#01 夢
昔の夢を見ていた。
あたたかな木漏れ日の差す山の中で、小川のつめたい水を斬るように、せせらぎの中を泳いでいた。
時々主人の手を離れては、陽の光きらめく水面へぱしゃりと潜り、滑らかな鱗の連なった川魚を貫いた。その魚は、今日の主人の朝餉となるのだ。
そうして戯れながら、澄んだ川の流れの中、輝きの粒を一身に浴びながら、黄金色の刀身を一頻り清めた後、浅瀬の丸石の上に立つ主人の手の中へと帰っていく。
主人は、川辺に生えた紫陽花のしっとりとした若葉を一枚摘むと、それで濡れた刃の雫を拭い、丁寧な仕草で剣を鞘へと収めた。
あの時の、さらさらという木の葉の音、どこか懐かしい風の香り、少し硬い指の感触、その全てを、今も鮮明に思い出せるのに、なぜか自分自身を造った主人のことだけは、彼のことだけは、ぼんやりと曖昧にしか思い出せなかった。
「ーーーーー」
名前を呼ばれた気がする。
今はもう呼ばれることのない、遠い昔の、古の名前を。
囁くような、低く優しい声色で。
レイチスが目が覚ますと、そこは薄暗い馬車の中であった。
馬車はゴトゴトと音を立てて揺れながら、今もどこかへ向かって走っている。
「目が覚めたか、レイチス」
そう言ったのは、目の前に座る、灰色の長髪の男。
ノルドス・オルコット、母方の伯父で、何やら胡散臭い医者をしている男だ。
馬車には自分以外に二人の人間が乗っていて、一人がこのオルコット伯父、もう一人がレイチスの二つ上の義兄クレンテ・ヘルヴレイクであった。
レイチスが養父であるヘルヴレイク公爵と出会ったのは、彼がまだ齢五歳ほどの子どもだった頃で、彼は一見ただの幼い少年だったが、精神は既に魔剣として覚醒しており、魔剣レィヴィング時代の邪悪な記憶も曖昧ながら残っていた。
彼は自身が人間として生まれ変わったことを頭では理解していたが、魔剣としての生き方しか知らず、それ故に争いを好み、欲望に忠実であった。しかも五歳児とは思えないほどの知性と狡猾さを持ち合わせていたため、彼を保護していた孤児院は、彼の支離滅裂で混沌とした言動と行動に完全に翻弄されていた。このままではレイチスを別の施設へ送ることもやむを得まいという時、ヘルヴレイク公爵が彼を引き取ると名乗り出たのである。
もちろん、孤児院側にとって、それはこれ以上ない好都合であったし、レイヴィングにとっても決して悪くはない話であった。彼自身、いつまでもこんな狭苦しく貧相な施設に留まり続ける理由はなかったし、国内でもトップクラスの権力を持つ公爵貴族の養子となれば、将来は安泰、それなりの地位も生活も約束されたようなものである。
しかし、レイチスは、少なくともこの時点でのレイチスは、やはり腐っても魔剣であった。
ヘルヴレイク公爵と初めて面会した時、彼は次のように公爵に言った。
「ヘルヴレイク、お前がオレを所有するつもりなのであれば、オレはそれを受け入れる。どんな望みでも叶えてやるし、富も力も思うがままに与えてやる。ただし、お前はオレに代償として膨大な量の魔力を捧げなくちゃならない。それに、お前の所有物になるとは言っても、お前の命令を必ず聞かなければならないという義務はオレにはないし、今後、気分次第でお前の所有物でなくなる可能性もある。それに同意出来るなら、オレはお前と契約を交わしてやっても良い」
レイチスのあまりにも不遜な物言いに、孤児院の人々は顔面蒼白になっていたが、当のヘルヴレイク公爵は少し驚いた顔をした後、機嫌を悪くするどころか楽しげに笑った。
「レイチス。私はここへ来る前、君の噂は孤児院の人から色々聴いてはいたんだが、どれも耳を疑うような眉唾物ばかりでね。けれど子どもから院長まで皆同じようなことを話すから、不思議に思っていたんだが、今、その謎が解けたよ。皆が話していたことは真実だったし、君はまるで、本物の魔剣のようだ」
「まるでではなく、オレは正真正銘本物の魔剣レィヴィングなのだ」
まだ声変わりもしていない幼い声でそう言う。全く説得力の欠片もないレイチス少年の言葉に、公爵は深く頷いた。
「であれば、本物の伝説の魔剣と家族になれるなんて、私は奇妙な縁に恵まれたな」
「家族?」少年はキョトンとした顔をする。
「そうだよ。私と君は親子、家族になるんだ」
「それは、オレがお前の所有物になるということで良いんだな?」
「いいや、所有物ではなく、家族だ。家族は所有するものではなく、何というか、その、とにかくそこにいるものなんだよ」
「……どういう意味か、オレには分からない」
若干戸惑った表情のレイチスに、公爵はふふっと微笑んでみせる。
「まあ、君が家族より所有物の方が分かりやすいと言うなら、別にそれでも良い。私は形には拘らない主義だ。ただし、君は私の望みを叶える必要はないし、富や力を齎す必要もない。約束はなるべく守ってほしいが、命令を聞く必要はないし、そうだな、君の気分も尊重したいと思っている。契約は、君とではなく、一先ずは孤児院とするんだけどね」
公爵は見た目の若々しさから想像するよりもずっと度量の大きな人間で、それはもう海のように深く広い器の持ち主だったので、もはやペースを崩されつつあるのはレイチスの方であった。
レイチスはさらに困惑した顔で、テーブルを挟んで向かい合った公爵の顔を見上げる。その特別な黄金色の瞳が何を考えているのか、彼には全く分からなかった。
「それで、お前に何の利益がある?オレの力が欲しくないのか?」
少年のどこか切迫した問いかけに、公爵は困ったように笑った。
「うーん、正直、魔剣の力にそこまで興味はないかな。私は魔術を使って自分で戦えるし、お金にも特段困っていない。私は君を一人の人間として養子にしたいのであって、君が魔剣であるかどうかは関係ないんだよ」
それを聞いた時、レイチスは今までに感じたことのない衝撃を受けた。それはショックと言っても差し支えない、ある種の絶望でもあった。
まだ自身を人間ではなく、あくまで魔剣として認識しているレイチスにとって、魔剣としての自身の価値を否定されることは、つまり自身の存在価値そのものを否定されたも同義であったし、いつの時代も数多の人々から渇望され、必要とされてきた、レィヴィングの人生、いや剣生上、そんなことはただの一度もなかったのだ。
しかし、数千年以上前に全滅したはずの魔剣の心情を、魔剣と会ったことも話したこともないヘルヴレイク公爵に汲み取れるはずもないのは仕方のないことであった。
レイチスがヘルヴレイク公爵邸に養子として迎え入れられた翌年、長期に渡る隣国との戦争で、一魔術師として戦地へ赴く公爵に、自分も連れていくようレイチスは申告したが、公爵は最後までそれを聞き入れなかった。彼はあくまでレイチスを魔剣ではなく人間として扱い、自身の子どもとして愛していたからだ。
結果、彼はその戦いで、仲間を守り殉職した。
レイチスは不思議に思っていた。
自分と契約した者は、呪いによって破滅の道を辿り、長くは生きられないと言われていたが、公爵は自分と契約しなかったにも関わらず、早くに死んでしまった。
どのみち、何を選んでも公爵は死んでしまう運命だったのか、はなからそう神に定められた宿命だったのか。そう考えると人間の命がいかに儚く、人生がいかに馬鹿らしいか思い知らされる。
公爵は自分と契約を結ばなかったし、自分の所有者にもならなかった。自分の所有者でない人間がどうなろうが別にどうでも良かったし、たとえ所有者であったとしても、魔剣と契約している以上、いずれ無惨な死に方をすることは確定しているのだから、いつどこでどのように死のうが、別に何とも思わなかった。
だから、誰かの死で心が痛んだのは、レイチスにとって、公爵が初めてであった。
それは公爵が自分を魔剣として必要としなかった、最初の人間だからなのか、それとも、自分が人間に生まれ変わり人間の心を持ったからなのか、あるいはその両方なのかは分からない。
とにかく、それから更に五年の月日が経ち、レイチスは現在十一歳となっていた。
六歳の時に公爵と死別して、それから二年、屋敷のヘルヴレイク夫人や召使いたちに育てられ、八歳の時に王都の魔術学園へと入学した、はずだったのだが……。
寝ぼけ眼で、夢で見た古い記憶の中の風景と余韻に浸っていると、隣から穏やかな声音で声をかけられる。
「レイチス、もうすぐ学園へ着くよ。憂鬱かもしれないけど、三年前のことは一旦忘れて、気を取り直していこう、ね?」
隣に座る義理の兄クレンテは、そう言ってレイチスの金の髪をさらりと撫でる。
あの親あってこの息子と言われれば納得だが、血は水よりも濃いとは然る事ながら、クレンテは父の公爵より更に何倍も義弟のレイチスに甘かった。
「いやいや、忘れてもらっては困るだろう。私がどれだけ苦労して学園長を説得したと思ってるんだ?シャアルの息子じゃなかったら、問答無用で退学処分だ。私のコネクションと父の名誉に感謝するんだな」
シャアルとは、ヘルヴレイク公爵の名である。
ノルドスは全くという顔でレイチスの顔を見ているが、三年前のことを未だ根に持っているのだろう。
しかし、それもまあ致し方ないことで、三年前、つまり王都の魔術学園初等科へ入学した年、その初日に、レイチスは学園内で禁止されている魔術を使った私闘を行ったのだ。しかも、相手は王族、エルトゥア王国現国王の息子、第二王子シェヴァルト・エルトゥアだったのだから、これはもう学園中を揺るがすような大事件であった。
実際、レイチスもシェヴァルトも重大な怪我はなく軽傷で済んだのだが、子供がしたこととはいえ、事と次第によっては謀反罪にも問われかねない事件で、伯父であるノルドスの尽力が無ければ三年の休学程度では許されなかったことだろう。
実のところ、貴族とはいえ一介の伯爵兼医師に過ぎないノルドスが、どうやって学園長やその他の権力者を納得させたのかは謎であるが、王城側からの追及も特になかったため、この件はレイチスの休学をもって不問となり、レイチスはまた中等科からの復学を許され、今に至るのである。
「そうは言っても伯父さん、レイチスはまだ幼かったんだし、それに魔剣っていう特殊な記憶を背負っているんだからさ。人より大変なこともあるよ」
「だからってよりによって、第二王子と私闘することないだろ……。私だってそりゃ若い頃は私闘の一つや二つしたもんだが、王族と剣を交えたことは流石に今のところ人生で一度もないぞ」
「それは、レイチスにも色々事情があったんだよ、……たぶん」
なぜ、レイチスが入学初日早々、第二王子と私闘をする羽目になったのかは、クレンテもノルドスも知らない所であった。何となく、言い争いの末、というのは伝え聞いてはいたが、当の本人のレイチスが詳しく話そうとしなかったし、クレンテもノルドスも無理に詳細を問いただそうとはしなかった。
「どんな事情であれ、もう二度と王子絡みで面倒事を起こすなよ。おい、聞いてるのか?レイチス」
「聞こえてるって。心配しなくても、もう厄介事は起こさないさ。たぶん」
「たぶん?……さては、あんまり反省してないな?お前」
「まあまあ……」
呆れ顔のノルドスとそれを宥めるクレンテ、何食わぬ顔でぼーっと窓を眺めるレイチス。
窓の外に遠く映るのは、約三年ぶり見る、活気のある城下町と、美しく荘厳な王都の学園都市。そしてその頂上に聳え立つ、王立魔術学園エルヴィアであった。