虫みたいだ
僕はよく散歩へ行く。
目的がない夜もあるけれど、それでも足はいつも海の方へ向かっていく。
海へ行く理由はひとつだ。
昔一度だけ見た、大きくて綺麗で、胸の奥がざわつくような満月が忘れられないからだ。
あの夜を追いかけるみたいに、満月の日になるとどうしても外へ出てしまう。
波の音が一定のリズムで響く砂浜に立つと、風が頬を撫でていく。
自分が何かを探しているのか、それとも何かから逃げているのか、その境目が少しだけ曖昧になる。
だけどお月見の夜だけは違う。
普段なら誰もいないはずの海辺に、急にたくさんの人が集まっている。
家族連れがいて、友達同士がいて、カップルがいて、みんなスマホを月へ向けている。
僕は毎回満月を見ているのに、あの日だけ急に人が湧いて出てくる。
その光景を見るたびに思ってしまう。
あぁ虫みたいだ。
光に吸い寄せられるように月へ集まる人たちの中に、自分が混ざらないように立っているのに、同じ光を見ている自分に気づいて少しおかしくなる。
僕が探しているのは、あの夜の満月だ。
誰とも共有できない、自分だけが覚えている光景だ。
けれど海辺にはざわめきがあって、話し声が風と一緒に流れていく。
スマホのシャッター音が波に混ざり、月の光を薄く乱す。
僕は少し離れた暗い場所へ歩く。
波の音がはっきり聞こえる位置に立つと、海と月だけが残る。
僕はその丸い光の中に、昔見た夜の痕跡を探し続ける。
誰にも説明できないたった一度の眩しい記憶を、僕は今でも追いかけている。
追いかけているのは月ではなく、あの頃の自分なのかもしれない。
静かな海と、揺れない満月と、そこへ歩いてきた自分だけが一つになる瞬間がある。
その時だけ、海辺のざわめきも、満月に群がる影もすべて遠ざかる。
僕はただ、あの夜の続きを探すように月を見ている。
今夜もまた、虫みたいに、けれど誰とも違う理由で光に寄っていく。




