第103話
背後から走る激痛。しかし意識が闇の果てに高速で堕ちてゆくよりも前に異源素をたぎらせ抗い、岩石の精神のもと意識を引き戻す。そして二歩ほど跳んで距離をとる。
──背後からの敵の奇襲か?
と思いきや、背後に視線を向けるが誰もいない。正面には不気味な目つきをした黒條零しかいない。では先ほどの後ろからの攻撃は何だったのか……?
「くっ……どうやら、言う通りには従わないようですね」
黒條零は顔色を変えずじっとこちらを見たままだ。右目は黒い眼帯に覆われ、左目だけが睨んでいる。それにしても右手を引っ張り、後ろから攻撃するとは。決して狙撃されたのではない。後ろから殴られた痛覚。いったい、どんな攻撃を使ったのか。
道路を挟んで右手には渋谷ヒンメルブラウタワー。その道路は常に高速で車が走っているのでこの状況をじっくりと見ることはないだろう。とはいえ、ここで戦うことは得策ではない、となると。
辺りを見渡す。すぐそばに建つ6階建てのビルの手すりが見える。そこに向かって高く跳び、3階の壁をバネに再び跳ぶと、黒條零もその後をつけて高く跳び上がって追いかけてくる。この時点で、敵は最初からこちらを叩くために予め待ち伏せしていたともとれるがはたして。
誰もいない、身を乗り上げられる手すりに囲まれた小さなビルの屋上。向かい合った黒條零は二刀の黒剣が握られていた。
――彼女は確か氷を帯びた黒剣の使い手の異人と聞く。他にも氷の塊を発生させて飛ばしてくるという。
やはり監視役だけあって並みの異人以上に鍛え上げられているのか。こちらと同じ稀異人とは聞いてはいないが侮れない。さすが初月諒花が信頼を寄せていた相棒。
零の持つ右手に握られた黒剣の先がしなやかに伸びて、襲いかかってくる。それはただの剣というよりも剣先が得物に跳びかかる蛇のようだ。それを形容する武器の名前が一つ、脳裏に浮かんだ。
「蛇腹剣……?」
黒く伸びて、襲い来るその剣先を掌から発生させた岩石の盾で防ぐと、受け止められたその伸びた剣先はまたもしなやかに戻っていき、再び元の黒剣の形となった。
あの二刀の黒剣は普通の剣に見せかけた蛇腹剣なのか? 通常の斬りかかる剣と見せかけて、蛇のように伸びて得物を切り裂く代物なのか?
だとすると、あの伸びる刀身は脅威だ。氷を帯びた黒剣。まともに触れれば氷漬けにされてしまう。蛇腹剣は鞭と違って、伸びた先にいる相手に斬撃を与える武器だ。斬られでもしたら傷口を氷が冷やし、侵食していくに違いない。
──今度はこちらからだ──!
岩のチカラを帯びたこの体術で一気に制圧を狙うべく、真っ直ぐに伸ばした両手の計十本の指先で切り込んでいく。一見すると敵には指先でただ殴りかかっているように見えるが、指先から腕までを岩の鎧をイメージして纏わせている。
この腕は岩を覆っているも同然。普通に殴られた時よりも倍以上の威力となる。しかもその繰り出す動作に岩の重りは一切かからず、相手からすればただ殴られただけなのに予想以上の痛覚をもたらす。
交差させた黒剣の防御を弾いて崩し、更に怯んだ隙に回し蹴りで体ごと大きく転倒させた。この脚も無論、岩の鎧をイメージして纏わせている。
「グゥアッ!!」
転んだ拍子で断末魔をあげる黒條零。だがその声は女性にしては重たい野太い声だった。気のせいだろうか。黒條零は見た目は少しかかる程度の銀髪に右目を眼帯で覆った少女。人は見た目に反してとはいうが。
倒れ込んだ所を畳み掛けようと次なる攻撃に移ろうとした時――。
「…………!」
突如、黒條零の顔から、突如大きく噴射された黒い水。主の妹、紫水の能力で発生する透き通った美しい水とは対照的に、その放たれた水は真っ黒。執事服も眼鏡も、目の前の視界も、全てを黒に染めるものであった。
氷は元々は水だ。なので彼女が水を操る技の開発に成功しても不思議ではない。だが、この付着したものを染める黒い水はなんだ、放つ理由はなんなのか。
噴射され続ける黒い水のレーザーを真っ黒になりながらも高く跳んで避け、距離をとった位置に着地する。
「これは……墨?」
ここで黒い水の正体が浮かんだ。黒く染まった執事服。真っ白い手袋も黒で染まり全て台無しになっている。水洗いしてももう落ちないだろう。対象を永遠の闇に染める衣服や体に付着したそれは一般的に書道でも使われるあの墨だった。
──しかし、彼女の口からなぜ墨が吐き出されるのか。こんなこともできる異人なのか?
黒條零との距離が開いたが、墨によって濡れた服が動きづらさを生み出す。そう、墨が大量に付着して染みて服が重たくなっている。しかも通常の水と違ってべったり染み付いている。動きがとても鈍くなる。視界がボヤけ、目の前に立つ銀髪の少女の姿が捉えづらくなる。
「そこです!!」
外野から女性の掛け声とともに一本の投げナイフが黒條零に襲いかかるが、それを黒剣で弾き飛ばす。ナイフを投げた当人がすぐ隣に現れた。
「あなたでしたか――」
黒い軍服に帽子、美しく輝く長い金髪。
「石動、彼女を逃がしてはなりません!」
そう言って、必死な様子で現れた顔はよく知っているフォルテシアだった。どうやら彼女も目的は同じようだようだ。
「彼女、いったい何の使い手なのですか?」
一見すると氷の剣術の使い手のようだがよくこの墨といい、明らかにそれだけではない。そもそもここまで氷の技を一切使っていない。代わりがあの蛇腹剣だ。
すると、黒條零は身を翻して、屋上からスルリと落下した。
「彼女は――――」
その瞬間、フォルテシアの口からその正体が明かされ、
「急ぎ捕らえなくては!!」
金髪をなびかせながら全速力でその後を追っていった。
――まさか、生きていた……なぜ……?
すっかり過ぎ去ったものと化した、遠い彼方の記憶が再び蘇る。消息不明で死んだはずと思われた怪人。
化け蛸。かつてそんな異名で叫ばれた存在。
山の手ライン暴走事件、マリンアイランド洪水事件、江の島孤立無援事件、ビッグサイト混乱事件、首都マラソンテロ事件、六本木パーティ会場炎上事件。
そのチカラと頭のずる賢さで数々の悪名を轟かせ、仲間からも恐れられた狡猾かつ残忍な男である。
先ほどの後ろからの奇襲も死角から伸ばした触手。あの蛇腹剣も動きはまさにそれだった──!