生涯愛すると誓った妻との、優雅な余生の過ごし方
風が吹き、金木犀の香りを運んでくる秋の昼頃。エメルブルク家の庭には穏やかな時間が流れていた。
「貴方と一緒にお話するのは、なぜだか心地が良いのよね」
白髪交じりの柔らかい金髪を緩くまとめて、淡い紫の瞳を伏せた老齢の女性は呟くようにそう言った。彼女の名前はアマンダ・エメルブルク。私の愛しいたった一人の妻だ。
「この紅茶もとても美味しい。わたくしの好みを熟知しているみたい」
「そりゃあ、君は私の一番の女性だからね」
「あら、おかしなことを言うのね。まるで恋人への言葉のようだわ」
妻は優雅さを保ったままコロコロと表情を変えて笑う。その姿に少女であった過去の彼女が重なり、寂しさが薄く胸に広がる。
妻はここ五年近くで認知症を発症している。
最初は庭に植えた大好きな花の名前を忘れたり、使用人に頼んだ買い物のことを忘れたりと、単に些細な物忘れだった。けれど、最近では私や子供たちの存在を忘れ、あまつさえ自分自身のことも忘れてしまうことがある。
時々思い出したかのように思い出の品を撫でては、すぐにまた初対面かのように挨拶をしてくるから余計に心が締め付けられる。
生涯かけて愛すると誓ったあの日が遠く感じる。魔法使いの血が混ざっている私を恐れることなく、初心な反応で接してくれた初対面の彼女を思い出す。
あの時出会ったのは、頬を赤らめて上目遣いにこちらをうかがう小麦色の髪をした少女だった。
『あの、御機嫌よう。わたくしはアマンダ・テレスティアと申します』
『クロード・エメルブルクです。よろしくお願いします』
綺麗なカーテシーに応えるように、この庭をエスコートした。綺麗に整えられた豪華な花よりも、道の脇にひっそりと生えている草花を好む変わった少女だったというのを鮮明に覚えている。
『政略結婚ではありますが、私は貴女を好ましく思っております。この身を捧げて貴女を愛することを誓いましょう。どうか、私と添い遂げてはくれませんか?』
『……はい、喜んで。至らぬ点もあるでしょうが、エメルブルクの名に恥じぬ妻になりたいと思います』
緩やかな逢瀬を繰り返すうちに、私たちは互いにゆっくりと惹かれていった。今と同じ場所で、かつては少女が持ち込んだ手製のクッキーと共に紅茶を飲んでいた。
今はクッキーの代わりに本を手にしているが、この世の何処よりも心が落ち着くのは昔と変わらない。
(……こんな穏やかな時間も、もう短いのかもしれないな)
妻はただの人間で、魔法使いである私に比べて寿命も短い。その事実に時折胸が締め付けられそうになるくらいに辛くなる。
私の姿は今だ彼女と出会った頃と変わらない。黒い髪も、青い目も、皺のない手も、何もかもが妻とは違う。私の血を引いた子供たちも、魔力の強さに違いはあれど、その成長は妻と比べてゆったりとしている。
魔法使いの一生は長い。中には人間の十倍近く生きる者もいる。私はそれほど魔力を多く持たないので、それよりは早く命を終えるだろう。けれど、その時間はやはり人間よりも遥かに長い。どうしたって私は妻と同じ時間を生きられないのだ。その事実がただただ悲しい。
思わずぽつりと弱音が溢れる。
「私も、君と同じだったら良かったのにな」
「何を言っているの。こんな老いぼれよりも、その若々しい姿のほうが余程素敵でしょうに」
「見た目の問題じゃない」
妻はいつだって飄々と私の言葉を躱してしまう。私が胸に抱える寂しさも、妻を亡くしてからの人生のほうが長いという不安も、きっと伝わっていない。これから先も、私の本意は彼女に伝わらないままなのだろう。
(それでも良い。流れる時間も、感じ方も、覚えていることも何もかもが違っても良い。ただ、願わくば少しでも長く同じ景色を見ていたい)
難しいことだとは分かっていても、愚鈍にもそう願ってしまう自分がいる。私は小さく苦笑して、読みかけの本を閉じて老女と手を重ねた。私とは違うしわくちゃな手だ。
彼女はそれを見て、仕方がないといったように、さらに私の手の上にもう一方の手を重ねた。
「随分と甘えたなお客さんね。こんな老婆相手でも人肌恋しいのかしら」
目に皺を寄せてキュッと笑う表情は、いつまでたっても変わらない。愛しい笑顔だ。
貴女だから触れたいんだよ。と、そう言いたかったけれど、どうしてか言葉は喉に張り付いて出てきてくれなかった。
日は変わって、私たちは街に出かけた。妻の労力を考えると今日が最後の外出になるかもしれない。
「見て、綺麗な花ね。主人が喜びそう」
「……あぁ、確かにそうだな」
妻から出た『主人』という言葉に、一瞬息が詰まる。彼女はこうして時々家族の存在を思い出す。けれどそれがどんな姿をした人物で、どこにいるかまでは不透明なようだ。
過去にその言葉を聞いたとき、思い出してくれたことが嬉しくて抱きついたことが一度あった。けれど妻はきょとんとした顔をして、「いきなりどうしたの?」と何も分かっていない顔で聞いてきた。
その経験から、今ではあまり反応しないようにしている。自分が主人なのだと伝えて、結局また駄目だったら。今度は拒絶されたら。そう考えると怖くなってしまった。
妻が指差したのはガーベラだった。それは私が婚約者期間によく送った花の一つだった。初めは一本、次は三本、段々と数を増やし、結婚式では百本の花束を渡した。
(もしかして、覚えてくれているのだろうか)
そうだったら嬉しい。そんな想いを込めて、妻の隣で密かにフッと力を抜いて笑った。
妻が好きだったブティックに寄る。二人で初めて街で逢引きした時に見つけて、私は妻に紫翡翠が施されたネックレスを贈った。
いつからか着けなくなってしまったけれど、大切にしてくれていたのを知っている。
「あら、綺麗なサファイアだわ。貴方の瞳にそっくり」
楽しそうに笑顔を浮かべながら、彼女はゆったりとした手つきで私にボロタイを見せてきた。丸く切り出された宝石を愛しそうに眺めている。
「そちらの品はこちらの髪飾りと対になっているんですよ。お母様にもよくお似合いになるでしょう」
店員がさり気なくそう告げる。取り出された髪飾りは、花を象ったバレッタだった。妻はそれを眺めて、楽しげに店員と話し始める。
私は邪魔にならないよう、静かに向かいの棚に移動した。
(お母様、か。周りから見れば、私たちは親子に見えるのだろうな)
何気ない店員の一言が心に深く突き刺さる。外聞を気にしてしまえば、もう外でも恋人らしい触れ合いはできないのだなと実感した。
店員に見送られながら店を出て、すぐ近くのカフェに入った。ここもよく街に出た時には行く店だった。
窓際の席に座り、私は珈琲を、妻は紅茶とシフォンケーキを注文した。
昼が過ぎて少し遅い時間だからか、店内は人気が少なく落ち着いている。
「雰囲気の良いお店ね。それになんだか懐かしい気もして不思議だわ」
「気に入ってくれた?」
「えぇ、もちろん。ありがとう」
窓の外の景色を眺めながら、運ばれてきた紅茶を口に運んで一息つく。私も珈琲を一口飲んで、そんな彼女の姿をジッと見つめた。
私と話をするとき、妻は今誰と話しているんだろうか、と思うことがある。家族にしては離れていて、他人にしては近すぎる。そんな距離感で重ねられる会話は、心地は良いのにどこか落ち着かない。
(もう、潮時なのかもしれないな)
妻の老い先は短い。もうまもなく命の灯火は消えてしまうだろう。今日はこうして外に出ているが、最近ではベッドに寝たきりの日も多くなってきた。
「……美味しいな」
「美味しいわね」
何気ない会話にも、涙が零れそうになる。それを隠すように、私もそっと窓の外を見た。
それから一週間後、妻は穏やかな顔で眠りについた。私は隣でジッと手を握りながら、その姿を見ていた。
「父上、神父様が着きました」
妻の寝室の扉が開き、息子のアルノーが顔を出してそう告げる。私は力なく返事をして、扉が閉まる音を聞いた。
「……君は酷い女性だ。私を置いて逝ってしまうなんて」
辛い。憎い。寂しい。愛しい。どれにも当てはまるようで当てはまらない複雑な感情に蓋をして、そっと額に口付けをした。
ふと、枕の横に置いた手の指先が何かに触れる。不思議に思って見てみると、枕の下に本のようなものが一冊置かれていた。
「なんだ?」
妻を動かさないように取り出して、パラパラとめくってみるとそれが妻の日記だということが分かった。
『◯月☓日 今日はクロードと喧嘩をした。ティーカップの色なんて今思えば些細なことね。でも、明日はあの人が好きな珈琲を入れてクッキーを焼きましょう。』
『△月☓日 今日は夫がおすすめの本を読んでみた。面白くて読む手がとまらなくて、また侍女に怒られてしまったわ。クロードはいつもわたくしの好みを熟知しているのよね。不思議だわ。わたくしもいつかクロードをアッと言わせてみたい。』
『☓月◇日 今日は一段と冷え込んだわ。庭に植えた花たちの様子を見たけれど、どれも元気そうで良かった。春になったらあの人が好きなガーベラを植えて、庭でお茶会をしましょう。』
何気ない日常だった。でもそこにはいつも私が書かれている。柔らかくて流れるような文字を追って捲る手が止まらない。
『◯月△日 主治医から認知症だと診断された。魔法でも医術でも治すことのできない不治の病らしい。最近、物忘れが酷くなってきたのもこれのせいなのね。もしかしたら、そのうち夫のことも忘れてしまうかもしれない。怖い。』
『☓月 夫がくれたネックレスの鎖が切れてしまった。大切にしていたけれど、いつの間にか劣化してしまっていたのね。ずっとずっと大切なお守りだわ。これも引き出しにしまっておきましょう。』
『今日は素敵な人とお茶会をした。ガーベラが綺麗に咲いた庭で、香りのいい紅茶を飲んだわ。日記を見返すと懐かしい気もするけれど、時々思い出せないことが増えてきたように思うの。素敵な人は、あの人に似た良い人だった。また来てくれたらうれしいわ。』
『今日は、街に出た。花も宝石も紅茶も素敵。どこか懐かしくて、寂しくなる。涙が出そうになる。』
ポタリと、日記に水滴が落ちる。ポタリ、ポタリとそれは段々と増えていって、段々と妻の字が滲んでいく。
「愛している」
喉から絞り出してようやく出た声だった。
日記をパタンと閉じて、ベッドの隣にあるチェストの引き出しを開ける。そこには一本の枯れたガーベラと、鎖の切れたネックレス。それから、折りたたまれた紙があった。
私はその紙を取り出して、丁寧に開く。
『クロードへ
わたくしの人生はもう長くないようだから、こうして死んでしまう前に気持ちを書き留めておくことにしました。きっと貴方は先に日記を見つけるでしょうね。でもまだ見つけていないなら、恥ずかしいから読まないでちょうだい。
さて、まずは小言から。貴方が魔法使いだからというのは分かるけれど、少しくらい老けてみなさいよ。わたくしが老いぼれていくのに、貴方は全くもって若い頃のまま。ずるいわ。まさかレディファーストなんて言わないでしょうね。それから、たまには一緒に料理をしなさい。下手だからなんて言って、全て料理人に任せてしまうのは駄目よ。わたくしが生きている間に、しっかりと家庭の味というものを覚えてもらいますから。そして、子供たちにも時々振る舞ってあげて。あの子たちも貴方と一緒で長い人生を歩むようですから、少しでも家族の思い出を増やしてあげて欲しいわ。
次にこれはちょっとした愚痴。できればもっと貴方と一緒にいたかった。認知症だなんて酷ね。いつか忘れてしまうかもしれない恐怖は、きっと貴方には分からないでしょうけど、本当に辛いものよ。忘れられるのは怖いとよく聞くけれど、大切な事を忘れるのはもっと怖い。貴方が劇的に魔法が上手な魔法使いになって、治してくれたらどんなに嬉しいかしらね。でも高望みは止めておくわ。だって貴方、わたくしがそう言ったらきっとご自分を責めるでしょう? それだけは嫌。わたくし、後悔よりも前向きな言葉のほうが好きですもの。
最後に、愛してるわクロード。これからもずっとずっとずっと。だから貴方もわたくしをずっと愛したままでいて。忘れないで。浮気なんて駄目よ。そんなことしたら、貴方が死んでわたくしのもとに来た時にしょっぴいてやるんだから。でも、そうね。三回ビンタして、貴方が紅茶とクッキーを作って、紫翡翠のネックレスを手にガーベラの花束を持ってきて、それでわたくしの気が晴れたら許してあげる。そしたら一緒にまた本を読みましょう。もう一度、ずっとずっと愛してるわ。今までもこれからも、大好きよ。貴方の愛しの妻より』
手紙を読んでいるうちに、いつの間にか笑顔が溢れていた。愛しい、それだけが胸に広がる。
もう一度安らかに眠る妻の額にキスをする。今度は軽く、慈しみを込めて。
(……そうだ、クッキーを焼こう)
きっと、妻も喜ぶだろう。そう思ってベッドから立ち上がる。
(この寂しさは何にも埋められないけれど、いつか私が君の元へ行くまで大切に抱えていよう。そして今度こそ、君の隣でずっと同じ景色を見ることにするよ。それまで待っていてくれよ、愛しのアマンダ)
私はそっと、妻が眠る寝室の扉を閉めた。