第107話
翡翠に連れて来られた場所は彼女の座る机もある、いわば青山の女王の間。机越しに翡翠は座ると、そこに置いてあるパソコンのモニターを回転させて正面に見せてきた。
「諒花さん、あなたと私にワイルドコブラから脅迫状です」
そこにはこれまで倒した幹部三人の身柄の返還と、既に占領された滝沢組事務所に初月諒花一人で来るようにという要求だった。
「敵はこちらの警戒の隙を突いて、少人数の奇襲部隊で瞬く間に事務所を制圧したようですね」
脅迫状でも表情を変えずに続ける翡翠によると滝沢組事務所は先月19日の騒動での戦いで消耗しており、敵襲に備えて警戒にあたる人員も万全ではなく幾分か不安が拭えないものだった。
石動が不在だったのもそうだが、あの時、構成員の多くがあの変態ピエロ、レーツァンに殺害されたのも相まって。
今もよく覚えている。混沌のチカラを操るあの変態ピエロに掴まれた人間がゼリー状に溶けていったのを。それで多くの構成員がスーツだけを残して溶けてしまった。その様を堂々と見せつけてきたあの愉快そうなピエロの顔が浮かぶ。
「日が沈む前に要求を呑まなければ、この屋敷を攻撃すると通告してきています。なので諒花さんには申し訳ないですが、滝沢組事務所を力づくで奪還してきて欲しいのです」
「そういうことなら分かった! ちょうど体動かしたかったんだ」
翡翠の忠告通り、凄まじい情報量で心の整理する時間が欲しかったのもそうだが、零の正体やその動向が分かっても今は捜索隊による報告待ちと今はどうしようもない情報も多くてモヤモヤとしていた。それを晴らすために少し屋敷の庭で走って空気でも吸ってこようかとも思っていた所だ。
「ありがとうございます。理解が早くて助かります。ここから10分ほどした所に事務所がありますが、その近くまで車でお送りします」
「ところで、ハナには伏せておきたいみたいだな?」
先ほどの花予だけを部屋に残した呼び出し方からしてそんな感じがした。
「事情はこの後、話しておきます。一応、日が暮れるまで約一時間弱という有限ですから。紫水ちゃんも後ろからこっそり同行させるので諒花さんだけに負担は背負わせません」
11月で季節はもう冬が近くなろうとしている。最近は夜になるスピードも早くなってきた。
「紫水がいるのは頼もしいな。そのレカ何とかってどんな奴なんだ?」
脅迫状の差出人にはアレックス・レカドールと丁寧に書かれていた。たぶんアメリカ人だろう。
「催蜴のレカドール。見た目はガリガリのトカゲ人間です」
「トカゲ野郎か。ってことは爬虫類に由来する能力か」
翡翠はここへ来る道中の車内で爬虫類の異人は強力だと語っていた。これまで相手にしてきたのはいずれも虫か鳥だった。
「爬虫類とはいえラルムではないのと、今の諒花さんと紫水ちゃんならば倒せると信じています」
「逆にこの程度には勝てねえとこの先厳しいってことか」
「そういうことです。諒花さんにも紫水ちゃんにも経験を積んで、いざという時は自分で自分を守ってほしいので仕事を振ります」
ワイルドコブラも何をしてくるか分からない。それに渋谷には得体のしれない謎の殺人鬼が暗躍している。翡翠に守ってもらってばかりでは限界がくる。その通りだ。
ここで引き下がっては零も取り戻せない。フォルテシアにも負けて思い知った実力差も埋められない。
「ところでサイエキって異名はなんなんだ?」
これまでの異人は何かしら異名を持っていて、どれもその戦闘力や特徴を表したものだった。催しを表す催と、トカゲを表す蜴。二つの漢字が使われていることを翡翠は説明した上で、
「彼はワイルドコブラ幹部という肩書きとは別に、本業は裏社会の暗い路地でひっそり店を開くバーテンダーです。様々な異人、ヤクザやならず者などが楽しく騒いで酒を酌み交わす場を催す蜥蜴の異人で、戦闘面も含めそれを称賛する意味で催蜴と呼ばれています」
「へえー」
未成年なのでお酒のことは分からない。なんで大人は酔い潰れるまで飲むのかも。その相手をするバーテンダーというのはファミレスのウェイトレスみたいなものなのか?
そういえばコカトリーニョも確か、異名はカイケイだった。無論、レジにいる会計ではない。翡翠によると漢字は怪鶏らしい。あの時の石動との通話での会話を振り返るとその異名の発音の響きと漢字二文字なのがレカドールのものと近い。
要するに相手がトカゲで二刀流ということは分かった。剣ではなく職業的な意味で。
※
ここは滝沢邸から10分の所にある滝沢組事務所。高級住宅街から離れた住宅街にあるそこは二階建ての灰色の建物と敷地内には駐車場もある。
30分前、突如この裏口から伏兵のように現れ、それを仕切るレカドールが瞬く間にたった五人でその五倍の数の組員がいる事務所を制圧した。
銃を放ってきた邪魔者は首や手、胴体をこの自慢の黒い刃でスライス、そのナイフ捌きで高級食材を無駄なく綺麗に切る包丁のように手早く。降伏した組員はロープで縛り、滝沢邸の連絡先を聞き出し、今しがた脅迫状を送りつけた所だ。
料理の如く、制圧という注文に応え、組長室の机の上に座り、赤いスーツ姿に尻から伸びる長く先を巻いた黒く生々しい尻尾が机のデスクライトの明かりによって壁に異形な影を作り出す。その形は特撮の怪獣のようだ。
「レへへへへへへへへ!! 手薄になった所を攻めた甲斐があったというもの」
独特かつ愉快な笑い声が室内に響いた後、抑揚がついた紳士的な口調でアレックス・レカドールは言った。ここまで作戦を展開してきた相談役の指示に従い、大規模な追撃はしなかった。するにしても向こうに追撃が来てることを自覚させるだけにしろと。
今朝、切り込み隊長コカトリーニョを倒し、渋谷のホテルから逃げ出した人狼の彼女。本来なら丸腰で逃げ出した彼女を逃さずに追撃すべきだろう。彼の仇をとるために。
最近、最高幹部であるボス(カヴラ)がどこかから連れてきて、ワイルドコブラの相談役に就任したという手並みが良く、頭もキレてここに来る前の悪名、実績も充分なあの蛸男。
今回の抗争で実質、指揮権を握っている彼はこう進言した。今はただ追跡するだけにしろと。そうすれば向こうは追われている事を自覚しそれに対抗する手に出ると。
それはまるで自分の掌の上で、既にあの女は踊ってると言わんばかりの余裕の指示で、泳がせた結果が今である。
敵は滝沢邸に集まっている。だが滝沢家のお膝元の青山の警備も明らかに人手が足りていなかった。追っ手を警戒しわざと追っ手が来ていると見せかける陽動部隊を送り込むことで敵の人員を車の防衛に割かせ、それにより生じた隙を掻い潜り、たった五人で事務所を制圧、拠点の確保に成功した。
人狼少女と、彼女の母親と思しき女性が屋敷にいる以上、屋敷に敵の侵入はさせたくないはず。そんな心理状態を読み、脅迫状を送りつければ、向こうは要求を呑まずに殴り込んでくるだろう。
大軍でこの事務所に押しかけてくるならば、入れ替わりで単騎で滝沢邸に乗り込んで攻撃を始めれば良いこと。それは読まれているだろうが。
今は、そうしてやってきた彼女をこの手で倒す───それまで舌を長くして待っていれば良い。