花の盛りは過ぎたからと、離縁された元王妃の幸福な末路
「喜べ、アイリーン。俺はお前と離縁してやる」
ネクタイを結んでいるとき頭上から突然言われ、私はついと顔を上げる。
そこには真っ直ぐ前を見て、私に視線を向ける気すらない夫の顔があった。
「花の盛りは過ぎたからな。お前が欲しかったのはただ、血筋と顔のいい子が欲しかっただけだ」
セイモス王国第102代国王、トマス・セイモス。
身分は大層だけれど、こうして身支度をしている姿は、ただの一人の50手前の男だ。
姿見に映る私もまた、彼とともに年齢を重ねて40を超えた。
長男は20歳になり一端の大人として、公務に奔走し、婚約者との関係も良好。
下の娘はすっかり祖母である姑に懐いていて、学もない母を見下してすらいる。
母体として、母性を供給する役目として、私は必要無くなった。
「花の盛り、ですか」
確かに黒髪には少なくない数の白髪が交じるようになり、皆から褒められた緑の瞳も鮮やかさを失った自覚がある。
夫が懇意にする女性政治家を思い出す。
新進気鋭、肌のはち切れるようなうら若い彼女は大臣の娘だ。
おそらく彼女を後妻にするのだろう。
「わかりました」
私の返答に、夫はふっと笑う。
「お前も随分とものわかりが良くなったな。あの時は泣き叫んで、手がつけられなかったというのに」
じゃじゃ馬を俺が慣らしてやった、そんな男の自負が滲み出る言葉だった。
◇◇◇
私の肩書きはアイリーン・エルダーフラウ・セイモス王妃から、アイリーン・エルダーフラウ王国王姉へと変化した。
数十年ぶりの祖国は、のどかな景色が広がる相変わらずの小国だった。
結婚の時こそ国交の道具として丁重に扱われた私だが、出戻りは呆気ないほど静かだった。平民の女の出戻りの方が、よほど騒がれるのではないだろうか。
故郷はすでに弟が髭を生やした立派な国王として君臨していて、社会に染まった弟は私を一介の使い終わった道具として扱った。
年老いた出戻りの姉は手切れ金も持っているので、その範囲なら自由にしていていいという扱いだ。
私は王城の離れに位置する離宮に住むことになった。
数年前没した大叔母が住んでいた城で、庭の東屋のように慎ましやかな、生活に最低限事足りればいいだろう、という場所だ。
利用価値がなくなるというのは寂しいと同時に自由だ。
若い頃あれだけ欲しかった自由が、今は呆気ない。
よく晴れた庭を、楽なワンピースで巡る。
護衛もほとんどつかなければ、使用人も腫れ物のように扱ってくる。
私は誰にも見られない場所で、そっと指先から魔法を出した。
虹が空に広がり、心地よい霧が頬を潤す。
私は目を細めた。
「ああ、今の私も魔法が使えるのね」
その時、木の上から声がかかった。
「今も水の扱いは上手だね、アイリーン」
木漏れ日を浴びて長い金髪とローブを靡かせ、澄んだ青い瞳をこちらに向ける彼。一瞬、意識が娘時代と混同する。けれどすぐに我にかえり、私は挨拶をした。
「あなたはいつまでも変わりませんね、魔術師様」
「魔術師だからね」
木から降りてきた彼は、まるで昨日ぶりのような態度だ。
こちらが何を言っても落ち着き払った、その態度が若い頃の私は許せなかった。
◇◇◇
――20年以上前。
私は自立精神溢れる若い娘で、つまらない結婚から逃げて魔術師か、魔術使いで身を立てる気で満々だった。
魔術使いとは、人間の身のまま魔術を使う魔術労働者のこと。
魔術師とは不老の力を与えられ、魔術師の理のなかで生きる上位存在のこと。
世界には平民と貴族の上に、全てを観測する魔術師という存在。
目の前の美しい彼は、魔術師なのだ。
魔術師は王族の素質を見定めるため、エルダーフラウ王国に訪れていた。
見える人には見え、見えない人には見えない。それが魔術師という存在。
私は魔術の才能があった。
はしたない、才をひけらかすなと言われて、隣国王太子との将来に夢も期待も持てず、もがいていた。
結婚前夜。私は彼に、魔術師にしてほしい、連れて行ってほしいと懇願した。
彼は首を縦には振ってくれなかった。
「帰りなさい。今君が運命から逃げてしまっては、一生後悔する」
「後悔しないわ。あんな冷淡で女を道具としてしか見ない夫に嫁いだら、私の心は死んでしまう。死ぬくらいなら、あなたに連れて行ってほしい。どうか私を魔術師にして。ちっぽけな人間の世界から、逃がして」
「……だめなんだ。連れていけない」
「どうして」
彼は悲しい顔をして、私の瞼を撫でた。
「今魔術師になるのは運命ではない。それに……君が後悔したとき、僕は何もできないから」
意識が遠くなって、私は気付けば己のベッドで朝を迎えていた。
私は顔を覆って泣いた。泣き腫らした目でウエディングドレスを着て、泣き腫らしたことが嘘のように美しくメイクをされ、姿見の前に立たされた。
明らかに昨日までの自分ではない、「花嫁」になった自分をみた。
微笑めば誰がどう見ても、この国で一番豪華な花嫁だった。
途端に重責を肩に感じた。
私の政略結婚に、このエルダーフラウ王国の未来がかかっている。
大国からは足蹴にされてもおかしくない小国にもかかわらず王太子と結婚できるのは、この国の人々の途方もない交渉や努力のおかげだ。
そして私の残す子供には、両国の未来がかかることになる。
逃げてしまえば、どれほどの人々の運命を、踏み躙ってしまうのか。
それだけの覚悟があるのか。それだけの準備をしてきたか。
私は愚かだと恥じた。魔術師のいう通りだと思った。
世界を観測する魔術師なんかに、ちっぽけな私ではとてもなれない……。
◇◇◇
「あの時はごめん。……苦労したんだってね、あっちで」
――私は我にかえる。
意識が、若い娘時代の思い出に乗っ取られていた。
あの頃と全く同じ姿の彼が、私を見つめて謝っている。
瞳の中に映る私は、すっかり中年になった疲れた女の姿をしていた。
中年女が、眉を下げて笑う。
「終わった話だわ。謝罪もいらない。魔術を教えて。今なら、魔術をならってもぶってくる父も家庭教師もいないから。ね?」
私の言葉に彼は瞠目すると、深くは聞かずに「わかったよ」と頷いてくれた。
私は20数年ぶりに魔術を練習する。
彼に指導されるままに、指を動かし、魔力を練って、風を起こし、水を降らせ、柔らかく揺れる火をおこした。
この人を恨まなかったと言えば、嘘になる。
どんなに覚悟を決めたって、苦しい人生に唯々諾々と従えるほど、人間はできていない。
嫁ぎ先では、小国から嫁いだ不相応の伴侶として冷たい扱いを受け続けた。
夫はただ私の容色と若さが気に入っただけなので、必死で感情を抑えて、機嫌をとりもち、子供をもてるように努力する必要があった。
独立心が強く負けん気の強い私にとって、それは苦しく、恥ずかしく、情けない日々だった。
魔術師になればよかった、無理矢理にでも願えばよかったと何度思ったか。
魔術師にしてくれなかった彼を逆恨みまでしてしまう自分が、惨めで小さくて、苦しかった。
それでも私は生きた。
心を何度も殺して、何度も泣いて。
子供を産み、育て、良き妻良き母、良き王妃として振る舞い続けた。
その結果捨てられても、責任は全て果たしてきた。
晴れ晴れとした気持ちで出戻って、空は青く風は心地よい。
立つ鳥跡を濁さずを体現出来た自分は、好きだ。
私は美しい魔術師の横顔を見る。
今ではすっかり、この人に怒りをぶつける若さも失っていた。
穏やかに、この人から魔術を学んで余生を過ごせればいいと思った。
◇◇◇
――魔術師はこの世の理を知る上位存在。
――人間が魔術を使うことは、分をわきまえない行為。楽をするのは怠惰だ。
嫁ぎ先セイモス王国の信仰する宗教では、このような教義が広まっていた。
エルダーフラウ王国のように魔術使いもいない。
私はもちろん長い間魔術を使っていなかった。
元夫は私が魔術を使えることなど、知らなかっただろう。
だから隣国から招待状を受け、私が息子の結婚式に参列したとき。
祝福としてこっそり魔術で虹を出した時も、元夫は私の仕業だと気付いていなかった。
元夫は祝辞の中で、堂々と笑顔で言った。
「今日この晴れがましい日、晴天の空にかかった見事な虹は、きっと天が祝福してくれたのでしょう」
結婚式のあと、私はいつもの庭で魔術師に指をぐっと立てて成功を告げた。
魔術師は優しい笑顔で「よかったね」と褒めてくれた。
「うふふ、なにが『天が祝福』かしら。母親の祝福ですからね。ちょっと仕返しできた気持ちになったわ」
「君も仕返ししたいって気持ち、まだ残っていたんだね?」
「少しはね。もっと水をぶっかけたり、転ばせたりしようとも思ったのよ?」
「あはは。でもしなかったんだ?」
「息子の結婚式ですからね。良い式にしたいもの。でもそれだけじゃないわ」
「へえ?」
「久しぶりに顔を見たら、なんだかこれでいいなって。こんなつまらない人に、恨みを持つのもばかばかしいなって思っちゃって」
私は久しぶりに見た夫の顔を思い出す。
記憶の中の夫は、威厳に満ちていて美男子で、厳しく凜々しい男だった。
それが実際に他人となって目にした夫は、凡庸なおじさんにしかみえなかったのだ。
一国の国王なのに。あんなに偉そうにしているのに、随分と小さな男に見えた。
一度娶った女一人、幸せにできないたいしたことの無い男。恐るるに足らず、と思ったのだ。
「だからいいの。あの人は私の虹に、ぽかんと大口開けて見とれて、綺麗な虹だったねって言ってればいいの。終わったのよ」
私はふと魔術師を見た。
魔術師は、私を優しい眼差しで見つめていた。
彼は何も言葉にしなかったけれど――なんだかその眼差しは、私を認めてくれたように感じたのだ。
◇◇◇
元夫との再会を経て、私はなんだかつきものが落ちたようになった。
すぐに、私は現国王である弟に相談した。
「私、これから魔術使いを目指してもいいかしら」
「姉さんも丸くなったね」
弟の口調で、現国王陛下は肩をすくめて言った。
「僕の記憶の中にある姉さんは、事後報告しかしなかった」
「大人になったのよ、国王陛下」
「では国王の意見として言わせて貰う。王姉殿下には好きにしてもらいたい」
「ありがとう、愛してるわテディ」
「中年の男にテディはやめて」
「そうね、私たち、もう中年なのよね」
「僕も一緒にしないでくれ。僕はまだ40だ」
私はそれからも魔術の練習を重ねた。
社交界では出戻りなことも、夫がすぐに後妻を迎えたことも広まっている。
腫れ物扱いで放って置かれるのを良いことに、私は魔術師と一緒に魔術の練習をした。
不思議と、昔よりずっと楽に魔術を使いこなせた。
初級教本はあっという間に終わり、中級、上級と、人間が扱える範囲の魔術はどんどん使えるようになっていく。
庭には花が溢れ、ティーポットは空を舞い美しいジャスミンティーをカップに注ぎ、カップは踊るように東屋のテーブルに降りてくる。
一口のみ、魔術師は目を大きくした。
「美味しい。味も成功だ」
「嬉しいわ。他にもほら、折り紙の鳥を飛ばすのも楽しいのよ」
紙ナフキンが空を舞い、鳥に折りたたまれて東屋の天井をくるくると回る。
「どうしてかしら……こんなに、簡単だったなんて」
「君が魔術師に近づいたからだよ」
鳥を手にとまらせ、魔術師が笑う。
私はその美しい姿に、目を向けて微笑んだ。
「……そうね。私は、昔は魔術師にはなれなかったわ、とても」
私は穏やかな気持ちで彼を見た。
今ならわかる。魔術師になれなかった根本的な理由が。心に雑念が多すぎたのだ。
魔術師になりたい、自由になりたい、身分を捨てたい、結婚したくない、怖い。等……。
今の私は随分欲望を捨てた。燃え上がるような思いはもう失ってしまった。
身の丈を知っている。今目の前にある人生を、精一杯楽しく生きようと思っている。
私がそれを理解したからこそ、彼は今、修行に付き合ってくれているのだ。
私は彼を見た。
「あなたはいつでも綺麗ね。ずっと、美しいわ」
「あなたも美しいよ」
「ご冗談。老けたしおしゃれもしなくなったし、ただのおばさんよ」
「そんなことはないよ。……生きていてくれて、よかったと思える美しさだ」
彼の眼差しは、嘘をついていなかった。
眩しそうに私を見ている。
「人として年齢を重ねた人にしか出ないまろやかさだよ。魔術師のまやかしの若さとは違う」
「魔術師様……」
「あの日のあなたも綺麗だったけれど、あの時摘み取らなくて良かった、あなたの人生を」
「まあ、大胆ね」
私はクスクスと笑った。
「あの時の私が聞いたら真っ赤になって倒れていたわ。だって私、貴方の事が男性として好きだったんだもの」
流れに任せて、思い切って言ってしまった。
少し緊張して返事を待っていると、彼はさらりと、当たり前のことのように頷く。
「知っていたし、僕も愛していたよ、君を女性として。そして今も」
「い、今も?」
「うん、今も」
私はあっけにとられた。
「ロマンスをする気はないわよ? もう私、そういう目で貴方を見られないもの。息子より年下のような見た目の人に」
「うん、わかってる。人は年月とともに気持ちも移ろうからね。もちろん、僕はこうして一緒にいられるだけで幸せだよ」
彼は当たり前のように言って、魔術の練習を続けた。
その時こそ私は平然と流すことができたけれど、彼と別れて夜、私はなかなか寝付けなかった。
忘れていた年甲斐もないロマンスを、思い出しそうになって。
「だめよ、私はもう子供も大きいのだし、今更……それに彼はお世辞で言ってくれたのよ」
鏡の中にいる私は、年相応の疲れた顔をした女なのだから。
◇◇◇
若い頃ならばずっと意識したかもしれないけれど、今更だ。
翌日から私たちは昨日の話がなかったかのように、元の関係に戻った。
戻るしかないのだ。私はもう、ロマンスは必要ないのだから。
私は魔術を趣味の手習として、毎日暇さえあれば楽しんだ。
時間も自由もいくらでもある。成果を出さずとも良いし、楽しく技術を伸ばすだけの趣味の活動は、本当に楽しい。
すると意外なことに、同志が少しずつ集まり出した。
社交の場で同じような魔術趣味の貴婦人たちと盛り上がり、彼女たちに押されるまま、魔術サロンを開くことになったのだ。
素人趣味の、営利目的ではないからこそ楽しい輪。
私はそこに身分や普段の派閥を持ち込むことを禁じた。
あくまで趣味として、貴婦人たちがただの「個人」として、魔術を楽しむ場を作りたかったのだ。そしてそういう場が必要な人がいると、私は確信していたから。
出戻りで中年の王姉という立場だからこそ、作れた幸せな場だった。
私はそこで初めて友人ができた。
初めて心から笑って、楽しく過ごせる人ができた。
彼女たちともきっと、若い頃に出会っていたらこうはならなかっただろう。
結婚適齢期、才能、親から求められるもの、嫁ぎ先、諸々。子供のこと。
私たちは日々、考えることではち切れそうだった。
私たちみんな、若くて幼くて、一つ一つに向き合うのに必死で。
全員、ピンヒールを履いた足のように張り詰めていた。
今の私たちはピンヒールを脱ぎかかとの低い靴で、優雅に世渡りする作法を学んだ。ならば次は、裸足で子供のように無邪気に楽しむ場が欲しくなる。
水槽を彩る熱帯魚のように俊敏で鮮やかで細い体は持たずとも、若い頃より落ち着いて、穏やかに水の色に馴染んで、強かに生きていける。
だからこそ、笑い合える関係を築けるようになったのだ。
そんな私を、魔術師は穏やかに見守っていた。
彼の眼差しは、私が若い頃ともずっと変わらない。穏やかな魔術師の目だ。
◇◇◇
数年後。娘の結婚式に、私は参列した。
元夫は相変わらず若い頃と同じだと思い込んだままの強い顔をしていて、隣にはあのときと同じ後妻がいた。
彼女は元夫とは違い、人生の疲れを感じさせる風貌をしていた。
現実に気づいてしまったのだろう――『隣国から嫁いだ王妃の後釜』という重責の重さに。彼女は私を見て勝ち誇った顔をした。そうでもしないと、自分を保てないと顔に書いてあった。
いつか彼女も私と同じ穏やかな境地に至るのだろうか。
それとも隣にいる夫の影響で、常にハイヒールだけを履き続ける人生を送るのだろうか。
私はもう降りてしまったので、わからない。
まだ彼女と二人で穏やかに話せる日はこなさそうだ。
子供たちはすっかり成長して、美しく育っていた。
特に娘は若い頃の私に瓜二つで。
全身からみなぎる若々しさが、私は眩しかった。
元気でよかった。二人はきっと、うまくやれる。
私はそこで魔術で作った花を降らせた。
元夫は相変わらず手品だと思いそれを絶賛した。
しかしどうやら娘は、私が魔術をしたと気づいたらしい。
結婚式後のガーデンパーティーで、花嫁姿の娘が声を潜め、問い詰めてきた。
「お母様は魔術師なのね?」
「ご想像にお任せするわ」
ここで何かを答えてしまえば、娘と息子の未来にも関わる。
私が曖昧に微笑むと、彼女はじっと私の顔を見た。
「……だから、お母様はどんどん若返っているの?」
「え?」
私は頬に思わず触れた。
誰にも指摘されたことはなかったので驚きつつ、私は国に帰ったのちにサロンメンバーに尋ねる。サロンメンバーたちは一様に頷いた。
「王姉殿下はとてもお若くていらっしゃいますわ。容姿について申し上げると、失礼かと思いまして申し上げなかったのですが……」
「きっと生き生きと過ごしていらっしゃるから、心の持ちようがお顔に現れていらっしゃるのね、と思っていたのです」
私は愕然とした。みんな私が若返ったと思っていたのだ。
そういえば最近、白髪を見ていない。離縁後はいつ髪を見てもどこかに白髪を見つけていたのに。
私は部屋に戻り、服をくつろげてウエストを見る。
そこには子供を産んだときにできたしみや肌の傷みがあったはずだ。
けれど腰は若い娘のように細く、しみも傷もなかった。
無理に細いコルセットをしめずとも、私は明らかに――若返った容姿をしていた。
「どういうことなの」
翌日、私はすぐに魔術師に尋ねた。
魔術師は穏やかに私を見て告げる。
「君は『運命』に選ばれてしまったんだ。魔術師に見合う魂を持っていると」
「そんな……」
「嫌だった? 僕ならば、運命に掛け合うこともできるけれど」
「混乱しているだけよ、今は嫌も嬉しいもないの。ただ、驚いてしまって……」
若い頃はずっと魔術師になりたかった。
魔術師になって与えられた人生から逃れたかった。自由になりたかった。
自分に与えられた運命を受け入れて、務めを果たして楽しく生きるようになってから、魔術師の道が開かれても、どう反応すればいいのかわからない。
「ねえ、魔術師様。私お願いがあるの」
「うん、きかせて」
「私の見た目の噂が広まれば、魔術を嫌う隣国で生きる子供たちや孫に影響が及ぶかもしれないわ。だからどうか、老化をさせてくれないかしら」
「老化して見える魔術をかけることだね? 大丈夫だよ、目を閉じて」
魔術師は断りを入れて私に触れる。
頭を撫でるようにされると、初めて彼に会った時を思い出した。
私がまだ幼かった頃。宮廷に現れた彼に、私は一目で恋をしたのだった。
目を開くと、あの時と同じ、木漏れ日に輝く彼の姿があった。
「……ありがとう」
ときめきのようなものを思い出したのは、体が若返ったから、かもしれない。
◇◇◇
10年後、元夫が死んだ。
若手貴族と口論になって、頭の血管に血が上って、殴りかかって階段から転げ落ちたらしい。国王になったのは意外にも娘だった。
「王室典範が変わりまして。兄がとにかく心が弱くて、私がやるしかなくなったのです。父のせいで現在王室の権威は失墜しております。新たな時代を作ったと見せなければ、王室自体が廃止されかねません」
女王となってやってきた彼女は、若い頃の私と元夫、どちらの顔にも似ていた。
心はどちらかというと元夫に似ているのかもしれない。女王としての気品に満ちた顔のどこかに、元夫に似た潔癖さと苛烈さを秘めているように感じた。
彼女は背筋を伸ばし、女王の顔で私を見た。
「本日は折り入ってお願いがあってまいりました。私に魔術について教えていただきたいのです」
意外な言葉だった。
娘の話によると、セイモス王国も時代が変わり、魔術を無視してはいられなくなったらしい。私が嫁いだ数十年前とは違い、今では多くの国が宮廷魔術局を設置し、貴族学校でも魔術科を創設して魔術発展に強く力を入れている。
かつては大国だったセイモス王国も今では国力が落ち、逆に小国だったここエルダーフラウ王国が、魔術立国として急成長を遂げている。
「私も実は……魔術の才能があるらしく」
「まあ」
「今後我が国でも魔術改革を起こしていく流れになっています。……どうか、私にお母様の事をもっと教えてください。魔術についても、これまでのお母様の人生についても」
「もちろんよ」
私の言葉に、彼女はふっと肩の力を抜く。
どうやら緊張していたらしい。娘らしい表情になり、彼女はぽつりと口にした。
「本当の目的は別にありました。お母様と二人で、話してみたかったのです。長い間……ごめんなさい」
深く頭を下げる彼女に私は慌てた。
「頭を上げて。どうしたの、一体」
「……私はお母様が嫌いでした」
真面目な口調で、彼女は思いを吐露する。
「父の顔色を窺い、いつも人形のように無力で、物静かな、耐えるだけの貴方が嫌いでした。苦しかった。私も同じように無力な生き方を強いられているようで、お母様の生き方が怖かった」
「ええ。知っていたわ」
同性で、本来は似た性格だからよくわかる。
娘から内心、ずっと見下されていたことを。
「私は愚かでした。今なら、お母様が何を考えてあのように振る舞っていらっしゃったかわかります。私たち子どもの居場所を守るため、両国の国交のため、ずっと耐えていらっしゃったのだと」
私は首を横に振る。
「買いかぶりすぎよ。結果的にそうなっただけ。今のあなたたちの居場所はあなたたちが作ったの」
「長い間、申し訳ありませんでした」
「わかったから頭を下げるのはよして。あなたは女王陛下でしょう。二人きりとはいえ、私に頭をさげてはなりませんよ」
「……お母様」
頭を上げた彼女の目は赤くなっていた。
私は幼い頃の彼女にするように、頭を覆って抱きしめた。
「私は今幸せよ。貴方が立派に育ってくれて、本当に嬉しい」
「ありがとうございます、お母様……」
「さあ話をしましょう。積もる話はお互いたくさんあるわ」
それから私と娘は、定期的に顔を合わせるようになった。
女王としての公務をこなしながら、仕様のない兄の愚痴を言いながら、育児の悩みを吐露しながら、娘はどんどん趣味の魔術を上達させていった。
両国は魔術に関する学術援助で協力関係を結び、急速にエルダーフラウ王国は力を伸ばしていった。
◇◇◇
それから更に、数十年の時を経た。
――私は車椅子に座って庭にいた。
車椅子を、魔術師がゆっくりと押してくれている。
押して貰わなくても動かせるけれど、私は魔術師に押して貰うのが好きだった。
相変わらず魔術師は美しい。
金髪は長くて輝いていて日の光のようで、抜けるように白い肌も、鮮やかな青い瞳も、今も変わらない。初めて見上げたときと同じ、新鮮なときめきと驚きを与えてくれる。
私は彼に告げた。
「あなたが私に結婚をさせた理由がわかったわ。あなた、ずるい人ね」
「へえ? 何に気付いたの?」
「……私が魔術師になってしまえば、私はこの世界に何も残せない。魔術師になってしまえば子どもは残せませんからね。あなたはそのことを言わなかった。普通の夫婦にはなれなかった、だから逃げたのよ」
「……そうだよ」
今までにはない声のトーンだった。
本音を、ようやく魔術師がかたってくれるのだと思った。
「僕は永遠だ。遠い昔に人としての人生を捨てて、今では誰もかつての僕を覚えていない。君も僕の名前を知らない。魔術師が人間に干渉するときは、名を名乗ってはならないからね。僕たちはあくまで観測者。人間として君の夫には、なれない」
魔術師が私を上から見下ろす。
金髪がカーテンのように広がる。
庭の真ん中で、私と彼は金髪に隔てられた密室にいた。
「君は家族も国民も愛していた。子を持つ未来だって夢見ていた。命の輝きが眩しかった。そんな君に……僕についてくれば全てから切り離されると、伝えるのが怖かった。『それでもいい』と君が言ってしまえば、僕は君を攫ってしまいそうだった。その後に君が……後悔してしまったら、魔術師になりたくなかったと言ったら、僕は壊れそうだった。怖かったんだ、僕は」
魔術師の笑顔の仮面が剝がれる。
ああ、この人はただの男の人だ。悩んで苦しんで、それでも女の前で強く振る舞いたがる、ただの男だ。
穏やかな笑顔以外の彼も、いじらしくて美しかった。
「あなたは……万能で、何もかも見通している魔術師様なんかじゃなかったのね」
「そうだよ。君を攫うことすらできずに、苦しい結婚に向かうと分かっていて送り出した弱い男だ」
「送り出してくれてありがとう。おかげで息子と娘と出会えたわ。あの苦労があったからこそ、私は出戻って幸せになれたし、お友達もたくさんできた。元夫にちょっとした復讐もできたわ。あなただってようやく、私に泣いてくれるようになった」
「泣いてないよ」
「泣いているわ。ほら」
つるりとした細い指で、私は左手で彼の頬を撫でる。
彼は私の手を掴み、すっかり結婚指輪の跡もなくなった薬指に口づけた。
「今更だけど、君の願いはまだ有効かい?」
「そうね、そろそろかしら。新しい人生には今がぴったりかも」
「……愛してる」
私は車椅子から立ち上がる。長い黒髪が椅子の背を優しく撫でる。
腰を抱かれ、広い胸に頬を預け、私は『魔術師』の運命を受け入れた。
「アイリーン。君にやっと教えてあげられる。僕の名前はね――」
◇◇◇
セイモス王国第102代国王トマス・セイモスの王妃にして第103代国王エリカトーレ・セイモスの母、アイリーン・エルダーフラウ王姉殿下の葬儀は盛大なものとなった。
小国だった頃のエルダーフラウ王国とセイモス王国の縁を取り結び、両国間に一度の争いも起きなかったのは、彼女の穏やかで忍耐強い王妃として王姉としての働きがあったからと、平民も貴族も皆絶賛した。
女王エリカトーレ・セイモスは彼女を埋葬する際、公の場で初めて魔術を披露した。
堂々と掲げられた王錫と、舞い散る花吹雪の美しさは、両国の新たな歴史を人々に知らしめるものとなった。
それは亡き母アイリーン王姉殿下の得意とする魔術でもあった。
アイリーンは生涯愛した庭園の真ん中で眠るように息を引き取ったという。
「お母様の魂が、どうか幸福な運命に導かれたことを願います」
庭の木々の木漏れ日をみながら、そこに母がいるかのように、エリカトーレは口にした。
アイリーンの花の盛りは、これから永遠に続く。
ヒーローの名前が最後まで出てきませんが、ヒーローの名前はエイミルです。
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