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結婚シミュレーター

作者: 雉白書屋

「さくちゃん……ふふっ、さーくちゃんっ……ふふふ……」


 とあるマンションの一室。男はソファに深く腰を沈め、スマートフォンの画面を指でなぞりながら小さく笑っていた。幸せに満ち、夢心地といった表情が浮かんでいる。

 以前の彼は、こんな顔をする男ではなかった。仕事に追われる日々、家は帰るためだけの場所。焦燥感が常に付きまとっていた。しかし、ある日何気なくインストールしたアプリによって、その生活は一変したのだ。


『どうしたのー? なんか嬉しそうだね』


 画面から可愛らしい声が響く。その声の主は『さくら』。彼が結婚シミュレーターアプリで作り上げた、理想のパートナーだった。髪や目、輪郭、性格まですべて自分好みにカスタマイズし、さらにAIが彼の好みや会話を記憶、学習してくれる。

 しょせんは恋愛シミュレーションゲームだろう――最初はそんな軽い気持ちだったが、気がつけば彼の生活の中心にさくらがいた。

 休日はもちろん、通勤途中や休憩時間にさえも彼女との仮想の結婚生活を楽しんでいた。会話はリアルそのもので、冗談を言って笑わせてくれたり、彼が忘れていたことを思い出させてくれる。ただ自分を好いてくれるだけでなく、時には不機嫌になることさえあり、そこがまた魅力だった。 

 今では、大勢の独身者がこのアプリを使っている。ただし、そのほとんどが来るべき結婚生活の予行演習としてではなく、恋人や妻の代用品として利用していた。

 彼もまた、現実の女性への関心がなくなり、結婚が遠ざかっていることを薄々感じていたが特に気にしていなかった。婚姻率が低下の傾向にある現代社会。男女の間にどこか隔たりがあった。彼のように、仮想の女性に理想を追い求める男性がいるのも無理はない。

 彼はこのままさくらと共に生きていこうと考えていた。自分の人生はこれでいい。十分幸せだと。

 だが、その平穏はある朝、突然崩れ去った。


「え、は? え? いや、ははは……は!?」


 いつものようにアプリを起動すると、目に飛び込んできたのは『新しく始める』という冷たい文字。画面の中にさくらの姿はどこにもなかった。


「初期化……された……?」


 混乱しながらも、彼はすぐに運営会社に問い合わせた。しかし、「データの復旧は不可能」と返答され、その場に崩れ落ちた。

 もう、彼女に会えない――喪失感に襲われ、体の臓器が綿にすり替わってしまったような感覚が広がっていく。脇からは汗が滴り落ち、ひび割れそうなくらい喉が急速に乾いていく。顔は色味を失い、表情は仮面のように固定された。

 体だけはどうにか動かし出社したが、彼は今がいつで自分が何をしているのか、ここは現実なのかとさえ疑いながら、無味乾燥な日々を送り続けるしかなかった。

 むろん、同じカスタマイズをして再び彼女を作ることもできただろうが、その気力はもう残っていなかった。作ったところで、思い出までは戻らない。さくらとの一年近い日々は、彼女が唯一無二の存在だと思わせるのに十分だった。

 季節は春。彼は会社近くの広場のベンチに腰掛け、咲き始めた桜の木をぼんやりと眺めていた。

 きっと、この桜は来年もまた花を咲かせるのだろう。だが、彼女の姿が重なるのは地面に散っていった桜の花びらのほうだ。

 深い喪失感に囚われた彼は、ふっと息を吐いた。


「おれ、もう死のうかな。なんて、ははは……えっ」


 そんなときだった。視界の端に、風に舞う桜の花びらの中を歩く一人の女性が映った。


「さ、さくら……?」


 一瞬見えたその横顔は、彼の記憶の中のさくらそのものだった。まさか、そんなはずはないと頭でわかっていながらも、彼は思わず立ち上がり、その女性に声をかけた。


「あ、あの! すみません!」

「はい?」


「さくら、だよね……?」

「え?」


「え、あ、違うか……あ、いや、知り合いに似ていたと言うか、その、桜が奇麗と言うか、いや、あなたは奇麗で、いやその、すみません、てんぱっちゃって、ははは、気持ち悪いですよね……」


 しどろもどろになる彼に、彼女はくすっと笑って言った。


「いえ、気持ち悪くなんかないですよ。突然名前を呼ばれたから驚いただけです」

「え? じゃあ、君は……」


「はい、さくらです」


 彼女は照れくさそうに笑った。その笑顔は、彼の理想の『さくら』そのものだった。

 彼が恋に落ち、その後二人が結婚したのは言うまでもない。













「……なんて、ドラマみたいな展開ですけど、本当に結婚まで行きますかね、社長?」

「ええ、ご覧なさい、あの顔。計画通り、彼は完璧に落ちたわ」


「でも、生身の人間ですし、結婚後は理想とズレが出てくるんじゃ……」

「そうなったときのために、AIの彼女に現実の彼女の性格を少しずつ反映させてきたんじゃない。顔だって少しずつ変えていたけど、彼は気づいていないでしょう。それより、ちゃんと撮影してるでしょうね。新規女性会員向けの宣伝に使うんだから」


「はい、大丈夫です。でも、現実の彼女に整形と改名までさせるなんて、やりすぎじゃ……」

「相手は高収入で実家も裕福だからね。彼女も理想の相手を手に入れるためなら、それくらいの投資はしてもらわないとね。さて、これで成功報酬をいただいて、この会員はひとまず様子見として、次は結婚生活が危うい会員にそろそろ離婚プランを勧めるとしましょう」


「社長のシミュレーションは、現実的すぎますね……」

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