■ 戊辰戦争(1868–1870) ― 武士道共和国家・蝦夷共和国の誕生と、南北日本の分裂 ―
1. 背景:幕末の動乱と列強の接近
1860年代、日本列島は、江戸幕府の弱体化と列強の圧力により混迷を極めていた。
• 江戸幕府は開国後の政情不安と経済悪化に加え、尊王攘夷運動と討幕派大名(薩摩・長
州など)の台頭により権威を失っていた。
• 列強(英・仏・露・米)は日本をアジアの拠点と見なして接近。薩長連合は英国の支援
を得て近代軍制を整備し、一方で旧幕府側はフランス顧問団を導入して新政府軍に対抗し
た。
2. 開戦と戦局の推移(1868–1869)
▸ 王政復古と鳥羽・伏見の戦い
• 1868年、明治天皇による王政復古の大号令が発せられ、薩長連合が「新政府」として発
足。
• 鳥羽・伏見の戦いにて旧幕府軍が敗退、徳川慶喜は恭順の意を示し江戸城を開城した。
しかし、ここで戦争は終わらなかった。
▸ 旧幕府強硬派の蜂起と北方進出
• 土方歳三、榎本武揚、松平容保ら強硬派は、恭順に反対し、蝦夷地(北海道)への脱出
を強行。
• 榎本は軍艦8隻と兵約3,000を率いて脱出し、蝦夷地・函館を占領。
• 同時に、**フランス軍事顧問団(例:ジュール・ブリュネ)**がこれに随行し、旧幕府
側の近代軍指導に協力。
3. 蝦夷共和国の樹立(1869)
• 1869年5月、函館にて**「蝦夷共和国」**の樹立が宣言される。
• 首都:五稜郭
• 政体:共和制(議会制・大統領制的要素を持つ)、元首には榎本武揚が選出される。
• 綱領:「武士道と共和政の融合」=近代国家でありながら、日本的道徳と忠義を重んじ
る精神国家。
• 同年6月、
「義と忠の政府」を名乗り、天皇への忠誠を保ちつつ、東京政府の専制に対
抗する存在として立脚。
• フランスが事実上の後ろ盾となり、蝦夷共和国を半保護国化。顧問団の派遣、資金援
助、軍事教練が行われた。
4. 北日本・南日本の分裂(1870)
▸ 函館戦争の経緯と講和
• 東京新政府軍は、1870年初頭、蝦夷共和国への総攻撃(史実の箱館戦争相当)を敢行。
• しかし、フランス海軍の示威行動と国際世論(武士道共和国への評価)により、新政府
軍は攻撃を断念。
• 最終的に、英仏による調停が行われ、「蝦夷共和国の自立を事実上承認する形」で停戦
協定が締結。
▸ 日本列島の南北分裂の固定化
• 南日本(東京政府・大日本帝国):明治天皇を戴く中央集権国家、英国の保護下で近代
化を進める。
• 北日本(蝦夷共和国):武士道と共和制を掲げる自治国家、フランスの影響下で北方領
土を基盤とする独自国家に成長。
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5. 樺太売却への伏線
▸ ロシアの撤退とフランスの仲介(1871–75)
• ロシアはアラスカ売却(1867)後、極東からの戦略的撤退を検討。
• 1871年、フランスの外交工作により、ロシアと蝦夷共和国の交渉が始まる。
• 1875年、
**「樺太割譲条約(仮称:函館協定)」**が締結され、南樺太が蝦夷共和国の
統治下に入る。
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結論:戊辰戦争の結果とその意味
• この世界の戊辰戦争は、単なる王政復古の争乱ではなく、
➤ 「日本における二つの近代化モデルの分裂」であり、
➤ 「英仏の代理勢力化による冷戦構造の萌芽」でもあります。
• 明治日本(南日本)は近代国家建設を英国式の立憲君主制で進め、
蝦夷共和国(北日本)は武士道的精神共和国としてフランス式共和体制と融合した独自
の道を歩むことになりました。