第117話
「ダメぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!!!」
レカドールが心臓を一突きにしようとナイフを突き出し、思わず目を瞑った直後――、紫水の激昂とともにどこからともなく大量の水が流れてきてその激流に飲み込まれた。辺りが水浸しになるとレカドールは部屋の奥に押し流されていく。
室内に溢れた水は渦を巻いていき、瞬く間に下へと排水されていく。水の流れが収まると部屋は机はひっくり返り、ペンや濡れた紙などが床に散らかって、しかも水浸しの状態だ。なぜ急にこんなことになったのか。排水されていった水の行く先を辿って気づく。
水を舞台のセットのみたくしかけの如く排水したのはレカドールの踏みつけによって偶然生じたひび割れ。その隙間を通って溢れた水は一気に洗面所の排水口のような役割を果たしたのだ。それがなかったら今頃、この部屋は水でいっぱいになっていたかもしれない。そう考えると奇跡かもしれない。
背後には白い両手を前に出して構える紫水の姿。彼女はここが水で溢れても立っていた。
「紫水!!!!」
「ダメだよ!! おっぱい一突きにするとか絶対ダメ!!」
それは一人の女としてレカドールを軽蔑し、絶対に許せない光る眼差しだった。
「お腹も大切だけど、おっぱいは絶対ダメ! 諒花スタイル良いし、こんなのに台無しにされたらダメ!!」
突如発生した激流の正体。それは紫水が激昂し、感情を高らかに持っているそのチカラで放った大量の水だった。眩い青白い光を放つ紫水から放たれたそれはたちまち激流を起こし、部屋は洪水に見舞われた後のように倒れた机からは大量のペンやホチキスやファイルなどが溢れ出てデタラメに散らばっている。そして当然、部屋中が濡れている。
一方、激流に飲み込まれ、全身を壁にぶつけて壁際で倒れているレカドール。
「やってくれましたね……!」
そっと立ち上がって、足元に落ちていたペンを隅に蹴飛ばし、濡れたスーツの水を高速回転して払うと、水しぶきが辺りに舞う。
「ん? 私の……ない!? なぁい!??」
立ち上がると辺りを唐突に取り乱すレカドール。
「諒花、早く!!」
――――え?
背後から紫水の必死な声。早くとはなんだ、あのトカゲ野郎と戦えということか。
いや、違う。向こうの慌てようを見て気づく。さっきまで向こうの右手に握られていた黒い刃がないのだ。
まごまごした様子で自分の愛刀を求めて辺りをくまなく見渡すトカゲ野郎の立っている壁の奥。
先端がキラリと光った転がっているそれは奴が先程まで使っていたその刃。当の持ち主は死角で気がついていない。
恐らく急に溢れ出た水が目に入って視界が歪んでいるのと夕闇で薄暗い部屋の明るさが絶妙にそれを見えなくしているのだろう────ここは紫水の作戦に従おう。
「まあいい、手が汚れない程度に、私が捻り潰してあげます! 後でさばけば良いこと! たっぷり舐め回してあげますよ、レヘヘヘヘヘヘヘヘ!!」
気を取り直したのか、舌を上にあげ、今にも獲物に跳びかかろうとするファイティングポーズで再び構えるレカドール。
飛んでくる唾液を避けたり、紫水に防いでもらっても、その長い舌によって直前舐められればたちまち動けなくなってしまう。が。
息巻くレカドールを後目に、その横をバク転して素早く通り抜けた。そしてそこに転がっているその黒い刃、影双像の柄に手を伸ばした。
「────!??」
それを握った直後。その刀身から右手、右腕へと伝わってくる、既に自分の体に持っているものとはまた違うチカラ。それを握ったことで二つのチカラが自分の中で交わる。
体がとても軽く感じた。全身に行き渡った溢れ出るその未知のチカラが、元々持っているチカラを強く引き上げてくれる。
武器を手にそれを振り回して戦う柄ではない。だが、これで向こうの影分身を封じられる。あの技をこの武器を取り出すまで使ってこなかったのは、この武器を装備することでチカラを得ていたからだ。
攻撃を当てても攪乱されて避けられることもない。違和感はあるが、これを握って武器は使わず、そのまま戦えばいいこと。悪くないかもしれない──!