愛人を連れ帰った夫に離れへ追放されました。ですが、私はずっとこの日を待っていました。
「お前は今日から離れに移れ。そこで今までどおり仕事だけしていろ」
結婚して二年。
久しぶりに帰宅した夫は、見知らぬ女性を連れていた。
「紹介しよう。リリアだ。今日からこの屋敷で暮らす」
夫の腕に絡みついた金髪の令嬢が、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「初めまして、奥様。あら、もう奥様ではなくなるのかしら?」
「リリアが新しい女主人だ。お前には領地の帳簿を任せる。今までと何も変わらん」
「……私たちは夫婦ではありませんか」
私は胸に手を当てた。
「形式だけだろう。白い結婚だったことを忘れたのか? お前を愛したことなど一度もない」
「ですが、私は……」
「うるさい! お前は仕事だけしていればいい!」
私はうつむき、ハンカチで目元を押さえた。
背後で侍女長が息をのむ。
笑いをこらえているのだろう。
困ったものだ。ここで笑われては、一年間の準備が台無しになる。
「……承知しました。最後に、お義父様とお義母様にご挨拶をさせてください」
「好きにしろ。父上たちも、いつまでもお前を甘やかすまい」
夫はリリアの腰を抱き、階段を上がっていった。
私は二人を見送った。
ようやく帰ってきてくれた。
しかも、愛人を連れて。
これ以上ないほど、理想的な帰宅だった。
◇
二年前、私が嫁いだ伯爵家は破産寸前だった。
領地収入は減り、商会への借金は膨らみ、使用人の給金まで滞っていた。
現役の伯爵であるお義父様は病に倒れ、お義母様は看病に追われていた。
一人息子の夫は王都で遊び暮らし、領地には見向きもしない。
私は伯爵家の分家にあたる子爵家の娘で、夫とは又従兄妹だ。
実家が商家と親しかったため、幼い頃から帳簿や商売を学んでいた。
困窮する伯爵家への援助を申し出たところ、お義父様から縁談を持ちかけられたのである。
結婚初夜、夫は言った。
「お前を愛するつもりはない。妻としての義務だけ果たせ」
「承知しました。では、領地経営に専念いたします」
夫はそのまま王都へ戻り、ほとんど帰ってこなかった。
おかげで仕事は順調だった。
使われていない倉庫を貸し出し、赤字事業を整理し、商人との契約を見直す。領内で生産される良質な羊毛の販路も広げた。
農民の税は上げなかった。無理に取り立てれば、翌年の収穫が減るだけだからだ。
半年で使用人への未払い給金を解消。一年で借金を半減。二年目には領地収入が以前の倍近くになった。
お義父様は泣いて喜び、お義母様は私を抱きしめてくれた。
使用人たちも、今では私を信頼してくれている。
ただ一人、夫だけは何も知らなかった。
毎月送る生活費は、領地の収入が増えても据え置いた。
「もっと寄越せ」と催促されるたび、「借金の返済がございますので」と答えた。
夫は怒ったが、帳簿を確認しようとはしなかった。
そんな折、王都から報告が届いた。
夫が隣領の男爵令嬢リリアと交際しているという。
調べてみると、男爵家は多額の借金を抱え、娘を伯爵家の跡取りに嫁がせて返済するつもりらしい。
夫はリリアに「いずれ伯爵家の財産はすべて君のものだ」と約束していた。
私は報告書を閉じ、隣の男爵領の地図を広げた。
肥沃な農地、領内を流れる川、王都へ続く街道。
立地は申し分ない。
ところが男爵は無理な課税を繰り返し、道路も修繕せず、商人が寄りつかなくなっていた。
以前から惜しいと思っていた土地だ。
しかし、他家の領地に勝手に手は出せない。
そこで、私は一つの可能性に気づいた。
◇
「隣の男爵領を手に入れたい?」
お義父様は目を丸くした。
私は男爵家の借入契約書の写しを広げた。
「男爵家は複数の商会から借金をしております。その担保には、王家の承認を条件とする領地の譲渡権が含まれています」
「……なんと無茶な契約を」
「返済期限は一年後。そこで、商会から債権を買い取ります」
「男爵家が返済できなければ、我々が領地を取得できるということか」
「王家の承認が必要ですが、交渉する権利は得られます。返済された場合も、利息を受け取れます」
お義母様が尋ねた。
「でも、息子とリリアさんが結婚すれば、伯爵家のお金で返済するつもりなのでしょう?」
「はい。ですが、夫が私と離縁すれば、私の管理する資金には手を出せません」
「……あの子、それを理解しているのかしら」
「おそらく、しておりません」
お義父様は額を押さえた。
「息子が謝罪して戻ってきたら、どうする?」
「離縁いたします。債権は投資として保有を続けます」
「許す気はないのだな」
「はい。私は一度も愛されませんでしたので」
お義母様が私の手を握った。
「ごめんなさいね。あなたには苦労ばかりかけて」
「いいえ。私はこの家が好きです。お二人も、領民も、使用人たちも」
だから守りたい。
お義父様は長く考え、やがてうなずいた。
「わかった。息子が最後の一線を越えたら、伯爵として決断しよう」
それから一年。
私は男爵家の債権を買い集め、領地の再建計画を練りながら待った。
夫が、自分の足で破滅の入口まで歩いてくる日を。
◇
そして昨日。
夫は愛人を連れ帰り、私を離れへ追い出すと宣言した。
私はその夜、お義父様の執務室を訪ねた。
お義母様と侍女長も待っていた。
「聞いたよ。……最後まで愚かな息子だったな」
お義父様は、机に用意していた書類を見つめた。
「明日の朝、決着をつけよう。ただし、使用人たちに嘘の証言はさせないでくれ」
「もちろんです。事実だけで十分ですから」
二年間の妻への放置。
一年間の不貞。
愛人を本宅に連れ込み、妻を追い出そうとしたこと。
すべて事実だ。
侍女長が深く頭を下げる。
「私どもは、見聞きしたことをそのまま証言いたします」
「ありがとうございます。それでは、少し練習を」
私はハンカチを取り出した。
「私は……ただ、夫に愛していただきたかっただけなのに……」
侍女長が横を向いた。
肩が震えている。
お義父様が額を押さえた。
「……お前という子は」
「いかがでしょう?」
「見事だよ。見事すぎる」
準備は整った。
◇
翌朝。
夫とリリアが朝食の席に現れた。
「父上、母上。紹介します。リリアです」
お義父様は黙って紅茶を飲んでいる。
お義母様は私の隣に座っていた。
夫が眉をひそめる。
「おい。なぜお前がまだここにいる」
「最後に、お義父様とお義母様にご挨拶を……」
「もういい。早く離れへ行け」
リリアが笑った。
「かわいそう。でも安心してください。お仕事は今までどおりお願いするつもりですから」
「……ありがとうございます」
「私は帳簿なんて苦手なの。伯爵夫人は美しく着飾って、社交界で輝くものですもの」
「そのとおりだ」
夫が満足そうにうなずいた。
お義父様がカップを置く。
「お前は、その娘をどうするつもりだ」
「正式な妻にします」
「今の妻は?」
「離縁すればいいでしょう」
「慰謝料は?」
「白い結婚ですよ? 必要ありません」
私はハンカチを握りしめた。
お義母様が静かに尋ねる。
「リリアさんとは、いつから関係を持っていたの?」
「一年ほど前からですが。それが何か?」
「そう。聞いたわね?」
扉の横で侍女長が頭を下げた。
「はい。確かに承りました」
夫が怪訝な顔をした。
「何の話です?」
「証言の確認よ」
お義父様が手を叩く。
執事が扉を開け、王都から招いた法務官を案内した。
「なっ……何ですか、これは!」
「最後の機会を与える」
お義父様は息子を見つめた。
「その娘との関係を断ち、妻に謝罪しろ。妻が離縁を望むなら受け入れろ」
「何を馬鹿な! 父上はあんな女の味方をするのですか!」
「……そうか。ならば決まりだ」
法務官が書類を広げた。
「嫡男殿。現在の奥方と離縁し、こちらの令嬢を迎えるご意思に変わりはありませんね?」
「当然だ!」
「承知しました。不貞行為、妻への退去命令、離縁に関する申し立てを受理いたします」
夫の顔が固まった。
私はそっと目元を押さえる。
「私は……二年間、夫を信じておりました。いつか帰ってきてくださると……」
お義母様が私を抱きしめた。
「もういいのよ。あなたは十分頑張ったわ」
侍女長も涙声になる。
「奥様は毎日、旦那様のお帰りをお待ちでした」
そのとおり。
この日のために。
執事が続けた。
「奥様は、旦那様の生活費も欠かさずお送りしておりました」
「茶番だ! こんなのは茶番だ!」
夫が叫んだ。
私は涙をぬぐった。
「……そう思われるのですね。では、もう何も申し上げることはございません」
法務官が記録を続ける。
お義父様が口を開いた。
「お前には、もう伯爵家を継がせられん」
「……は?」
「廃嫡する。王家への申請書類も用意してある」
「私は実の息子だぞ!」
「だから二年間も待った。だが、お前は何一つ変わらなかった」
お義父様は首を振った。
「この家は、二年間で見違えるほど豊かになった。借金を減らし、領民の暮らしを立て直したのは、ここにいる妻だ」
夫が私を見た。
「……お前が?」
「はい」
「そんなはずはない! お前は帳簿をつけていただけだろう!」
「その帳簿に、領地の収入も支出も、すべて書いてございました」
お義父様がため息をついた。
「次の後継者には、この子を推す。血縁もあり、実績もある。王家にはすでに相談している」
「そんな……!」
夫が椅子に崩れ落ちた。
リリアが慌てて腕をつかむ。
「ちょっと待って! じゃあ私は伯爵夫人になれないの?」
「仕方ないだろう! 父上が廃嫡すると言っているんだ!」
「私を幸せにするって約束したじゃない!」
「お前こそ、男爵家の財産があると言っただろう!」
「うちには借金しかないわよ!」
二人が同時に黙った。
私は書類を一枚取り出した。
「その男爵家の借金ですが、現在の債権者は私です」
リリアの顔から血の気が引く。
「……え?」
「返済期限は来月。返済できなければ、担保の領地を手放していただくことになります」
「ま、待って! お金なら……!」
「返済していただいても構いませんよ。ですが、無理をなさらなくても結構です」
私は微笑んだ。
「私が欲しかったのは、最初からお隣の領地ですもの」
リリアが絶句した。
夫も口を開けたまま動かない。
「さて、あなた」
私は夫に向き直った。
「次は、私への慰謝料のお話です」
「……慰謝料?」
「はい。不貞と一方的な離縁要求について、正式な裁定を求めます」
「金などないぞ! 父上が廃嫡するなら、私は無一文だ!」
「存じております。ですから、返済のために働いていただくことになるでしょう」
私は求人票を差し出した。
「王都の職業紹介所に、鉱山管理会社の住み込み求人がございました。給金から少しずつ返済できます」
「鉱山だと!? 私に働けと言うのか!」
「はい。私も二年間、働いておりましたので」
夫は求人票を握りつぶした。
私はリリアへ向き直る。
「リリア様にも、不貞の当事者として慰謝料を請求いたします」
「わ、私は男爵令嬢よ!」
「存じております。ただ、男爵家は来月の返済が難しいご様子。ご実家から援助を受けるのは困難でしょうね」
「じゃあ、私はどうすればいいのよ!」
「お仕事を探されてはいかがでしょう」
「働いたことなんてないわ!」
「それは困りましたね。王都には未経験者を受け入れる住み込みの職場もございますが」
私は別の求人票を置いた。
高級娼館の募集案内だった。
「……娼館?」
「もちろん、どこで働くかはご自由です。ただ、伯爵家のお金で暮らすことは、もうできません」
「いや……そんなの、嫌……!」
リリアが泣き崩れた。
夫も椅子に座り込んだまま、何も言わない。
私はハンカチをたたんだ。
もう、涙を拭く必要はなかった。
◇
その後のことは、ほぼ予定どおりに進んだ。
離縁と廃嫡が認められ、私は王家の承認を得て伯爵家の後継者となった。
男爵家は借金を返済できず、隣領も王家の承認を経て伯爵家のものになった。
元夫は鉱山の管理会社へ。リリアは実家の破産後、王都の娼館で働き始めたそうだ。
「息子は失ったが、娘と領地が増えたな」
お義父様が地図を眺めて笑った。
「あなた、そんな言い方は……」
お義母様がたしなめる。
「いや、息子は最初から何の役にも立っておらんかった」
私は思わず吹き出した。
お義母様も笑い、お義父様まで声を上げる。
二年前、夫は私に仕事だけしていろと言った。
おかげさまで、仕事は増えた。
けれど今度は、私が望んで手に入れた仕事だ。
そして、この家には私を愛してくれる家族がいる。
私は今日も、幸せに暮らしている。




