#99
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クリスティアナをかばうように後ろへと下がる。服の擦れる音が響く。
二人から照準を外さぬまま、クインシーは口を開いた。
「荒くれな元傭兵など頼まぬとも、今のおまえは昔と変わらない。ただの弱虫キースだな」
まるであの頃の関係を再現しているかのように、兄であるクインシーは横柄に言い放った。
陽の眩しさが傷ついた瞳に堪える。腕の擦過傷など痛みすら感じない。しかし、以前のようには思い通りに動かぬ己の身体が恨めしい。
「もっと早くこうするべきだった。目障りで仕方がない。間に他人を入れればその亡霊に怯えて暮らさねばならない。ならばこの手で直に、おまえらを始末すれば良かったのだ」
……兄様は僕が嫌いなの?……
幼いあの頃、何度かこらえきれずに訊いてしまった愚かな問い。はっきりと言われてもあきらめきれなかった。家族というものを少しは信じてしまっていたのか。
『大嫌いに決まっているだろう?おまえが来てからというもの、母様は笑わない。全部おまえのせいだ』
僕が来てから…。そのときは怯えて訊き返すこともしなかった。ああそうか、母は無理にリチャードがおれをキャリック=アンダーソンの家に引っ張り込んだと思いこんでいた。現実にそうだったのだろう。理由も言わず相談もなく、黙って特別養子として引き取ったワンマンな父。
そのときから、ぎりぎりのバランスであやうく立っていたあの家は壊れた。愛をもらい損ねたのはおれだけじゃない。目の前の兄様もまた、同じように……。
捻れきった縁で結ばれただけの兄妹。同じ家に住んでいただけでは家族とはなれないのか。
今はただ、利害関係で対立するだけの敵同士。その手でとどめを、という想いはおそらく、欲しかった愛情を奪われた積年の恨み。本人は認めようとはしないだろうがな。
おれには何もない。兄も妹も。家族も家庭も。温かな空間も。望む方が…間違っていたのか。
「はん。素人が…」
歪められた嘲笑には、弱虫キースなどではなく「オッド・アイの悪魔」と呼ばれたスナイパーの片鱗。
「な、に?」
クインシーの顔色が変わる。
「銃口がぶれてるぜ。あんた、人なんぞ撃ったこともねえだろう?」
確かに彼の銃口どころか、指先さえもが細かく震えている。先ほどかすめた銃弾は、警告の為の手加減ではなく、初めて向けた人へ発砲だったのか。
ケイは心理的攻撃の手をゆるめることなく、言葉を続けた。
「知ってるか、撃たれた人間がどれだけ苦しんでのたうち回ったあげくに死んでいくかを。血だらけどころか、得体の知れぬ体液を撒き散らし、この世とも思えない断末魔をあげる。あんたにそれが耐えられるか?え?お勉強だけしていれば安穏としていられたエリートさんよ!!」
小汚い口をよくも利けたものだ。ようやく絞り出したクインシーの罵りにも平然と言い返す。
「ああ。おれは手を汚し続けた。そうでもしなきゃ生きてこられなかったからな。自分だけが苦しんだなどと言うなよ?おれは明日の生命の保証もない空間で、何年も何年も生き延びてきたんだ。自分の力だけを頼りにな。確かにいくらお勉強ができてもひもじいことはひもじいだろうよ。だがな、生命がすぐ取られる訳じゃない。おれは!!」
「他人を踏みつけて、人を殺し続けてのうのうと生き延びたと自慢する訳か。弱虫の泣き虫キースは。それで私に反抗しているつもりか」
ケイの目が細められる。それのどこが悪い、と。
「生きる為には文字通りなんでもやった。おれは生きる。何が何でも生き延びてやる。復讐心なんか何もないさ、あの日までは。何の為におれはここにいるのかさえ知らなかったのだから。人を殺めてさえも生きようとしたのは、あの事故が起きたからだ!復讐という言葉が心の奥底に育ち始めるのを、おれには止められなかった。温かな愛情を初めてくれたサラ夫人が、理不尽にも目の前からかっさらわれてからな!!」
ゆっくりとセーフティ・ロックを外す。手慣れてはいないが確実な方法で。理屈屋のクインシーらしいと言えばそうだろう。
腕をしっかりと伸ばし、その延長線上にケイを捉える。
「生きる意味など要らぬ。そもそもおまえが生まれてきたことが間違いだったのだから。私が決着をつけてやるよ、キース。そう考えると少し口惜しいが、おまえを楽にしてやる」
楽に。ああそうだな。すべてをあきらめて死への誘惑に身を委ねてしまえばどれだけ楽か。なぜおれはここまで生への執着を見せていたのだろう。どこで死んでもいい、と言いながら生きることを全力で選び続けた。意志とは真逆の、その若々しくも健全な生命力で。
「お兄様やめて!!」
たまりかねて叫ぶクリスティアナに目も向けず、クインシーは静かにいらえを返す。
「覚えてもいない兄を、無理に呼ぶことはない。私にとっても君はただのAOKIの後継者だ。クリスティアナ・オルブライト=青木嬢。君を妹だなとと思ったことは……ない」
「どうして!?確かに記憶はないわ。私はいつでもオフィリアお母様と一緒だった。本当の母という人の腕の温かさが思い出せない。けれど、だったらなぜ私たちを憎むの?赤の他人であればただの通りすがりでしょう?」
オフィリアおばさまは、君を溺愛していたからな。母から取り上げるかのように。
どう取り繕っても埋まらない、寂しくも哀しい兄妹の会話。
「そこに利害関係があるからだ。君らが私と実質的に血縁関係があるからこそ、生かしておくのが危険なのだ。いつ何どき、リチャード父様の利権を主張し出すかわからないからな。その大切な父様の研究成果は、不条理にも青木善治郎の手で奪われた。私が奪い返して何が悪いのだ」
お兄様にとっては、研究こそがお父様の想い出…なのね。クリスの呟きにクインシーは顔を歪めた。
「私が求めているのはそんなささやかなものではない!コンフィギュアの復興、父の名誉の回復、欧州のひいては世界の自動車業界をリードするのは新生コンフィギュアでなければならない。それが父の遺志。私の思いだ。その為にはキースから情報を奪い返す」
……無駄よ……。
クリスの声の持つ悲痛さに、クインシーでさえ一瞬口をつぐんだ。
「無駄?」
「もうあの情報を持っていたところで、意味などない。すべてはEU諸国に公開し共有する。これがAOKIという会社が選択した決定事項よ」
「無茶だ!!」
クインシーより先に、思わずケイが叫ぶ。今さら、今になってEUに連携を持ちかけるなど、それもどれだけ収益を上げていようともたかが新興企業に過ぎぬAOKIが。
ケイに穏やかな視線を向けてから、クリスティアナは真っ直ぐ長兄を見つめた。それは兄妹という情以外に、企業人として。
「あの研究所襲撃にどんな裏事情があったかなんて、私にはわからない。けれどケイが盗み出してくれたおかげでAOKIは軍と切れることができた。その為に払った代償は…あまりに大きなものだけれど」
言葉に詰まる。ケイの瞳がまたもずきりと痛む。
「目が覚めたのよ。ようやくAOKIの理念を皆が思い出した。私たちは会社を大きくすることが目的ではない。低所得者層にも安全な車を提供する。どれだけバカげていると言われようと、原点に戻ろうと」
「あれだけの企業、それも老舗のコンフィギュアを乗っ取って作った張りぼての会社が、何を綺麗事ばかり…」
長兄の怒りを抑えた声がもれる。
「現実を考えろ、クリス。軍と手を切った途端、こうしてイヴェールは動き出した。すべて潰されると言ったのは決して大げさじゃない!!」
ケイの言葉は自己矛盾。わかってはいる。それでも言わずにはいられない。おれはそんな危険な目にこの娘を遭わす為に、あの襲撃話に乗った訳じゃない!!
「貿易産業省とは話がついているわ。私たちだって何も後ろ盾なく理想論だけを追っている訳じゃない。けれど自動車業界においてもウィンブルドン現象(市場開放により、国内企業が外資系企業に淘汰されてしまう状態)を歓迎などしていない。ならば冷静に考えて英国企業に海外での競争力があるのか。ごめんなさい、ただの学生の戯言と思ってもらっていいわ。ましてや日本人がトップを取るAOKIの言っていい台詞ではないと非難されも仕方がない。それでも!」
軍に頼るくらいなら、EUとの連携を図る、か。それがAOKIの選んだ生き残りの道か。
「台頭著しいアジア諸国と渡り合うには、メンツに関わっている場合ではない。青木の父は日本人ではあるけれど、別に日本からの特別融資を受けているわけでも何でもない。私たちは英国企業であり、欧州の会社であるという自負もある。それに、クインシーお兄様は目を背けているのでしょう?あなたほどの人がこの事実に気づいていないはずがないわ」
クインシーの持つ銃がさらに揺れる。心の動揺を映し出すかのように。
「リチャードお父様の技術は素晴らしいものよ。それはいくら年代が経とうと否定されるものではない。けれど……時代はすでにハイブリッド・カー開発にとどまってなどいない」
「!?」
ケイが息を飲む。ああそうか。この娘は、いやAOKIはその先を見ていたのか。彼女の言葉通り、クインシーが痛いほどわかりつつも見ようとはしなかった現実を。
「ハイブリッド・カーは次世代のつなぎでしかない。時代は確実に、完全な電気自動車や液体窒素燃料自動車などに関心が移っている。それに乗り遅れるわけにはいかないわ。その為の、リチウムイオン電池の搭載量を減らしてコストを抑える戦略をとる国も既に現れている。搭載量を減らすか、今のAOKIが目指す小型化の技術を生かすか。これは英国だけで解決できる問題ではなくなってきている。そうではなくて?」
ハイブリッドにこだわるのは、あくまでも父親の研究対象であったから。本人でさえ気づかぬこだわりを端的に指摘され、クインシーは呼吸を荒げた。
「すべての始まりは、リチャードお父様の開発したリチウム蓄電池の技術であることには変わりない。きちんと公表して正当に評価していただきましょうよ。そして、その技術を継承しているのはクインシーお兄様であることにも違いはない。隠すことなの?軍事転用がすべてなの?そうではないでしょう?私たちは…」
そこまで言いかけたクリスを、ケイは渾身の力で引き寄せ、墓碑の裏へと逃げ込んだ。
銃の扱いについてはずぶの素人であるクインシーが放った銃弾は、エレンの名が刻まれた場所に傷をつけて地に落ちた。
…彼女が守ってくれた…
おおよそケイらしくもない述懐。これ以上クリスティアナに話させていては、クインシーは逆上するだけだろう。それが真実であればあるほど。
それでもわかっていた。ケイには止められるものではないということも。
「私がやってきたものをすべて無駄だと言い切るのか!?」
「無駄ではないわ!!一社では、もっと言えばお兄様一人では無理だということだけ!!」
そんなことをしてみろ、エマーソンが黙ってはいない。食いしばる歯の間からようやく吐き出すクインシーの呪詛。
「そうね。そのエマーソンの娘である私が言うのよ。現実を見ましょうと」
情報を掴んではいなかったのか、クインシーの目が見開かれる。む…すめ…?
「血のつながりが大事なんかじゃない!!一緒に暮らした時間が少なくとも、私たちは確かにキャリック=アンダーソンの両親の元で過ごした。家族とは想い出とは、そういうものではないの!?」
もういい。それ以上何も言うな。ケイが抱きしめる腕に力を込める。おれたちはよく似ている。それは紛れもない事実。DNAがつなぐ科学という得体の知れぬ魔術より、家族という名が持つ呪縛。たとえ血縁関係がどうであろうと、おれたちは兄妹。哀しいほどに……。
「よくできた前期試験のレポートだな、お嬢ちゃん。機は熟した。ここでおまえたち二人が命を落とせば形勢は逆転する。AOKIにそれだけの付加価値が付いているのなら、私が乗り込むのにも張り合いがあるというものだ」
精いっぱいのクインシーの虚勢。ただ…感じるのは確かな殺意。
ケイには自動車産業の展望などわかりはしない。しかし、長兄を生かしておくのが危険なことはイヤと言うほどわかっていた。彼は…彼を動かしているのはエマーソンの論理。その裏には欧州の産業が息を吹き返すなどという視点はない。
彼の目指す、かつての三人の元学生らが目指したものは…恐ろしい「ネメシス」の思想。おそらくクインシーは知らぬ。おのれすらチェス・ピースの一つであることに。
ケイは腹をくくった。
クリスティアナを守り抜くには、丸腰で以前の動きすら取れぬ自分が唯一できる行動と言えば……クインシーと運命をともにすること。
彼女の為に命を落とすのなら悔いはない。断ち切るのだ、兄妹という幻影を。
彼女なら、十分にエマーソンをも追い詰めることができるだろう。庇護されるだけの存在などではない。
クリスティアナこそ、神を気取る傲慢な人間に鉄槌を下す<ネメシスの女神>そのもの。
残された機能を十分に生かし、ケイは飛び出す間合いを計り始めた。実戦経験はダテじゃない。
ああそうだ、おれは楽になりたいのだ。その為の理由を探していたんだ。
この絶望しか残されてはいない現世からの離脱に……。
チャンスは一度きり。銃を奪い、ヤツに撃ち込む。とどめを刺すことは必定。おのれを盾にして。
静寂の中、ケイのカウントダウンが始まる。
trois-トロワ-・deux-デゥー-・un-アン-……zéro-ゼロ-!!
その瞬間、閃光が辺りを走った。
(つづく)
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