#98
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「部長、少し休まれた方が…」
見かねた部下が思わず声を掛ける。それに、大丈夫ですよと無理に微笑み、クインシー・キャリック=アンダーソンは自席へと戻った。
頬にはまだ痛々しいガーゼが貼られたまま。突然起こった爆発は、テロではないかという噂を素早くもみ消すかのように電気系統のトラブルによる事故と発表された。よりによってHV開発部長が電気的な事故で負傷するなどとは。陰口に気づかぬクインシーではない。しかし、ここでは穏やかな仮面を被り続けている彼であった。
胸中はとても穏やかとはほど遠い怒りを抱えてはいたが。
重役室に呼び出されたクインシーは、冷ややかな視線を浴び続けたのだ。
「キャリック=アンダーソン君。確かに君はフェイズド・アレイ・レーダーの小型化に関する技術と、AOKIが決して公表しようとはしない電波障害に関する情報を入手できるということだったがね。軍側もいい加減しびれを切らしていてね」
申し訳ありません、と上層部に謝罪を入れる間もクインシーの心は乱されていた。
足早に外へと出るとすぐさま足のつかぬよう、今時珍しく公衆電話から連絡を入れる。もちろん相手は……デリック・エマーソンへだった。
「キースからの接触はまだないのですか!?これでは約束が違う!」
珍しく感情をあらわにしたクインシーに、エマーソンは静かないらえを返した。
「必ず動き出すことだろう。焦ることはない」
「こちらは待つだけの余裕などないのです!!こうしている間にもAOKIは軍との関係を深め、イヴェールが入り込む余地は全くなくなる」
それはない。
あまりに余裕めいた口調に、逆にクインシーは口をつぐんだ。なぜ彼はこれほどまで落ち着いていられるのだ。キースごとき、生かして置いたのさえ大きなミスだというのに。
「軍とAOKIの線は切れたよ。正確に言えばあの事件のおかげであっさりと見限ったのだ。これは最大の好機と見た方がいいのではないか」
見限った?あれほどの技術を英国軍がみすみす手放すはずがない。クインシーの顔がこわばる。
「君もいよいよ腹をくくり、こちらとの直接的な接触を試みてはいかがかな」
「早急にイヴェールを裏切れ、と。あなたはそう勧めるのですか、私に」
言葉に気をつけた方がいい、どこで聞かれているかわかってものではないからな。半分からかい気味のエマーソンの声。
「それともまさか、イヴェールにはまだ軍へと売り込むだけの技術がない、とでも言うのかい?」
クインシーは拳を握りしめた。私がAOKIの技術陣に能力的に劣るとは思えない。イヴェールの研究環境が悪すぎるのだ。予算も割かず人員もつけず、おのおのの能力にのみ頼り切る。これでは以前のコンフィギュアの二の舞だ。そう……我が父のようにな。
それにしても、AOKIが軍から手を切られたとなれば本気で動き出すことも必要となってくる。
欲しい。ここは本物の情報が。私が動くか。それでなくともフランス軍や情報部は、そろそろイヴェールの異変を疑い出している。ミミの所属するDGSEとフランス国家憲兵隊治安介入部隊との軋轢があってくれてまだ良かった。そうでなければ私は……。
フランスの情報部に相当する組織の複雑さが、クインシーを救っていることは確かだった。英国人である彼が、国の主要企業イヴェールの実質トップになり、さらにその技術を英国の為に利用しようとしていることが明らかになれば、最悪の場合…闇に葬りされることさえ考えられる。
最終目的はイヴェールをAOKIの傘下企業とすること。もちろんその際にはクインシーが乗り込み、コンフィギュアの名を復活させる。EU内にとどまらず、世界的にも最大手の自動車メーカーとして再出発を図る。EUとの連携は視野に入れつつも、あくまでも主導権はこちらが握る。
クインシーの思惑が達成されるには、何としてもここで自社開発の軍事転用可最新技術を売り込んでおく必要があるのだ。
そのための過激とも言えるAOKI側からの情報奪取。エマーソンが動かぬとなれば……。
クインシーは、電話ではらちがあかぬと彼に伝えた。
返答を待ってそっと受話器を置く。喰えぬオヤジだ。恩人には違いないが、私はたかが退役軍人上がりの貿易商にアゴで使われるような男ではない。
彼のオフィスを訪ねるにしてもできるだけ秘密裏に。エマーソンは自宅ももちろん他の事務所も公開したことなどない。
彼は誰も信じない。
あれほど温和そうな風貌をしていながら、一番危険な香りを醸し出している人間。
ならばこちらも信じなどせず、利用し尽くしてやる。
クインシーはもともと裏社会に通じている側ではない。それこそエマーソンが介していたアンディが窓口となり、人を集めていたのだから。彼が使えないのであれば、金で動きそうな元傭兵らを集めさせるか。それでも僅かにできた人脈の中から…キースに嫉妬し憎んでいる多くの元レジィヨン・エトランジェール隊員を。
我が弟は、あれほどの弱虫は、人殺しの才能と敵を作る能力には長けていたと見える。
そこまで考えを進めてから、彼はあることへ気づいてしまった。そうか、今やキースは……。
皮肉めいた笑みを浮かべ、クインシーはプライヴェート用の携帯電話を取り出した。
気づくといつも、ケイはここへと佇むようになっていた。
サラ・ハミルトン夫人の墓碑には一度しか花を手向けたことはない。未だ足を向けることがどうしてもできないのだ。できるとしたら、すべてが終わってから…。
キャリック=アンダーソン家のそれすらも、探そうと思えばすぐに見つかるだろう。しかし彼はそうしなかった。
花を手向け死者を悼む行為は、生きている者の為にある。死者はいつでも静かに口をつぐむばかり。
まるで生き残り苦しみ抜く者たちを守るかのように、花は飾られる。いつしかその花が枯れるとき、生きる者は前を向き始めるのかもや知れぬ。
ケイは黙って小さなブーケを、エレン嬢の墓碑の前に置いた。ラザフォード夫妻の愛娘。あの大惨事の加害者とされた…か弱き生け贄。
どうすることが正しいのか、誰がどう裁かれるべきなのか。そして、それを決めるのは己なのか。
彼は心の中で彼女へと問う。決して物言わぬエレンへと。生前の姿も笑顔も声も知らぬ人。だからこそケイは、彼女の前にだけは花を手向けることができるのだろう。
かさり。
他人の気配があることはとうにわかっていた。そう言えばダリル・カークランド警部ともここで会った。あの頃はこのおれを追い回す敵、今は……。
軽い足音は、女か。母親のイサベラかも知れない。もしくは全くの他人。エレンに祈る為か、ケイを…狙う者か。
意を決して振り向くと、ケイは目を見開いた。ひきつれた右側がずきりと痛む。まるで彼の心を表すかのように。
「……クリスティアナ。なぜ、ここへ」
「時折足を向けているの。どうしてなのか、自分でもよくわからないのだけれど」
彼女はそう言うと、以前のようにひざまずいた。何を祈るのか、組まれた手が白くなるほど。
ケイは彼女を見下ろす。それからおのが瞳と同じ色の空へと視線を移す。あくまでも澄みきった碧。
「……黙って過失を認めてくれ。それが一番被害を最小限に抑えられる」
誰に言うともなしに呟くようなケイの言葉に、クリスティアナも俯いたまま応えた。
「過失はなかったのよ。AOKIの主張は変わらない」
「おれたちは事を起こすことが目的だ。金が欲しいのでも君らを窮地に追い込みたいわけでもない」
すっきりとしたラインのワンピースの裾を払うと、彼女は立ち上がった。
そして今度は真っ直ぐケイを見つめた。そこには、弱々しいかつてのご令嬢の欠片も感じられなかった。
「あの事故、いえ、あの事件についてAOKIに過失はない。ましてエレン嬢にもない。AOKIを陥れる為の妨害行為があった。我々の主張よ」
「バカな!!それを明らかにできるはずがない!!」
大声を抑えるのがやっとだった。無茶だ、相手は……。
「軍からは切られたわ。こちらからも願い下げ。AOKIは軍需企業に成り下がりたくはない。それだけ自社に対する誇りを持っている者だけが今は残っている。だから大丈夫」
「現実を見ろ!!確かにあの技術を渡すわけにはいかなかった。でも正面切って軍と対決できるはずがない!確実に潰されるぞ」
ケイの方が慌てた。小娘の理想論に。自分も十分その気はあったと自覚していたつもりだが、かすみを喰って生きていくわけにはいかないのだ。
しかしクリスティアナは落ち着き払っていた。何かの覚悟を決めたように。
ケイの胸騒ぎは収まらない。なぜだ、こうしたかったのは自分自身ではないのか。自虐的すぎるほどの自問自答。彼女をこう思い込ませたのは……。
「今なら教えてくれないか、クリス。あの研究所の情報を、試作品と軍との関係を君に吹き込んだのは誰だ?確か君はこう言った…」
……情報の入手先については、どうかは今は訊かないで。でも信頼できる人からよ。私がこの世で一番…信頼できる人……
「言えない、決して」
ぽつりと呟く彼女に、追い打ちを掛ける。今は相手を気遣っている余裕がない。
「エマーソン…他にいるのか?」
クリスは首を横に振る。違う、違う!目が堅く瞑られる。
「オフィリア経由のエマーソンからの情報。それ以外考えられるか。はん。よく考えろ、クリス。AOKIが軍から離れて一番得をするのは誰だ?」
得?意外な言葉に、思わずクリスがケイを見やる。
「当初の計画では、いや今も続いているのかも知れないけれど、試作品はクインシーの元へと渡っているはずだった。おれに盗ませて置いて横からかっさらう。情報は完全にもれていた。もれたんじゃない、あれは最初っからそう仕組まれていたんだ」
「ケイ……」
「小型化の技術がクインシー、つまりフランスのイヴェールへと渡ってしまったらどうなる?奴らはそれを元に英国軍へと接触するはずだ」
「フランス軍…ではなくて?」
イヴェールはフランスを代表とする老舗の自動車メーカー。もちろんフランス軍との関わりも昨日今日に始まったことではない。隠されてもいない周知の事実。
「だからだよ。イヴェールのクインシーがその情報を手土産にイギリスへと接近することが重要なんだ。あいつは、あいつらは名目上AOKIをイヴェールの傘下に置く形を取り、実質はすべてを作り替えるつもりだ。EUを主体として、欧州集合体で世界での競争力を保とうとする急先鋒がフランスだとしたら、あくまでも自国に主導権を持たせたいのがイギリス。AOKIは取り込まれ、イヴェールはフランスを見限り、それらをすべて持ったまま英国へと乗り込む。コンフィギュアがAOKIに取って代わられた時と同じだ。おそらくイヴェールの片鱗さえ残されることはないだろう。考え直せ、クリス!!今はイヴェール=クインシーらにつけいる隙を与えるな!!」
何を思ったのか、クリスティアナは小さく息を吐き出した。自らを落ち着かせるように。
「なら、大丈夫。もうその情報に意味などないから」
どう…いう…こと、だ…?
ケイの表情が引きつる。この娘はなぜこんなにも落ち着き払っているのだ?状況が飲み込めないのか、それとも……。
次の言葉を。口を開きかけたケイは思わずクリスを引き寄せた。彼女の身体が緊張で硬くなる。
「動くな。誰かがこっちに」
言葉にもならない無声音。きな臭いにおいと悪意に満ちた視線。狙っているのは銃口。気配は感じるが、今の自分にそれを避けきれるだけの自信はない。
どこだ、どこからだ。
視野が極端に狭いケイには、今までなら何でもなかったあの感覚が取り戻せない。狙われるネタならいくらでも心当たりはあるさ。だか、なぜここが?
誰にも耀司にさえも伝えてない、この場所にいることは。クリスティアナの警護の者は姿も見えない。ちっきしょう、役立たずめ!!
誰に対しての恨み言か。ギリリと奥歯を噛みしめる。
守りきれるのか、おれが。この瞳で。傷一つつけるわけには行かぬ!!
軽いサイレンサー付きの発射音を耳で捉えた瞬間、彼はクリスをかばうように地面へと伏せた。
「つうっ…」
「ケイ!!」
思わず左腕を押さえる。右手に付く血は少量。本当のかすり傷だ。音から判断するに、この距離で二人を外すということは……警告か。
息を荒げて地面に倒れこんだまま見上げたケイは、冷酷な表情で銃をこちらに向けつつ近づく人物を認め、息を飲んだ。
……クインシー・キャリック=アンダーソン。兄様……
クインシーは、ぞっとするような笑い声を僅かにあげた。
(つづく)
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