これ以上、無茶は、ダメよ!」

 息を切らせているのはメフィも同じであり、長く会話をできるほどの余力は残っていない。

 だが、今のシューラは明らかに自分自身の限界を超えてしまっている。もとより体力がある方ではなかったのだろう、ボロボロのメフィよりも更に状態が悪い。

「あ……」

 メフィに支えられながらシューラが顔を上げ、切なげに声を漏らした。

 メフィが振り返ると、彼女の視線の先には今まさに見えなくなろうとしている犬の姿があった。格段にスピードが落ちているのは見るだけで分かる。

 あのまま追い続けていれば捕まえることもできたかもしれない。そんな考えがよぎり、やりきれなさに唇をかみしめる。

「すみ、ません……私、迷惑、かけて」

 弱々しく聞こえるシューラの言葉がメフィの中で反響する。服の裾を握りしめて悔しそうに涙を浮かべる彼女の姿がメフィの目に強く焼き付けられた。

 シューラに非は無い。体が悲鳴を上げているにも関わらず、足を引っ張るまいと必死でメフィについて行こうとしていたのだ。言葉に出さずとも彼女の態度から嫌というほど伝わってくる。

 その結果として逆に好機を逃してしまったのだ。いくらメフィが励まそうと、彼女の自責の念は相当なものだろう。

「シューラ……」

「ごめん、なさい……。メフィ、さん、私は、いいです、から、犬を」

「できないよ、そんなこと」

「すみま、せん……」

 過呼吸の合間に謝罪を繰り返すシューラ。喋ることも辛そうな様子でいながら、それを厭わずに口を動かし続けている。

「シューラ、もういい、もういいよ」

 何度も謝られ、メフィもどうしたらいいのか分からなくなってしまった。犬はどんどん離れていくが、体が縛りつけられたかのように動かない。

 今の自分には何もできない。

 その事実を悟り、メフィは自分の全身から気力が散っていくのを感じた。

「……助けて」

 走りすぎて掠れた声で呟く。

「助けてよ、エルクぅ……」

 誰よりも信頼する幼馴染の名前を、静かに呼んだ。



「そんな大袈裟な」

 やりにくそうな声を後ろから発せられ、二人は反射的に振り返る。

「……大丈夫?」

「エルク!」

 苦笑いの幼馴染の顔を認め、メフィは緊張していた表情を一気に緩めた。

 エルクもずっと走っていたらしく、早いペースで肩が上下している。メフィやシューラと比べて余裕が見られるのは単純な体力の差だろう。

「二人ともごめん。もう少し早く戻れればよかったんだけど」

 彼も犬を追っていたのは間違いない。ただ、メフィたちと別れて何をしていたかが疑問として残ってしまう。右手には殆ど空になったビンが握られており、わずかに残った液体がゆらゆらと揺れている。色つきのビンでラベルまで貼ってあるのでただの水ということは無いだろう。

 正体を確かめようとラベルの文字を読み取るより先に、メフィはそこから漂ってくる刺激臭で眉をひそめた。

「なんか臭う」

「えっ……あー」

 一瞬驚いたエルクは何か心当たりを思いついたようで、複雑な面持ちで手にしているビンを差し出した。

「これかな」

「なにこれ?」

「お酢だよ」

 説明しながら栓を抜き、口の上部を手で仰ぐ。その途端に強烈な臭いがメフィの鼻に流れてきた。急に嗅いでしまったため、メフィは思わずせきこんでしまう。

「お酢、って……?」

 少しずつ落ち着いてきたのか、シューラが顔を上げた。

「さっきも話に出たけど、犬の鼻って敏感なんだよね。人間の数千倍とか数万倍って言われてる」

「そんなに、あるんですね」

「それはいいんだけど、なんでお酢?」

「臭いによって感じやすさって違うでしょ? お酢の臭いみたいな刺激の強い臭いだと、犬は人の一億倍くらい感じ取れるんだって」

 臭いを感知する嗅覚細胞の層を、人間の一層に対して犬は複数層持っており、細胞の数自体も人間をはるかに凌ぐ。彼らは嗅覚によって危機回避や狩猟をしてきた種であり、臭いに敏感であるのはそういった進化の結果なのだ。

「だから、この臭いが充満したら僕たちの臭いを撹乱できるかなって思ってね」

 もちろん自分の周りだけ臭いをつけても意味がない。エルクはそう考え、街中を回って臭いを覆い隠せるよう酢を振りまいていたようだ。少し前から周囲に酸っぱい臭いがしていた理由はこれだろう。

「どこから持ち出したのよ……それに、効果あるの?」

「確証はないけど……」

 ラベルを眺めて複雑な表情をするエルク。効力があるかどうか目に映りにくい作戦なので自信を持てないのも当然と言える。風の一件についても差があったのか未だによく分かっていない。

「……でも」

 まだ呼吸の整っていないシューラが口を開いた。

「あの犬……ちょっと、様子が、変、でしたよ」

「変?」

「あ、そうそう。ちょっと挙動不審って言うか、逃げ道を迷い始めたみたいだったのよ」

 向かいから追手が来ているわけでもないのに急に引き返したり、犬の行動パターンには明らかに変化が生まれている。それが酢の臭いによるものか断定はできないものの、この機を逃す手は無い。

「とは言っても、その様子じゃ追跡は難しそうだね……」

 メフィもシューラも肩で息をしており、特にシューラは運動を続けられる状態ではなさそうだ。歩くのもやっとというような有様で、これ以上無理を強いるのはあまりに酷だろう。

「私の事は、置いて行ってください……二人で、犬を」

「シューラ、ダメだってば」

「うん、それはできないよ。差別のこともあるし」

 植物族への迫害がどのようなものかに関わらず、植物族であるシューラを一人残して行くのは危険極まりない行為だ。せめて彼女の傍にメフィかエルクがついていた方がいいだろう。

「ですけど……一人じゃ、追いつめられない、ですよね?」

「袋小路まで追いこめばできるかもしれないけど……あの犬がそんなミスするとも思えないよね」

 件の犬の賢さならば上手く回避されてしまうと容易に想像がつく。

「今日も諦めないとダメかなぁ……」

 手詰まり状態であると実感し、メフィが俯いてそう呟いた。あまり時間をかけてしまうと依頼主を不安にさせてしまうのだが、こうなっては依頼の辞退も視野に入れなければならない。

「すみません……ホントに、すみません」

 シューラも再び謝り始める。この状況ではどうしても責任を感じてしまうのだろう。

「……メフィ。シューラと一緒にここで待ってて」

 二人の様子を見て何を思ったのか、エルクが酢のビンを置いて歩き始めた。その方向は犬が歩いていった方向と同じであり、彼が犬を追おうとしているのはすぐに分かる。

「エルク、一人じゃ無理よ」

 思わず出たメフィの言葉に、エルクは足を止めた。それからいくらか周囲を見渡し、しばらく何かを考え込むように黙ってしまった。近くに別の路地の入口がないのを確認し、それからようやくメフィへと顔を戻す。

「だから、ここにおびき出そうと思う。メフィ、網はまだ持ってるよね」

「えっ、う、うん……」

 エルクの提案に対しメフィは返事を濁らせてしまう。言われるまま捕獲用の網を握り直すが、同じ手で既に失敗しているため自信が持てない。

「じゃあ行ってくるね。うまくここまで誘導できればいいけど」

 それ以上は二人の話を聞く気が無いのか、反応を待たずにエルクは駆け出してしまった。障害物が多いので姿が隠されるのは早く、すぐにその場は二人きりの空間へと逆戻りした。

「大丈夫かな」

「信じ、ましょうよ。きっとうまく、やってくれます」

 エルクの消えた辺りを凝視しつつ立ち上がる。障害物が多い細い道なので、捕獲の際はギリギリまで引きつけることができるかもしれない。

「シューラ、ここは任せてね。あ、このケージ持っておいてもらえるかな」

「あ、はい……」

 エルクの持っていたケージを渡されたシューラは、納得しきれない様子で視線を落としてしまった。先刻の失敗を気にしているようだったので、挽回したくて何か手伝いたかったのだろう。

「……気にしないでいいよ。今は早く体力を回復しないとね」

「……そうですよね」

 同意はしたものの、なおもシューラは立ち直れていないようだ。それでも不満は口にせず、全て言われた通りにするつもりらしい。

 エルクが戻ってくるまでの間、二人は疲れ切った自分の身体を少しでも休ませることにした。

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