第116話
黒いレザースーツに袖を通し、物置き部屋から駆け出した。
着慣れないが、ここまでずっと着てきた制服を台無しにされたのもあったのか、このスーツの性能か、とても体が普段より軽やかに感じ、試しに拳を前に突き出してみたら動きにいつも以上にキレが入っている気がした。
黒髪をなびかせ、胸元のジッパーを少し開けた魅惑的な谷間が強調される。だが首から下が締め付けられたような状態にはならず、むしろ軽やかな感じもする。意を決して再びレカドールがいるドアを思い切り開けた。
「紫水! 大丈夫か!」
開けた先で紫水はファイティングポーズで構えていた。特にダメージを負っている様子はない。一方、対するレカドールの右手にはあのおかしな黒いナイフ、影双像が握られていた。
「諒花! おおー、着替えてきたんだね! コイツ強いよ! 二人で協力しないと勝てないかも!」
「レへへへへ!! よそ見してると怪我しますよ!!」
視線を変えないまま喋る紫水にレカドールは残像に身を纏いながら持っている漆黒の刃を手に飛びかかってくるものの、紫水はちゃんとそれをよく見て一歩引いて避ける。動く度に奴の複数の残像が絶えず描かれ、実体そのものがボヤけて見える。
「そこっ!!」
避けた後の紫水の放った反撃の水弾がレカドールに命中するものの手応えがない。立っているその場で残像を作り、水もすり抜けて床に着弾してその場所を濡らすのみだ。
本物は一体だけ。残りの二重、時に目の錯覚で三重にも見えるそれらはただの幻でしかなく、何もない所を攻撃しているだけにすぎない。
「また避けられた──! おっと!」
影分身によって撹乱し、ナイフで腹部を一突きにしようと迫ってくるが、その挙動は紫水も分かっているようで、後ろにバク転で跳んで避けて、モロに刺さらないようにしていた。紫水は健康的なお腹丸出しでマラソンランナーみたく、非常に軽装な上に上着を着ている。彼女にとってはとても接近戦を仕掛けづらい相手だろう。
が、紫水が身を翻して跳んで着地した時にできたほんの一瞬。紫水の放った目くらましの水を打ち破り、その膠着状態を狙って、レカドールがすかさず突っ込んできたのだ。
「紫水! 危ねえ!」
奴の狙いが分かり、急いで前に出た。前方から襲い来るその光る漆黒の刃を人狼の拳で両手で掴み、それを包み、必死に受け止める。
「ぐっ……!」
――手から食い込んで発生する刃の摩擦によって起こる出血と切り傷。でも大丈夫、異源素を両手に込めた人狼の手だからだ。さすがに元に戻した後は反動で暫く痛いだろうが、生身の手がズタボロの傷だらけになることはない。これまでもあまりやりたくないがいざという時は、受け止めて防いできたこの人狼の手で、この痛みも全て受け止めてみせる。強く念を込めて。でなければただの無謀だ。
「諒花!!!?」
紫水はとても驚いた様子で立ち尽くしている。
「紫水、その格好じゃナイフで刺された時痛えだろ? 大切な妹の綺麗なお腹に傷ついちゃ、翡翠に顔向けできねえだろう? アタシが着替えてる間、よく持ちこたえてくれたな、ありがとう」
生身のお腹を刺されたら、いくら異人の彼女でも死んでしまうかもしれない。そんなことをさせてたまるか。二回、拳を交えた相手だ。
「だったらよ、今度はこの邪魔なナイフを壊すことに体張るのはアタシの役目だぁ!!!!」
「くっそう、離せ!! 私の30万かけて入手した調理道具ですよ!?」
掴まれた愛刀の刃を無理に引き抜こうと引っ張ってくるレカドール。引っ張られる力も強く握る力が入るが、刃の痛みがより増してくる。
正直、刃物の相手はあまり得意ではない。カニ野郎が両手に纏う大バサミなどは例外だが。刃物を持った相手はこれまでは大抵、零がしてくれていたからだ。
だが今はそうもいかない。いくら特別でもナイフはナイフ。影双像なんて大層な名前をつけられてようが、刃さえへし折ればこんなもの。
──だがこの時、必死ですっかり忘れていたことがあった。
「離せこんのおおおおおおおおお!!」
レカドールの口から出ている長い舌。唾液が大量についたネチョネチョしたそれがこちらの首筋と頬をなでたのだ。
「うっ、うわああああああああ!! なんだこれええええええええ!!」
唾液の塊をかけられるのとはまた違う、凍える寒気と気色悪さが、首から胸元、全身へとひた走った。舌で舐められることがこんなにも気持ち悪いなんて思いもしない。全身が麻痺したように体が言うことを効かない。
両腕の力が弱まり、鷲掴みにしていたナイフが人狼の手からスルりと抜かれ、その摩擦により両手から痛みが走る。
「レへへへへへへへ!! お友達を庇ったことを後悔させてあげます!!」
至近距離からレカドールは人狼少女、初月諒花の豊満に膨らむ、胸元を狙ってナイフの先端を突き出した――!