代理戦争と幕末崩壊の序曲:英仏が引き裂いた日本
序章|「租借の衝撃」から始まる国家的憤怒
1860年代後半、江戸幕府は命脈を保つためにフランスと手を結び、横浜・神戸の永久租
借を容認するという致命的な外交を行った。この選択は、「幕府=売国政権」という認識
を広く国内に浸透させ、尊王攘夷から倒幕へと世論を劇的に転換させる。
幕府に従っていた多くの武士たちはこの屈辱に耐えきれず、「主君の恥に殉じる」ことよ
りも、「国家の尊厳」を掲げて倒幕側に転向していった。
第一章|フランスと幕府:軍事化される「保守体制」
フランスは、幕府を極東における政治・軍事的拠点として維持するため、支援を一層強化
した。
軍事・技術支援の深化
フランス陸軍士官学校出身の顧問団(レオンス・ヴェルニー、ジュール・ブリュネなど)
が続々と来日し、幕府陸軍をナポレオン三世風の編制に近代化。
横須賀造船所の建設とともに、フランス式の鉄甲艦の導入も検討された。
薩摩や長州が英国式火器を導入する一方、幕府軍は**シャスポー銃、ロイヤル大砲、装甲
艦「開陽丸」**などで対抗。
租借地の軍事要塞化
フランスは横浜・神戸に小規模な砦と兵営を築き、事実上の「要塞租借地」として機能さ
せ始めた。駐留部隊は増強され、フランス海軍東洋艦隊の拠点としての役割を担うように
なる。
第二章|イギリスと薩長:近代革命の「支援者」
フランスの急速な勢力拡大に対抗するため、イギリスはかねてから接触していた薩摩・長
州に対し、より積極的な介入を開始する。
軍事物資の供給
長崎のグラバー商会を通じて、エンフィールド銃、スナイドル銃、アームストロング砲、
蒸気船「ユニオン号」などが大量供与される。
密貿易の形を取りつつも、事実上は英政府の黙認下であり、実質的な公認支援であった。
人的支援と教育
薩摩藩・長州藩からの若者が、イギリスへ留学。1865年には「長州ファイブ」や「薩摩
留学生」が実在以上に強力な支援を受け、軍事工学、造船、法学を習得。
英国軍将校が秘密裏に薩摩や長州で軍事教練を行い、スコット式戦術、ライフル中隊運
用、野戦砲の砲兵戦術が導入される。
外交と情報工作
英国公使館は幕府の租借条約文書の写しを入手し、**「幕府は日
本の主権を欧州に売った」**という内容で世論工作を展開。
英国商社を通じて資金援助が行われ、薩長の軍拡を下支えする。
第三章|討幕運動の激化と「日英仏代理戦争」化
社会情勢の急変
各地で「租借反対」「フランス排撃」を叫ぶ民衆蜂起が頻発。江戸・大坂では打ちこわし
や放火も相次ぎ、幕府は鎮圧に追われる。
尊皇派志士たちは、「討幕」の大義名分として「国土回復」「租借地奪還」を掲げ、倒幕
運動は反仏ナショナリズム運動として再定義される。
武力衝突と本格内戦へ
1866年「第二次長州征伐」では、英製火器を装備した長州軍が幕府軍を撃破。フランス
顧問団指導の幕府軍も苦戦。
1867年、ついに大政奉還・王政復古の大号令へと至り、1868年の戊辰戦争勃発。
この内戦は、単なる政権交代ではなく、英仏代理戦争の性格を強く帯びる。
第四章|戊辰戦争の国際化と激戦の構図
国際的戦略拠点としての横浜・神戸
幕府軍は横浜租借地に拠点を移し、**「租借地防衛戦」**を展開。フランス顧問団と現地
駐留兵が防衛指揮を執る。
一方、東海道進軍を開始した新政府軍(薩長土連合)は、イギリスの諜報・補給支援のも
と、租借地攻略を視野に入れる。
英仏両国艦隊が横浜沖に睨みをきかせるなか、**「第三次下関戦争」**に似た都市攻防戦
が展開される可能性も。
海外への波及
清朝・朝鮮・ロシアは、極東日本での英仏対立に神経を尖らせ、特に朝鮮通信使の派遣中
止や対馬への干渉が起こる。
フランスは中国南部に艦隊を展開し、日本戦線と連動。イギリスもまたインド艦隊を極東
に転用し、**「日中分断線」**が形成される。
終章|維新後の「属国化」する国家建設
仮に新政府が勝利して明治維新が成立しても、彼らは明確にイギリスの「支援者」として
の出自を持つ政権である。
英国からの借款と貿易依存は継続され、経済的属国化が進行。
フランスとの外交関係は最悪の状態に陥り、租借地の返還交渉は頓挫。
一方、イギリスは明治政府に対して、「インド・アジアの協調国」としての機能を期待
し、日清戦争や対露政策に強く影響を及ぼす。
総括|英仏によって裁かれた近代国家:「外因主導の維新」
本来、日本の近代化は内発的エネルギーに基づくべきものであった。だがこの歴史改変世
界では、南北戦争の余波によるアメリカの不在が、日本を英仏の代理戦争の舞台と化し、
明治維新の姿そのものを大きく歪める結果となった。
明治政府は、王政復古と引き換えに、国家主権の一部と外交の独立性を、列強の軍事援
助と資金支援に売り渡したのである。