36ページ目 菫さんと忘れ難き大切な記憶 後編
「本当に申し訳ありません!母がご迷惑をおかけして……」
「い、いえいえ……頭を上げてください……」
白髪頭の60代ぐらいの男性が、菫に向かって深々と頭を下げて平謝りする。前のローテーブルに額がつくぐらいの勢いで。菫は却って及び腰になり、両手を横に振る。
この男性はスエ子の長男であり、キーパーソンだという。つい先ほど偶然面会に訪れたところ、菫がスエ子に抱きつかれているのを目撃し、慌てて自分の母を菫から引っ剥がした。そしてスエ子が落ち着いたところで施設長経由で菫を応接室に呼び出し、こうして謝罪をしていたのだ。応接室には施設長の岩本、主任の福田も同席している。
「よ、横澤さん、そこまで謝らなくても……スエ子そんは認知症なので……」
福田が諌めようとするが、スエ子の長男は首を横に振って菫を気遣う。
「いや……いきなりお婆ちゃんに抱きつかれるなんてねぇ……大丈夫でしたか?」
「あっ、それは大丈夫です。ビックリしただけですし。ただ……」
抱きつかれたこと自体に対しては、菫は驚いただけで別に嫌だとか不快だとは思っていない。
が……菫はずっと気になって仕方がない。自分が出てきたことによって、スエ子がなぜあそこまで態度を変え、なぜいきなり抱きついてきたのか。なので……おずおずとスエ子の長男に聞いてみることにした。
「どうして……私に抱きついて来られたんでしょうか?あ、あとスエ子さん、私のことを「スミ子お姉ちゃん」って仰ったんですけど……スミ子さん?っていうお姉さんがいらっしゃるんですか?」
思い当たる節があるのか、スエ子の長男はまず「ああ……」と口走ってから、悲痛な面持ちで話を続ける。
「えっと……話せば長くなるのですが……。はい、母には……確かにスミ子さんというお姉さんがいました」
(過去形?)
菫は嫌な予感がした。そしてスエ子の長男はスミ子について、案の定こう言った。
「……母が子供の頃に空襲で亡くなったんですが」
スエ子の長男によると、それは戦時中のある日の夜のことだった。幼かったスエ子は空襲の中、スミ子と手を繋いで逃げていたところ、手が離れたうえ転んで怪我をしてしまい、その場に座り込んで泣いてしまったという。そんな妹を助けに行くべく、スミ子は戻ろうとしたが……無情にもスミ子のすぐ前に爆弾が落とされてしまった。泣いていたスエ子はそれからすぐ偶然近くにいた人に手を引かれ、そのまま防空壕に辿り着いて助かったのだが……。
スエ子にとってスミ子は母親代わりにお世話をしてくれた存在で、他にきょうだいはいたものの一番仲が良く懐いていたという。
そんなスミ子の死は……スエ子の心に大変深い傷を負わせたのは言うまでもない。別のきょうだいによると、その後のスエ子は当分口を聞くことができず、人形のようになっていたという。
またそれから何十年経ってもスエ子の心の傷は癒えず、大きな音や火柱が大の苦手であるそうだ。思い出して泣き叫んだり頭を抱えてうずくまったりと、未だにそのトラウマに苦しめられているという。
(そんなことがあったなんて……。横澤さん、ずっと……80年近くも苦しめられてきたのね)
菫はやりきれない思いで、長男の話を聞いていた。
「そういうことがあって……うちの母は亡くなったスミ子さんと同じくらいの女性を見ると、見境なく抱きついてしまうんです……」
スエ子の長男はハンカチで汗を拭きながら、申し訳なさそうに語る。それを聞いた岩本と福田は何かを思い出したらしく、ある話を切り出す。
「そういえば……前にスエ子さん脱走してその辺徘徊されてましたよねぇ?確かあの時、通りすがりの中学生ぐらいの子にも同じようなことをなさっていたような……ねぇ、福田君」
「あっ、はい……」
「その節も本当にすみませんでした!全くもう……色んな人にとんだご迷惑を……
でも……」
再び平謝りをした長男は頭を上げると……菫の顔をまじまじと見る。何のことかと思い、菫はビクッとする。
「それにしてもあなた……
……本当に似てますね!スミ子さんに」
「………………え?」
★
面食らう菫に対し、スエ子の長男は「ちょっと待ってくださいよ……」と言いながらスマホを取り出していじる。暫くしてから「あったあった!」と呟き、長男はスマホの画面を菫達に見せた。
「………………!!」
スマホに写っているのは……古ぼけた白黒の写真で、被写体は中学生ぐらいから5歳ぐらいまでの子供が7人。その中で菫達の目に入ったのが、最年長だと思われる中学生ぐらいの少女だ。いかにも戦時中らしく、髪型は三つ編みでセーラー服にもんぺという格好の。
そんなこの少女……スエ子の長男が言った通り、確かに菫によく似ている。切り揃えた前髪に、丸っこい大きな目と丸い顔……恐らく菫が髪を三つ編みに結えると間違いなくこんな感じになるだろう。
菫が目を疑ったのはもちろんのこと、岩本と福田までもがありし日のスミ子の姿を見て言葉を失った。3人の反応を見たスエ子の長男は、スミ子の写真を拡大して菫達に見せ、改めて説明する。
「この方が、母の姉のスミ子さんです。確か、亡くなる1年ぐらい前……確か13、4歳ぐらいの写真だったかと。ちなみに彼女にくっついているのはうちの母です」
(あら……私よりもだいぶ若いじゃない……)
私27歳なのに……と菫は思ったものの、口に出してはもちろん言わない。よく見ると、写真の中のスミ子の右腕には、末っ子と思われるおかっぱ頭の少女が密着している。まるで姉に甘えているかのように。この写真1枚だけでも、スエ子がいかにスミ子に懐き、彼女が大好きだったことが菫にはこれでもかと言うほど伝わってくる。
なので、菫はますます心が痛くなる。それだけでなく、この幸せそうな家族を容赦なく壊した戦争の恐ろしさを嫌でも思い知らされる。
「……ね、似てますよね?先程も主任さんが仰ったように、うちの母は今までにも他の人をスミ子さんと勘違いしたことがあるんですが……ここまで似ている方は初めてでして……」
「そうなんですね……。いやでも……私もビックリしましたよ。もしかして私の前世がスミ子さんじゃないかって思ったぐらいです。
それにしても……スエ子さんはスミ子さんが大好きだったんですね」
「ええ、母はスミ子さんにいつも母親のように面倒を見てもらっていたので……」
思ったことを率直に言った後、菫はスエ子の思いについて推測する。
「もしかして……スエ子さん、今もずっと自分を責めているのかもしれませんね。スミ子さんが亡くなったのは自分のせいだって……認知症にかかってもスミ子さんのことはしっかり覚えていらっしゃいますから……」
それに対し、長男は辛そうな表情で数回頷いた。
「……そうだと思います。母は僕が小さい頃から時々スミ子さんの話をしていました。私には大好きなお姉ちゃんがいたけど、自分のせいで死んだって……。自分があの時お姉ちゃんと手が離れなければ……転ばなければ…………あ、そうだ!」
スエ子の話をしながら……長男は何か思いついたのか、手をポンと叩く。スミ子そっくりな菫の出現により、母を長年の呪縛から解放させられるのではないかと。それだけでなく、もしかすると今までのキツい態度も少しは改善するのではないかとも。スエ子の長男に菫に一つ提案する。
「あの、あくまで一案なんですが……もし宮西さんが嫌じゃなければ……」
その頃、応接室のすぐ前では……
「…………」
1階に住む入居者を送りに行った合間に、寛斗はつい立ち止まって菫達の話を聞いていた。どうしても気になってしまって……。
こうして色々あった1日目は無事に終了した。菫達4班の面々はわかしおホームをひと足お先に失礼させてもらい、それぞれ帰路につく。聡太郎と龍星、千絵と英玲奈がそれぞれ話しながら歩く後ろで、寛斗は菫に話しかける。
「すー様お疲れ」
「清宮君だってお疲れ様」
「なんか……色々大変だったんだよな?」
神妙な顔でそう切り出され……菫は思わずギクっと震えた。が、よくよく思い出してみると、自分を呼び戻しに行ったのか、あの時寛斗は確かに廊下にいた。なので、スエ子に抱きつかれていたことは寛斗も知っているはずだ。
「清宮君……知ってるの?」
「うん。…………横澤さんのお姉さんってすー様にそっくりなんだよな?」
「……え!?」
今度は菫は目を丸くした。どうして寛斗はそんなことまで知っているのだろうか?抱きつかれたことだけでは知る由もないはずなのに。
と、寛斗もここで「しまった!」とでも言いたげな顔をする。
「あ!……ごめん。……1階にいたからつい聞いちゃって……」
「あら、そうだったのね。いいのよ……私も前、清宮君が話してるの聞いちゃったから」
寛斗が謝っても菫は責めず、むしろふふっと笑った。どうせそんなことだろうと思ったから。
「ってことは……明日私が何するかも知ってるわよね?」
それなら明日のことについても、寛斗は知っているのではないかと思い、菫は探りを入れる。すると、寛斗は案の定「ああ」と言った。
「よくやるよ、すー様」
「ちょっと横澤さんの息子さんから頼まれちゃって。それに少しでも横澤さんの心が軽くなったら……って思ってね」
菫はあの時スエ子の長男から、一日だけスミ子になってくれないかと頼まれていたのだ。確かに自分がスミ子になって話をすることで、スエ子が長年の苦しみから少しは解放されるのではないかと、菫も思った。だが上手くいくかわからないし、騙しているみたいなのが嫌で一旦は断ったものの……長男に散々食い下がられ、菫は折れてしまった。もうスエ子は心臓が悪くて長くないらしく、最後に姉に会わせてあげたいと。
「いや〜、いくら似てるとしてもなかなかあそこまではできないって……。流石すー様は大人だな〜」
「………………」
やはりどうしても「大人」というワードに動揺せざるを得ず、菫は暫く黙ってしまう。それだけでなく、少し前に凜が言った台詞がフラッシュバックし、寒気までしてくる。
(まぁ気をつけろよ。寛斗の奴結構勘が鋭いから。下手なことしたらバレるかもな)
それでも何も言えないままでは余計に怪しまれるような気もして……菫は聞き返した。
「……そ、そうかしら?」
「うん、俺はそういう……なんて言うか人の痛みがわかる人って大人だと思うけど」
「まぁそうよね〜。それにしても……戦争って本当にあったって思い知らされたわ……」
「確かに……学校で習うだけじゃイマイチ実感湧かないもんな〜。まぁそれはともかく……明日は頑張って、すー様!」
「ありがとう」
何とかやり過ごした菫に、寛斗は改めてエールをおくってくれたのだった。
★
翌日、昼食を終えたスエ子はいつもならその辺りを徘徊するところなのだが、この日は食べ終えるとすぐに職員によって自分の部屋に連れ戻された。仕方なくベッドに座っていたものの……スエ子は再び立ち上がり、歩行器を握りしめる。
「早く家に帰らないと……お父さんも待ってるんだろうし……」
一人しかいない部屋の中で、スミ子は独り言を言う。実際にはスミ子の家はここだし、彼女の夫も10年程前に他界しているのだが。
いざ部屋を出ようとしたところ……コンコンコンと部屋をノックする音が耳に入った。
「おや……お父さんかね?それとも息子……いや孫だろうか…………はーい!」
きっと誰かが面会に来てくれたのだろう……そう思いながら、スエ子は快く返事をした。
ガラッと引き戸が開いたと同時に……スエ子は大きく目を見開いた。そして昨日と同じように、歩行器を持つ手をガクガクと震わせ、真正面にいる人物を潤んだ目で見つめる。
「す…………スミ子……姉ちゃん?」
「……ひっ……久しぶりね、スエ子……」
スエ子の元に訪れたのは、とっくの80年前に亡くなったはずの、スミ子であった。三つ編みに結えた長い髪に、セーラー服ともんぺと服装も当時のまま。スエ子の記憶が正しければ……今世の別れとなったあの夜と同じ格好だ。しかも、姉によく似た人なら昨日も見かけた気がしたが、その人と違って今回は自分の名前まで呼んでくれている。
「お……お姉ちゃぁああん!!」
昨日と同じように慟哭したスエ子は歩行器から両手を離し、おぼつかない足取りで目の前の姉へと両手を伸ばす。それに応えるかのように、スミ子も妹へ距離を詰める。スエ子の両腕はたちまちスミ子の首に回り、ガッチリと抱きつく。もちろん、スミ子も妹の背中に腕を回してひしと抱きしめる。
「うッ……ぅうッ……」
暫くの間、スエ子はスミ子の肩のあたりに顔を埋め、啜り泣いていた。が、暫くすると……
「……ごめんなさい」
スエ子は顔を埋めたまま、言葉を振り絞る。
(やっぱり……そうきたか)
スミ子は正直なところそう思ったが……敢えて言わない。その代わり、なぜ謝ったのかを訊く。
「……どうして?」
「…………」
スエ子は暫くの間啜り泣いた後……再び声を絞り出した。
「だって……ぇ……、私……がぁ、あの……時……、転けなかったらぁ……」
推測していた通りのことを言うスエ子だったが……そんな妹の体をギュッと抱きしめながら、スミ子はふふっと笑う。
「だから私が死んだって思ってたのね、スエ子」
「うっ……うぅっ……」
「でも……それは違うわ、スエ子」
はっきり言い切ったスミ子に、スエ子は泣きながらも思わずパッと顔を上げる。年相応に皺を重ねたスエ子の顔は涙で濡れているだけでなく、目は充血し瞼も赤く腫れている。そんな妹の顔をじっと見て微笑みながら、スミ子は語りかけた。
「あのね……あの日、私が死んだのはあなたのせいじゃないわ」
「…………えっ、で、でも……」
動揺するスエ子の両肩に手を置いて、スミ子は今度は真顔で言い聞かせる。
「スエ子は何も悪くないのよ!あれだけ急いで走ってたんだから転んでも仕方ないでしょう?昔からあなたが転んだ時、お姉ちゃんどこからでも助けに行ってたじゃない!あの夜だってそうだったのよ。
で……運悪く私のすぐ前に爆弾が落ちてしまった。それだけのことじゃない」
スミ子が自分の死は妹のせいではないと話している間、スエ子は再び今にも泣きそうな顔をする。
が、これ以上泣いて欲しくないので、スミ子は笑顔を見せる。
「確かにスエ子と一緒に生きられなかったのは残念だけど……私、ずっとお空から見守ってきたんだからね!スエ子が笑ったり泣いたりしてるところも、頑張ってきたことも。
……私、嬉しいのよ?スエ子って今年87か8ぐらいよね?きっと私の分まで長生きしてくれたんでしょう?」
「……!!」
スミ子の思いとは裏腹に、スエ子は再び涙を流した。ただ、再会した時のようにわんわん泣くのではなく、何も言わず静かに涙が頬を伝っている。
★
(もし私が同じ目に遭ったとしても……葵のせいだなんて思わないわ、絶対に。むしろ犠牲になったのが私でホッとしてるかもね。で、私の分まで幸せに生きて欲しい!って……)
同じ姉としてそう思いながら、スミ子は今もなお涙が伝ってくるスエ子の頬に手を伸ばす。妹と違って皺ひとつないその指で、つーっと流れてくる暖かい涙をそっと拭う。
「お姉ちゃん、スエ子は幸せ者だって思うわよ。旦那さんもお子さんもいて、お孫さんだって何人もいるでしょう?私なんかいなくたって十分幸せじゃない」
「そ、そんな……!」
「ほら、アレ!」
必死に首を横に振るスエ子に、スミ子は部屋にあるタンスの上を指差す。そこには写真立てがいくつか置かれ、写真の中のスエ子はいずれも眩しい笑顔を見せている。またスエ子だけでなく、夫と思われる高齢男性や若かりし頃の長男、他の子供や孫もバッチリ写っており、彼らももれなく笑顔である。
「この人達はスエ子のご家族でしょう?みんな笑顔で幸せそうじゃない。もちろんスエ子もね。
安心したわ……長生きしてくれてただけじゃなくて、お子さんとお孫さんにも恵まれてて……」
「おっ、お姉ちゃあん!……待っでぇ……」
スエ子は徐にポケットからあるものを取り出した。もちろんスミ子はそれが何なのか知っているが、敢えて訊いてみる。
「す、スエ子……それは何?」
「電話だよっ!今から子供や孫達を呼ぶから……会って欲しいんだよ!スミ子姉ちゃんにっ!」
語気を強め鼻息を荒げながら、携帯で電話をかけようとするスエ子に、スミ子は一瞬だけギクっとした。が、すぐに悲しげな表情へと変わる。幸い、ギクっとしたことにスエ子は気付いていないようだ。
「あの……ごめんね、スエ子……私もうすぐ帰らないと……」
「ええっ!?もう帰るのかぁ!?」
「うん……あの……か、神様に30分だけなら会っていいって言われてて、必ず戻らないとダメって言われたから……」
「わ、わかった……じゃあもうちょいだな?」
スミ子は半ば出任せにそう言ったものの、スエ子はすんなり信じた。
それから時間が来るまでスエ子とスミ子はベッドに並んで座り、思い出話に花を咲かせた。兄弟皆ですいとんや芋を食べたこと、兵隊ごっこやチャンバラなどで遊んだこと、すぐ上の兄と喧嘩してスミ子に怒られたこと。
「そんなこともあったわねぇ……(認知症でも昔のことは覚えてらっしゃるのね)」
スミ子は逐一相槌を打ちながら話に耳を傾けていた。そうしている間にもタイムリミットの時間はどんどん近付き……スミ子はそろそろねと思いながら、ベッドから立ち上がる。
「お、お姉ちゃん?」
「ごめんね、スエ子……そろそろ帰らなきゃ……」
そう言ったものの、スエ子はスミ子のセーラー服の袖を握りしめたまま、再び目を潤ませる。
「い、嫌だよォ……お姉ちゃあん……行かないでぇ」
「……どうしてもダメなのよ、帰らないと……」
「嫌ぁ!!」
縋り付くスエ子に、スミ子は正直胸が痛くなったが……それでもずっとここにはいられないことを、改めて伝える。が、それでもスエ子は手を離そうとしない。
困り果てたスミ子は、妹の顔を覗き込んで囁く。
「スエ子……お姉ちゃん明日も会いに行くから」
「……え?」
「ただ、来て欲しいんなら……お姉ちゃんと一つ約束してくれないかしら?」
「わかったよォ!どんなことでも……絶対に守るから……!」
明日も姉に会いたいがために、スエ子は泣きついてくる。これに対し、スミ子は思惑通りと言わんばかりにニッコリ微笑みながら小指を出す。
「これからは……他の人に怒ったり、他の人を叩いたりしちゃダメよ?お姉ちゃん、スエ子にはいつも笑っていて欲しいから」
「……わかった」
スミ子が優しい口調で釘を刺すと、スエ子は二つ返事で了承する。また、スエ子からも小指を差し出し……二人は約80年振りに指切りげんまんをしたのだった。
★
ようやく姉妹水入らずの時間が終わり、スミ子はスエ子の部屋に後にするや否や安堵した。
(はぁ……何とか誤魔化せたわね。過去の話されても「そんなこともあったわね」って言えば何とかなったし……)
そう思いながら廊下を歩くスミ子だったが、後ろから別の老婆に声をかけられ、思わず立ち止まる。
「おや!懐かしい服着てるじゃないか。わしも昔そういう服よく来てたんじゃよ〜」
「あっ、そうなんですね!……たまにはこういう服もいいかな〜って」
スミ子……もとい菫は振り向いて苦笑いしながら、何事もなかったかのように答えた。
実はこの戦時中っぽい服……スエ子の長男の妻が前もって用意してくれたもので、菫はスエ子に会う直前に体操服から着替えていた。そして髪も三つ編みに結え、部屋へと向かっていたのだ。
(これで横澤さん、少しは気持ちに区切りがついたらいいんだけどねぇ。それで職員さんに怒ることも叩くこともなくなってくれたら……)
「お疲れー、すー様」
再び体操服に着替えるべく更衣室に戻っている途中、菫は聞き覚えのある声で呼ばれ再びギクっとした。顔を上げると、すぐ近くに寛斗がいた。
「あっ、清宮君。こんなとこでどうしたの?」
「ちょっとカラオケ室まで送りに行って、その帰りだよ。……うまく行った?」
小声で訊く寛斗に、菫は口角を上げて手でグーサインを作った。万が一、スエ子がその辺を徘徊していないか辺りをキョロキョロ見ながら、菫は話を続ける。
「ええ。横澤さん、私を本当にスミ子さんだって思ってたみたいね」
「そこまですー様と横澤さんのお姉さんって似てるんだな〜」
「しかも名前もスミ子さんって言うの。私と一字違いよ」
「マジ!?もしかしたらすー様……生まれ変わりとかかもしれないんじゃ……」
「ふふっ、そうかもね……あっ、でも……」
菫は思わず吹き出したが……スエ子のある発言を思い出して苦笑いしてしまう。
「スエ子さん、言ってたのよ…………お姉ちゃんこんなに背ぇ低かったっけ?って」
そして2日目も問題なく終了し、菫達が昨日に続き一足お先に帰らせてもらうところ、施設長の岩本が挨拶をしに来た。
「皆さん、お疲れ様でした!いや〜、明日で最後だなんて寂しいですよ〜。皆さんしっかり働いてくれてますし……」
名残惜しそうに言う岩本に、4班の面々もつい寂しそうな顔になってしまう。特に老婆からチヤホヤされていた龍星は。反対に老爺から半ばセクハラを喰らいそうになっていた英玲奈はそうでもないが。
「いや〜、僕達だって寂しくなりますよ。せっかく入居者さん達と仲良くなれたところなのに……」
寛斗がそう言ったところで、岩本は何か思い出したように「あっ!」と言いながら手を叩く。
「そういえば……明日、カラオケ大会やるんですよ!もちろん入居者さんも歌われますし職員も何人か歌うんですが…………
もしよかったら……皆さんもいかがですか?思い出に何か1曲でも……。まだまだ出場者が少なくてね……」
「ええっ!?いいんですか?」
岩本のカラオケ大会へのお誘いに、軽音部の千絵は目を輝かせ真っ先に食いついた。
介護体験最終日、菫はそれまでと違って緊張した様子で家を出た。昨日と同じく最寄駅で4班の皆と落ち合い、6人でわかしおホームへと向かう。
もちろん菫は今日もセーラー服ともんぺを持ってきている。きっと約束を守ってくれているだろうと信じ、スエ子に会うために。ただ、緊張しているのはスエ子に会うからではない。
「あ〜、緊張する〜!」
「大丈夫だって、昨日練習したじゃん。それに阪口さんは人前で歌うの慣れてるだろ?」
「おじいちゃんおばあちゃんの前なんか初めてよ!それに練習ったってちょびっとだけだし……」
千絵もやはり緊張しているようで、寛斗が落ち着かせようとするも、あまり効果がないようだ。菫も全く同じ気持ちで、気を抜くと同じ側の手足が同時に出てしまうほど。そんな3人を、英玲奈と龍星は激励する。
「自信持ちなって〜、千絵は歌上手いんだから」
「そーそー!……俺だって本当はお姉様方にこの美声を聞かせたかったんだけどなぁ〜。あいにくお姉様方が好きそうな歌、俺よく知らないし〜」
「…………」
またもナルシシズム全開な龍星の発言に全員がドン引きしていると……
「ん?あれ……」
それまで黙っていた聡太郎が、わかしおホームの正面玄関の方を指差した。
★
聡太郎が指差した先を見て菫はもちろん、4班全員が目を疑った。
正面玄関のすぐ前に……霊柩車が1台停まっていたからだ。程なくしてその霊柩車のエンジンがかかり、ゆっくりと進んで施設を後にする。玄関を出たところには岩本や福田やケアマネジャーなどの職員が立ち、手を合わせている。
何か起こったのか……27歳の菫はもとより、他の皆でも見当がついた。
「……誰か亡くなったのかしら?」
「……ぽいな」
菫と寛斗がそう言った後でわかしおホームに入ると……やはりいつもと違って重い空気が漂っている。
「……おはようございます」
菫達が挨拶をするや否や、岩本と福田はすぐに駆け寄り、挨拶もそこそこにこう言った。
「宮西さん!…………とても言いにくいんだけど、
…………亡くなったんだよ、
…………横澤さんが」
岩本によるとスエ子は今朝、朝食の時間になっても食堂に来なかった。普段なら真っ先に来るうえ食べ終わった後、職員が自分の分を食べたと言い張るのに。なので、異変を感じた職員がスエ子の部屋へ向かうと……スエ子はベッドに寝たまま息絶えていた。それからすぐに隣の病院の医師と、スエ子の長男夫婦が向かい、死亡確認が行われた。死因は心不全だったという。
ちなみに、菫が扮するスミ子に会った後のスエ子は、いつになく大人しくしており徘徊もほとんどなかったらしい。そればかりか職員に怒鳴ったり暴力を振るうこともなかったそうだ。
岩本から少し外に出て気持ちの整理をつけるよう勧められたが、菫は断って今日も入居者の話し相手になっていた。なお、カラオケ大会は予定通り行われるという。
「遂に今日はカラオケ大会ね!私出場するのよ!みっちり練習したんだから〜」
「凄いですね……」
しかし……やはり菫はどこか上の空だった。話し相手をしているにも関わらず、つい空返事になってしまう。どうしてもスエ子のことで頭がいっぱいになってしまって。
(なんで……今日なのよ?あんなに私に会いたがって、約束も守ってくれてたじゃない!あの服だって、私今日も持ってきたんだから。
……まさかあなたの方からいなくなるなんて)
スエ子がいなくなった悲しみと喪失感でつい目を伏せ、涙が出そうになる菫に……
「ねぇ、どうしたの?聞いてる?」
一緒に話していた老婆が心配そうに顔を覗き込んだ。それに気付いた菫はハッとしてすぐ笑顔を見せる。
「あ!すみません、聞いてますよ!か、カラオケ大会お出になるんですってね?」
老婆に話しかけられたと同時に、菫は少し冷静になれた。
(……いや、私はただのスミ子さんのそっくりさんに過ぎないから。スエ子さん……昨日私に会ったせいで「本物」のスミ子さんに会いたくなったのね、きっと。今頃……会えてるかしら?)
「ねぇ、」
「あっ、すみません!」
再びぼんやり考えていたところ、老婆にけしかけられ菫は再び我に帰った。
「……今日亡くなった人がいるんでしょ?それで悲しくなってたの?」
「……!!」
「もしかしたら……お空で皆の歌声聞いてくれてるかもしれないわね〜。だから私もその人のために歌わないと〜」
菫が図星をつかれて面食らう中、老婆は勇んでそう言った。
「……そうかもしれないですね。横澤さん、たぶんまだこの辺にいるでしょうし……」
菫はそう言うと、窓の外の晴れた空をじっと眺めた。少し前まで小雨が降っていたためか、空にはうっすらと虹がかかっている。




