ストーンウォール・ジャクソンの奇跡的な生還:チャンセラーズヴィル からの帰還
◆ 1863年5月2日夜:運命の森での「ずれ」
チャンセラーズヴィルの森。激戦の果てに、ストーンウォール・ジャクソン将軍率いる南
軍第2軍団は、北軍右翼に対する電撃的な側面攻撃を成功させ、圧倒的勝利を目前にして
いた。
その夜、ジャクソンは幕僚数名とともに前線偵察に出る。史実ではここで、彼は味方の
ノースカロライナ第18連隊の誤射により致命傷を負ったが、この世界線では奇跡的な「ず
れ」が運命を変える。
運命を分けた微細な変化:
騎乗中の愛馬「リトル・ソロモン」が木の枝に驚き、身を横に逸らした。
銃弾は胴体を逸れ、左腕と右肩を掠めるか貫通するにとどまった。
幕僚のアール・ペンドルトン少佐が即座に「撃つな!将軍だ!」と叫び、さらなる誤射を
防止。
重傷ではあるが、致命的な動脈や肺損傷は避けられた。
医療措置の成功:
ジャクソンはすぐに担架で後送され、最寄りの野戦病院へ。
連邦軍から鹵獲したフランス製消毒薬とモルヒネが治療に用いられ、感染症は回避。
医師ハンター・マクガイアによる迅速な処置により、左腕は温存された。
肺炎も併発せず、ジャクソンは意識明瞭なまま回復期に入る。
【療養と復帰:神に選ばれし将軍】
◆ 1863年5月~6月:フレデリックスバーグ療養所にて
傷ついた「南軍の右腕」が無事であるとの報に、南部全域は歓喜に包まれる。教会では
「神がジャクソンを試し、しかし見捨てなかった」と説教され、新聞には「奇跡の将軍」
として連日報道された。
リー将軍も彼の復帰に安堵し、手紙にこう記す。
「君が再び我らのもとに戻るのを、私以上に待ち望んでいる者はいないだろう。だが焦る
ことなく、ゆっくりと戻ってきてほしい。」
6月中旬には騎乗訓練を再開。左腕は包帯で吊っていたが、右手での指揮、移動、連絡は
すでに可能であった。
【ペンシルベニア侵攻と戦略構築】
◆ 1863年6月20日:第2軍団への正式復帰
リー将軍はペンシルベニア侵攻作戦(ゲティスバーグ方面作戦)にあたり、ジャクソンを
第2軍団長として復帰させることを決断。イーウェル中将は健康を理由に後方勤務へ異
動。
ジャクソンはすぐさま作戦会議に加わり、以下のような提案を行った:
「セメタリー・リッジを取れるか?ではなく、必ず奪え。」
「夜間の占領と構築こそ、翌日の勝敗を決定づける。」
リーは彼の直言を歓迎し、本作戦ではゲティスバーグ近郊の要衝を第2軍団が率先して攻
略するよう命じた。
【ゲティスバーグの戦い:運命の反転】
◆ 1863年7月1日:初日の転換
ジャクソンの第2軍団は北軍右翼を強襲。セメタリー・リッジに迫る。
イーウェルなら躊躇したであろう攻勢命令を、ジャクソンは即決で発動。
午後6時半、南軍はコメタリー・ヒルとセメタリー・リッジを占領。
ミードの軍は不完全な陣形のまま後退を余儀なくされる。
◆ 1863年7月2日:側面包囲の成功
ロングストリート軍団が南軍左翼を支援。
ジャクソンとロングストリートの連携により、リトル・ラウンド・トップが早朝に陥落。
北軍は防衛ラインを喪失し、中央突破の余地を与えてしまう。
◆ 1863年7月3日:ピケットの突撃は不要に
北軍はもはや決戦を望まず、夜明けとともに撤退を開始。
ジャクソンは追撃を主張したが、リーは補給の問題と損耗を理由に静観。
ゲティスバーグは南軍の戦略的勝利に終わる。
【分岐後のアメリカ:南部独立への道】
◆ 南軍の士気と外交
ジャクソンの奇跡的復活と勝利は、南部で神話化される。
イギリスとフランスは南軍への承認を検討し、外交交渉を開始。
北部では和平派の声が高まり、戦意が大幅に低下。
◆ 1864年:リンカーンの再選失敗
北部でジャクソンを「征服者」とする報道が流れ、恐怖が広がる。
民主党マクレランが「名誉ある講和」を掲げて大統領選に勝利。
1865年春、ヴァージニア州アポマトックスにて和平交渉が開始され、南北戦争は講和に
よって終結する。
結語:神に試され、生還した将軍
ストーンウォール・ジャクソンの生還は、ただ一人の将軍の運命ではなかった。
それは南部という一つの国家の命運をも変え、北米の歴史の流れすら変えた奇跡の夜だっ
た。
ゲティスバーグに立ったジャクソンは、かつての神学校教師でもあり、兵士たちにこう
語ったという。
「勝利は神の意志のもとにある。だがその道を切り開くのは、汝らの行動である。」