24ページ目 菫さんとNの悲劇 前編
(やっべーーー!!遅刻するじゃねーか!!)
真二は足に力を込め、必死に自転車のペダルを漕いでいる。朝のHRが始まるまであと5分。
真二の家は公ヶ谷高から自転車で10分と3組の中では近い方なのだが、あろうことか寝坊してしまった。朝食も食べず適当に着替えてヘルメットを被り、真二は大急ぎで学校へと向かっている。
(それにしてもオカンのやつ空気読めねーな!
ヘルメットつけろってしつけーんだよ!俺がこんなに急いでんのに)
他の生徒の姿がなければ、他の通行人や自転車の姿もほとんどない。それをいいことに、真二は心の中で愚痴りながら猛スピードで自転車を飛ばす。しかも下り坂を走っているおかげで加速が止まらない。
(よーし!これだけ飛ばせば間に合うっしょ!お杉に呼ばれるまでに行きゃいいんだし!)
幸い、真二の出席番号はクラスでも後ろの方だ。なのでこうして激走すればきっと間に合うだろうと高を括っている。
高校まではあと数十メートル。この坂を下り切った先には丁字路があり、そこを右折するとすぐだ。ここまで飛ばしに飛ばしたのだから、もう遅刻せずに済むだろう。もうすぐ丁字路に差し掛かるので真二はブレーキレバーをゆっくりと握る。
(……え?)
真二は目を疑った。
スピードが……落ちない。というよりも、ブレーキレバーが緩過ぎる。真二は思わず何度もブレーキを握るも、全くと言っていいほど効かない。
(……はぁ!?壊れてる!?嘘だろ!!?)
昨日の帰りまで普通に握れて、しっかりと速度が下がり止まれていたはずなのに。なんで?と真二の頭の中は即座にパニック状態になる。シャーッと車輪がとんでもないスピードで回る音が響き、無情にも丁字路の大きな壁が一気に迫り来る。
「うわぁあああーーーーー!!」
★
それから10分弱ほど経った2-3の教室にて。この日も本鈴が鳴るとほぼ同時に杉谷が入ってきて出席を取っており、ちょうど中盤に差し掛かっている。
「杉浦ー」
「はい」
「玉井ー」
「はーい」
杉谷が次の来美の名前を呼ぼうとしたところで……ガラッと後ろの戸が開いた。クラス全員が一斉に振り向く。……と同時に大きなどよめきまで起こる。
「ナラッチ!!」
「どうしたの!?」
「おはよう奈良間……ってどうしたんだよそのケガ!?」
息を切らしながら入ってきたのは……真二だ。たまに寝坊をする彼が出席の最中に教室に入ることも、ワイシャツの中に変なTシャツを着ていることも、それら自体は特に珍しくも何ともない。ちなみに今日のTシャツには「いっちょうら」と手書きで書いたロゴに、タキシード姿の熊が描かれている。
が……クラスメイト一同は真二の姿を見てビックリ仰天していた。あの杉谷ですら思わず何があったのか訊いてしまうほど。
「ぅ、ういーっす………あーいででで……」
ヘルメットを被ったままの真二は、いつもと違って満身創痍だからだ。スラックスにはところどころ砂がついていて、両手の平には軽い擦り傷や傷までいかない擦った痕がある。右腕や右頬にもそれがあるうえ右肘はぶつけたのか赤く腫れている。右膝の辺りも痛いのか、真二は顔を歪めながら押さえている。
「おいおい大丈夫か?」
「だ……だいじょーぶ」
珍しく杉谷が気遣うと、真二はいつもと違う弱々しい声で答えた。
「もしかしてチャリでコケたのかー!?」
「どうせ寝坊してぶっ飛ばしてたんだろ」
恭平と寛斗に指摘され、全く図星であったので真二はギクっとする。そして苦笑いしながら呟いた。
「お前らの言う通りだよ……でも……いでで!」
「とりあえず先に出席は取っておくから保健室に行ってこい!」
今度は左膝を押さえて痛がる真二に、杉谷は保健室に行くように勧めた。
「いっ、行ってきまーす……」
そう言って真二が再び教室を出るところで、教室内にはどっと笑いが巻き起こった。
「コケたのかよドジだなぁ〜」
「てか5分早く起きればいいのに」
「どんだけ派手にコケたんだよ。カオルンに診てもらいな〜」
(あーあ何やってんのよ奈良間く〜ん……歩きじゃなくて自転車か〜)
クラスの皆が口々にツッコんだり野次を飛ばす中、菫も呆れ顔になるが……少し残念そうな顔へと変わる。
当然、この時は真二がただ遅刻しかけて自転車をかっ飛ばした結果、派手に転んで怪我をしただけのことだと、クラス全員思っていた。
この時までは……
★
幸い、真二の怪我は擦り傷に打撲と大したことはなく、1時間目が始まる直前に教室に戻ってきた。そしてヘルメットで守られていたこともあり頭部は無傷で、真二もこの時ばかりは母に感謝せざるを得なかった。
1時間目が終わった後も3組の話題は真二のことで持ちきりで、めぐる、沙希、萌に至っては早速いじってくる。
「何また寝坊してんの〜。またゲームだろどーせ」
「いい加減にしろよー。また栗山先生に叱られるぞ」
「ナラッチ昨日遅くまでやってたもんね、NPBスピリッツ」
「いやちげーんだよ…」
教室中に再び笑いが巻き起こるが……当の本人の表情はどこか硬い。普段なら笑いながら「もえぽんに言われたかねぇよ〜」などといじり返すところなのだが、今日の真二は何がが違う。いつもの笑顔はどこへやら、不服そうな表情を浮かべながら頭を掻いている。
(奈良間君……珍しく怒ってる……?)
菫が異変に気付いたところで、寛斗は他の生徒同様笑いながらも思い出したように真二に訊く。
「そういえばナラッチ、朝何か言いかけてなかったっけ?」
「あっ!」
待ってましたと言わんばかりに、真二はハッキリと断言した。
「ただ飛ばしてコケただけじゃねーんだよ!壊れてたんだよ!チャリのブレーキが」
その瞬間、教室内に「えーっ!」「うそー!」などと驚きの声が上がり、真二が到着した時と同じように騒然となる。
真二によると、寝坊して自転車を下り坂で飛ばしまくり、ブレーキをかけようとしたところ全く効かなかったという。下り坂のすぐ下は丁字路で壁がある。
このままだと激突してしまうので真二は咄嗟に降り、激突したのは自転車だけで済んだのだが……猛スピードの状態で無理矢理降りたため、弾みで派手に転んでしまったのだ。
「マジかよお前ついてねーじゃねーか」
「こんな時に壊れるなんて…」
「でも大きな事故にならなくてよかったね」
「そうなんだよ、全くもう……最悪だぜ」
同情する恭平、悠太、遥に、真二はほとほとうんざりした様子で愚痴をこぼす。そんな彼らの横にいる沙希は不思議そうな表情を浮かべ口を開く。
「でもさぁ……昨日帰る時は普通にブレーキ効いてたろ?」
「そうだよ。普通にブレーキ握れたしスピード落ちて止まれたぜ」
「そんな急に壊れるかー?私もチャリのブレーキ効かなくなったことあるけど、前からキーキー鳴ってたんだけど」
真二と同じく自転車通学している沙希には、こうしていきなり壊れることは未経験らしく、不自然に思っているようだ。そう言われると真二も引っかかりを覚えたのか、顎に指を当ててうーんと考え込んでいる。
「まぁ急に壊れることだってあるんじゃねーの……あっそうだ!」
何か閃いたように手を叩いた真二は、チラリとある生徒の方に熱視線を送る。
「なぁうみんちゅ、お前チャリよく乗るだろ。昼休みにちょっと俺のチャリ見てくれよ〜」
アウトドア派の日向はサイクリングも趣味らしく、真二は両手をすり合わせながら無茶振りする。振り向いた日向は困惑の表情を浮かべ、「ええ〜」と面倒くさそうに呟く。
「何で俺が見なきゃいけんのさー?チャリ屋行けー」
「だってなんで壊れたのか気になるし学校終わるまで待てねーよ!だから応急処置ってゆーか」
「そんなメカニック的なことわからんさー」
「お前がわかんなかったらチャリ屋に持ってくから!」
「……わかったさぁ」
しつこく懇願され……日向はため息をつきながらも渋々首を縦に振るのだった。
★
昼休みも終盤に入り、5時間目開始のチャイムが鳴るまであと10分。2-3の生徒達の大半が昼食を食べ終え、教室に戻ってきている。だが、普段この時間になったら既に教室にいるはずの日向と真二の姿はない。恐らく日向が真二の自転車をまだ見ているところなのだろう。
寛斗達がやきもきした様子で待っていると……ようやく2人は教室に戻ってきた。
「おう、チャリはどう…………ってどうしたんだよ一体?」
黙ったまま教室に帰ってきた2人の表情は……いつになく暗く顔色もかなり悪い。寛斗が思わずどうしたことか訊いてしまうほどに。
日向も真二も普段は底抜けに明るいうえ、声が大きく口数の多さはクラスで一二を争うほどだ。しかも普段の2人は血色が良いので、こんな真っ青な顔は滅多に見ない。一体何があったのだろうか?
(どうしたのかしら……何か嫌な予感がするわね)
菫も固唾を飲んで見守る中、真二は重い口を開く。
「……壊れてたんじゃなくて……壊されてたっぽい」
教室内が一瞬だけしんと静まり返る。その後で直が沈黙を破る。
「……え、どういうことですか?」
「……ブレーキワイヤーが切られてたんさぁ。ハサミかなんかでなぁ」
「はぁ!?それ本当かぁ?」
「まさか……わざと切られたってこと!?」
「何でそんなこと……てか普通に犯罪だろ!」
日向が詳細を説明すると、教室内は一気に大騒ぎになる。龍星、悠太、恭平が口々に言うほか、「イタズラかよ?」「ひどーい!」などと言う声も飛び交う。そんな中でも寛斗は冷静に真二に問いかける。
「ナラッチ、昨日の帰りまでは何も異常なかったんだよな?」
「おう」
「じゃあ家に停めてるうちにやられたってこと?
昨日帰ってから家の近くに怪しい奴がいたとか…」
「何も聞いてねーよ。父ちゃんも母ちゃんも兄貴も弟も何も言ってねーし。フツーに飯食って風呂入ってゲームして寝たし」
「うーん……」
誰がこんなこと……と寛斗は腕組みし眉間に皺を寄せ考えるが、全く目星がつかない。恭平が言ったようにれっきとした犯罪であるうえ、下手したら大事故に繋がりかねない。
ブレーキを壊すなんて、真二に相当な恨みがある人物の犯行と推測されるが……彼が誰かに恨まれるような人物でもない。そもそも奈良間家が犯行現場だったとすると犯人は公ヶ谷高校の生徒とも限らず、通り魔的犯行の可能性だってある。
考えてあぐねている寛斗を尻目に、当の真二は「あ゛ーーー!もぉ!!」と両手で頭を掻きながら喚く。
「どうせ近所のクソガキのイタズラだろ!最近ひでーんだから!」
真二は単なるイタズラだと判断し、そう言い放った。これに対し、遥とめぐるは唖然としている。
「え……イタズラって……」
「……イタズラでそこまでするかー?」
「最近ガチでひでーんだよ。ピンポンダッシュとかポストに石入れたりとか。……まぁ俺も何回かやったけど」
「いやいやお前もやってたのかよ」
恭平がツッコミを入れ、再び笑いが起こるが……菫は訝しんでいる。
(いやいやあり得ないでしょ!ピンポンダッシュとかとブレーキ壊すのが同等なんて!)
菫と同じことを考えていたのか、寛斗は単なるイタズラだと片付けようとする真二に釘を差す。
「いやでもこういうのはちゃんと警察に被害届出した方がいいよ、ナラッチ」
「け、警察ぅ!?」
まさか警察沙汰になるほどのことだと思わなかったのか、真二は驚いて聞き返す。だがクラスメイト達は寛斗の意見に賛成し、真二は渋々頷いた。
「わかったよ……今日警察署行ってくるわ」
「あと、チャリ乗るのも暫くやめた方がいいぜ」
「ええっ!?」
更に寛斗から自転車に乗ることすら控えるように勧められ、真二は困惑する。
「だってこのまま乗ってたらまた何かされるかもじゃね?」
「今度はパンクさせられてるかもよ」
「うっ……そうだけど」
沙希と彩矢音も同調する中、真二は返す言葉が見つからないようだ。それを見て寛斗は改めて念押しする。
「だいたいナラッチは家から学校までチャリで10分そこらだったよな?それなら歩いて行けなくもないだろ。いつもよりちょっと早く起きたら」
「で、でも……悪いのはブレーキ壊した奴だろ!何で俺が……」
「気持ちはわかるけど……自分の身を守るためなら……な?」
真二は渋々頷くも……不満タラタラな様子で再び愚痴をこぼした。
「あ゛〜〜〜!ムカつく!一体何なんだよ!犯人わかったら絶対ぶっ飛ばしてやる!」
★
その翌朝、菫は乗り換え駅に着いたところで偶然琴葉と会い、そこからは2人で次の電車の改札口へと向かっている。
「……てなことがあって……ブレーキ壊されてたみたいなのよ」
話題はやはり昨日の真二のことである。話を聞いた琴葉はすぐに眉を顰めた。
「ええ〜……怖いじゃない。誰がそんなこと……」
「まぁでも奈良間君家近いから暫く歩いて学校行くみたいよ。その方がいいわよね。安全だし、遅刻しそうになって走ったら曲がり角で女の子とぶつかって、いい出会いになるかもだし……」
「そういう問題じゃないでしょ〜?」
相変わらず笑いながら、琴葉はツッコミを入れる。そんな感じでいつものように階段を上っていたところ……菫は何かに気付く。
ケホケホ……
「ん?」
「どうしたの?菫ちゃん」
多くの人が階段を上り下りする中、左手から咳き込む音が菫の耳に入る。
「……誰か咳してない?」
「ほんとね、夏風邪かしら?こんなところで可哀想に……」
菫と葵は思わず音が聞こえた方を見ると、1人の制服姿の女子高生が階段の途中で立ち止まり、両手で口を押さえて咳をしている。
しかもよく見るとその生徒は公ヶ谷の生徒の制服を着ており……琴葉は彼女を暫く見ると表情を変える。
「えっ、琴ちゃ……」
「あの子……うちのクラスの子なの!」
驚く菫に、琴葉はそれだけ言うと女子高生の元に駆け寄った。菫も遅れて向かう。
ゲホッ、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……
その間にも女子高生の咳の音がどんどん激しくなっているうえ、かなり苦しそうだ。最初は普通に立っていたものの、どんどん腰が落ちていき最終的にはその場に蹲ってしまう。
「西村さん!大丈夫!?」
明らかに様子のおかしい女子高生に、琴葉は必死で声をかける。が、彼女は咳き込んだままでまともに返事すら出来ない。
「どうしたの!?」
菫も女子高生の隣にしゃがみ込んで訊くも、ゼェゼェだのヒューヒューだの苦しそうな音が鳴るだけだ。これは……ただの風邪ではなさそうだ。
「……これは喘息かもしれないわ」
「そうだと思う!西村さん喘息持ちだって言ってたから」
同じクラスの琴葉は知っていたようだが、菫も夜職時代に喘息の発作で倒れた同僚や客がいたので、この音だけですぐに見抜いた。
いつの間にか女子高生は片手で口を押さえ、もう片方の手はスクールバッグの中に入れ、ゴソゴソと何かを探すように動かしている。恐らく吸入薬を探しているのだろう。
「大丈夫!?薬ある!?」
女子高生の背中をポンポン叩きながら、琴葉はもう一度訊く。やはり咳が止まる様子はないうえ、女子高生は苦しみながらも首を弱々しく横に振る。
「薬ないのかしら?」
「……え?そんなこと……」
まさかの薬までがないという事態に、琴葉は呆然とする。そこに、スーツ姿の中年男性が菫達に声をかける。
「ちょっと君、どうかしたのか?」
菫と琴葉だけでなく、他の乗客もただならぬ雰囲気を感じたようで、数名が菫達の周りに立ち止まっている。
「あっ、この子がかなり具合悪そうなんです。救急車呼んだ方がいいかもしれません!」
「よし、わかった」
「駅員さんも呼んだ方がいいんじゃないの?」
「じゃあお願いします!」
中年男性に119番通報と、また別の女性客に駅員を呼ぶのを頼み、菫と琴葉はなおも女子高生の背中を叩いては声を掛け続ける。いつしか菫達の周りには人だかりができていた。
暫くしたところで駅員が到着し、彼女を救護室まで連れて行ったのだった。
★
それから十数分後――
公ヶ谷高の最寄駅前の横断歩道の前は、今日も信号待ちの人でごった返している。駅周辺には公ヶ谷高だけでなく、ショッピングセンターや市役所、病院など様々な施設もあるため、その従業員や職員も少なくない。
未だに信号は赤のままで、すぐ前に沢山の車が次々と横切ってくる。ほとんどの人がスマホを眺めながら、信号が変わるのを今か今かと待っている。
凜もその中の1人だ。信号を待つ群衆の中の最前列に立つ凜が見ているのは……激辛マニアのWeTuberの動画だ。汗だくになりながら激辛麻婆豆腐を必死に頬張っている。
(ふーん……船橋の店か。……今度行ってみっかな)
スマホの画面に専念しながらそう思っていた、その時だった。
ドンッ!
「!!?」
誰かが、思いっきり凜の背中を押した。そのせいで凜はバランスを崩し、思いっきり前に倒れる。凜は呆気に取られながらも咄嗟にスマホを手放し、両手を前に突き出した。両手の平がアスファルトに勢いよくぶつかり、黒いケースに入ったスマホも音を立てて地面に落ちる。
とほぼ同時に、ブーンと大きな音を立てて凜の目と鼻の先を1台の車が走り去って行った。
「おい!大丈夫かー?」
「どうしたー!」
間一髪で車との接触は免れたものの……凜は転んだ後も呆然とし、暫く立ち上がれない。
程なくして信号は青に変わった。多くの人が凜の方をチラリと見ながらも、何事もなかったかのように横断歩道を渡る。凜の元へ駆け寄り口々に声を掛ける者も数名いる。「だ、大丈夫っす……」と凜が答える中、ある人物が彼のスマホを拾い、横にしゃがみ込んでそれを渡す。
「はい。びっくりしたよ。車とぶつからなくて本当によかった…」
「……サンキュー。つーか寛斗もいたのかよ」
凜はバツが悪そうに寛斗を少し睨みながら、スマホを受け取った。
「うん。後ろの方で待ってたからさっきまでわかんなかったけど、ちょっと騒ぎになってて何事かと思ったら……大丈夫?怪我してない?」
「ああ」
寛斗に言われるがまま、凛は強打した両手の平を見たが、砂が少々ついているだけで傷は一つもない。両膝も軽くぶつけているが、そこまで痛くない。漸く凜はその場に立ち上がり、両手と両膝についた砂を払い落とす。
するとすぐに青信号が点滅し出したので、凜は寛斗と共に急いで横断歩道を渡り切った。
「どうしたんだよ?凜がコケるなんて珍しい。しかも横断歩道なんかで」
2人で学校まで歩きながら、寛斗はそう聞かずにはいられなかった。そもそも凜とはもう10年以上付き合いがあるのだが、運動神経抜群な彼が転んでいるところなんか今日まで見たことがない。それも何も障害物がなさそうな、信号のある横断歩道の前である。
すると、凜は普段通り無表情のまま呟いた。
「……押されたんだよ。誰かにな」
★
真二の自転車のブレーキが壊された昨日に続き、立て続けに凜が誰かに押され車と接触しそうになった。なので2-3は2日連続で朝からどよめきが起こっている。
「おいおいオメーが振った女子が逆恨みしたんじゃね〜のかぁ?」
早速知輝が絡んでくるも、凜は塩対応するだけだ。
「知らねーよ。誰がやったかまでは見てねーし」
「モテる男も大変だな〜。せめて振るにしてももうちょい優しく振ったれよ〜、そんなんだから恨まれるんだよ」
「だから俺が振った奴かどうかなんてわかんねっつってんだろ。いちいちうるせぇからあっち行け。
ウザ絡みしてる暇があれば小テストの勉強でもしてろ。バカはまずモテねーぞ」
「ケッ!!」
自分からちょっかいを出しに行ったにも関わらず、知輝はぷりぷり怒りながら離れた。一方、めぐる達もいつもと違って不安そうな表情を浮かべている。
「なんか……立て続けにいろいろ起こりすぎじゃない?」
「確かにな……」
めぐるがそう言って寛斗が同調すれば、遥、沙希、悠太もうんうんと頷く。普段はこんな空気でも軽口を叩く真二ですら、自分の席に座ったまま腕を組んで何か考え込んでいる様子だ。ちなみに真二は寛斗に言われた通り、今日はいつもより早起きして徒歩で通学している。
それに対し、恭平だけは怪訝な表情だ。
「立て続けつったって2人だけだろ?大袈裟じゃね?」
「いやいや2日連続でこんなことなかなかなくね!?
しかもナラッチのもナバちゃんのも……誰か犯人がいる訳よな?」
「正直怖いよ……また誰かに何かが起こるって思うと……」
軽くあしらう恭平だが、めぐると悠太は少なからず恐怖を感じているようで反論する。
と、ここで遥があることに気がついた。
「あれ…………すー様まだ来てなくない?」
めぐる達は一斉に菫の席をじっと見た。遥の声を聞いて、直もバッと勢いよく振り向いてそこに注目し、凜もチラリと見た。
菫の姿は……まだない。
「えっ、宮西さんいつもこの時間には来てますよね?」
「……なぁ」
「まさか……すー様も危ない目に遭ってるんじゃね?」
もうあと少しで本鈴が鳴り、それと同時に杉谷が教室に来る時間だ。普段なら菫は既にこの時間には着いているし、それ以前に予鈴が鳴る前にはもう既に教室にいる。横から口を挟んできた直に、寛斗も同調する。そしてずっと考え込んでいた真二に至っては、ハッキリと言ってしまった。
「ちょっ、待って!!めっちゃ心配なんだけど!すー様!」
一気に菫のことが心配になっためぐるは血相を変えて取り乱す。
普通ならたった1人が学校にまだ来ていない如きで大した騒ぎにはならないのだが……いかんせん2人連続で災難があった後だ。教室内がすぐにただならぬ雰囲気へと変わる。
「宮西さん……何かあったんですか!?」
「ちょっと……最近変じゃない?皆に何が起こってるの?」
「こわ〜い!」
直と萌までもが菫を心配し、花恋に至ってはわかりやすく怖がっている。他の生徒達もそれぞれ心配したり怯えたりとクラス内が混沌とする中、いよいよ本鈴が鳴る。
……と同時に教室の後ろの戸が開く。
「あー!危なかったわね……」
漸く菫が教室に入ってきた。大急ぎで来たので、菫は息をはぁはぁさせてはいるが、昨日の真二のような怪我はしていない。
「すー様ぁ!」
「よかった!!」
無事に菫が到着し、大半のクラスメイトが安堵の表情を浮かべたところで、前の戸もガラッと開いた。
「皆おはよう!ほら早く席に着いてー」
2人に続いて教室に入ってきた杉谷がクラス全員に席に着くよう促す。そして少し遅れて栗山も入り、開口一番こう言った。
「宮西さん、今日は朝から大変だったねぇ。
でも西村さんを助けてくれてありがとう」
「あ、いえいえ……」
当然、菫以外のクラスメイト達は何のことやらさっぱりわからず、疑問符を浮かべている。そんな彼らのために、菫は今日あったことを説明する。
「船橋駅で5組の西村さんて子が喘息で倒れてて、救急車呼んでもらってたの」
「ええっ!?」
「マジか!?」
「えっ!?美月が!?」
教室内が再びざわめく。未夢に至っては愕然とし思わず口走った。
「畔柳さん、西村さんと仲良いのかい?」
「はい!1年の時同じクラスで……でもあの子常に喘息の薬持ってるって言ってたのに……」
栗山がそう訊くと、未夢は何度も頷いた。どうやら未夢と美月は元々仲が良いらしい。菫は更に話を続ける。
「発作が起こったっぽいんだけど、薬がなかったみたいなの。だから私と5組の有薗さんで彼女を見てて、救急車が来てからも一部始終を説明してたらギリギリの時間になって……で、あの子は大丈夫だったんですか?」
それから菫は栗山に美月の容体を訊く。栗山は少し考え込んでから口を開く。
「とりあえず救急車で病院に連れて行ってもらって、今は回復したみたいだよ。宮西さんと有薗さんにありがとうって言ってたそうだ」
「よかった……」
菫は胸を撫で下ろし、思わずそう口走った。クラスの皆も安堵の表情を浮かべている。
一方、杉谷はこのことを知らなかったようで、狼狽えている。
「く、栗山先生……そんな話どこから……?僕何も聞いてなかったんですけど……」
「ああ、朝のHRの前に5組の小笠原先生がお伝えしてくれたんだよ。君は知らなかったのかい?」
★
結果的に菫は無事に登校し、喘息で倒れた美月も何とか大事には至らなかった。クラスの皆は一旦はホッとしたものの……完全に心が晴れた訳でない。とりあえず昨日今日と災難にあった人達は無事だったものの……明日また何が起こるかわからないからだ。
それは5時間目が終了後の10分休憩に入っても変わらず、2-3の教室には重苦しい雰囲気が漂っている。
「……ねぇ、僕ちょっと気付いちゃったんですけど」
珍しく教室内が静まり返っている中、直が語り始める。
「ばったん、どうした?」
「あの、昨日と今日災難があった3人って……共通点ありますよね?」
「共通点!?」
何事かと思って訊いたら……まさかの指摘に寛斗は思わず聞き返す。文芸部員かつ図書委員の直が読む小説はオールジャンルで、もちろんミステリー小説も例外ではない。なので学校内でこういう事件があれば、推理せずにはいられないのだろう。
寛斗は更に話を聞こうとしたが、ここで知輝が茶々を入れてくる。
「何だよ探偵の真似なんかしやがって〜。だいたいナラッチと生田目のは誰かにやられたとしても、喘息のやつはたまたまだろ〜?運が悪くて薬忘れたか落としただけじゃねーか」
(確かに普段鞄に入れていたとしてもうっかり忘れることもあるだろうし、どっかに紛失することだってあるかもしれないわ……でも……でも……)
そう思ってはみたものの……また別の可能性も拭い切れず、菫は口を開いた。
「……そうでもないかもしれないわよ。もしかしたら…………電車で何者かに盗まれたとか」
「「「!!!」」」
クラス全員が菫に注目すると同時に、一斉に表情が変わり皆緊迫した表情や怯えた表情を浮かべる。貴大に至っては「やめてよ〜!」と頭を抱えている。
ただ知輝は納得いかないようで……
「ぬ、ぬ、盗むって……どうやって盗むんだよ!」
「朝ってどの電車もだいたい超満員でしょ?今日だって色んな人に押されたりぶつかられたりで大変だったんだから。
それを利用してどさくさに紛れて鞄に手を入れてスったのかもしれないわよ?盗られた方もスマホ見てたりとかしたら本当に気付かないんじゃないかしら」
「うっ……」
「確かに……」
「あれだけ人いたらね……」
菫の推察に、知輝はぐうの音も出ない様子であるうえ、優香子と千穂も納得したように呟く。
「すー様の言う通りだな……確かにあの混み具合で、もしうっかり鞄が空いてたらスられそう」
寛斗も数回大きく頷いて同調した。そして言い出しっぺの直は菫が援護してくれて嬉しいのか、少し口角を上げている。
「宮西さんもそう思ってたんですかぁ、奇遇ですね〜」
「まぁ色んな可能性があるでしょうし。で、その共通点って何なの?ばったん」
菫にけしかけられた直は、コホンと咳払いをしてから胸を張って話した。
「ナラッチ君と生田目君と西村さん……3人ともイニシャルがNです!!」
自信満々に言ったものの……再び教室内は静まり返った。ほとんどの生徒が肩透かしを喰らったようで、無の表情になるかため息をついている。「何だよそれ!」「くだらねー」と野次すらも飛んでくる。もちろん、菫も拍子抜けして目が点になる。
「……上川畑、それ関係あんのかよ。まさか犯人はNがつく奴に恨みがあって色々やったって言いてーのか?」
更には凜からもギロリと睨まれるも、直は物怖じせずに続ける。
「いや、犯人が誰とかいう話ではなくて、今まで皆イニシャルNですから、該当する人はこれから気をつけたほうが……」
「ちょっ!やめろよ!」
「イヤーー!」
早速イニシャルNに該当する沙希と栞里が悲鳴をあげる。同じく該当する雅哉も青ざめている。
が、ここで凜がまたしてもチクリと言う。
「つーかお前もNだろ、下の名前」
「う゛ッ……!!」
苗字がNであることに気を取られていたのか、直は自分も該当することをすっかり忘れていたらしい。チクリどころかグサリと刺さったのか、直は流石に口籠る。
「自分でそう言ったんだしせいぜい気をつけろよな」
「…………気をつけます」
逆に凜から気をつけるように言われ、直は返す言葉が思い浮かばなかったのか、それだけ言うのだった。
★
その日の夜、とある歩道橋にて1人の男が階段を上っている。紙袋を両手で胸に抱きながら、心躍らせて階段を上るその男は……知輝だ。
(やったぜ〜!遂に手に入れたぞ!高畑きょう子の大ヒット作!
私服にさえ着替えりゃ18禁コーナーなんてチョロいぜ)
階段を上り切ったところで、知輝は我慢出来ずに紙袋のテープを剥がして中身をチラリと覗く。入っているのは1枚のDVDで、ジャケットにはやたら露出度の高いエッチな水着姿の女優が写っている。
(帰ったら早速観てやるぞ……グフフフフ)
周りに自分以外誰もいないことをいいことに、知輝は鼻の下を伸ばしながらニヤニヤ笑う。
ちょうどその時、知輝の頬にぱたっと水滴がぶつかった。
「……えっ!?雨!?マジかよ……」
まさかの雨に、知輝は思わず独り言を言う。
今は梅雨時真っ只中なので、いつ雨が降ってもおかしくない時期だ。雨粒が一滴だけ知輝の頬に当たったのも束の間、あれよあれよという間に雨脚は強くなり、たちまちザーザーと激しく降ってくる。
「やべっ、早く帰ろ!」
再び独り言を言うと、知輝は雨に打たれながら紙袋に入ったDVDを再び抱きしめ、歩道橋の上を全速力で駆け抜ける。何とか滑ったり転んだりすることなく階段まで辿り着き、あとは下りるだけというところだった。
それまでこの歩道橋に知輝以外の人物はいなかったが……階段のちょうど上で初めて通行人とすれ違う。黒いレインコートを着たその人物は知輝よりも小柄で、しっかりと目深にフードを被っており、黒いマスクまでしている。だからその表情は確認出来ないし、男性なのか女性なのかもわからない。
(……なんだぁ?チャリとかバイク乗ってる訳でもねぇのにカッパなんか着て)
その人物を少しだけ訝しげに見ながら、知輝は階段を降りようとした。
その時だった。
ドン!!
「……えっ!!?…………うわぁッ!!」
背中に何かが思いっきりぶつかり、その瞬間……知輝は勢いよく真っ逆さまに転げ落ちていった。ビチャッという音と共に、知輝の体は階段下の水たまりに落ちる。大事に抱えていたはずの紙袋は階段の途中に落ちていて、雨のせいでずぶ濡れになり今にも破れそうだ。
「………………」
先程のレインコートを着た人物は、階段から落ちた知輝を一瞥するとクスリと笑い、そのまま去っていった。




