表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
97/112

#97

#97



「リチャードの友人だという彼とは、スザンナと一緒に逢ったの。オルブライトの屋敷に意を決して戻ってはみたものの、どうしても辛くて逃げるようにスザンナのところへ足を向けていた。どこへ行っても辛いのは同じなのに。でも、二人の男の子の母親になった彼女は、嬉しそうじゃなかった。以前には少しは見せていた笑顔も消えていた。どうしてなんだろうと不思議でならなかったの。自分に関心も寄せてはくれない夫だと嘆いていても、愛する子どもが二人もいたら幸せな慈母でいられるはずなのに、と」


愛せない……それだけをスザンナは言ったわ。次男を、キースを愛することがどうしてもできない。涙を浮かべることもなく、視線を向けることもなく。

もうその頃には乳児というより幼児になっていたけれど、とても美しい顔立ちにプラチナブロンドの髪。そして印象的な…。


「オッド・アイ」


微かなクリスティアナの呟き。引き込まれるような神秘の瞳。それは時に畏れさえ抱かせるのだろうか。ただの人間にとっては。


「見たこともないリチャードの友人という人が出入りするようになっていたわ。彼だけは臆することなくキースを抱き上げた。愛おしそうに見つめた。その優しそうな仕草に、私たちは自分の夫との差を無意識に感じてしまっていたのね。エマーソンに惹かれたのは、それだけじゃないのかも知れない。でも誰にでも優しさを見せる彼は、この私にも微笑みをくれた……」


愚かな女と笑うかしらね、今のあなたなら。寂しげな声にクリスは抱き寄せる手に力を込める。

母に何の罪があるだろうか。オルブライトの父はオフィリアを顧みることはなかった。満たされぬ思いで日々を暮らし、家の為に戻っても親友を訪れても埋められることのない孤独感。

そこに現れた笑顔に惹かれる彼女を、どうして責めることができるというのか。



「自惚れていたのよ。心のどこかでどす黒く醜い嫉妬心があったのだと認めるわ。私はスザンナには見劣りしないだけの自信があった。けれど、エマーソンが選んだのは…スザンナだった」


お互いの淡い感情は、いかな親友でも伝え合えなかった。それでもオフィリアは選ばれると信じていた。

不義の子が…と、後ろめたさよりもどこか誇らしげに耳打ちするスザンナに、彼女の心は壊れてった。


「ほんの少しのほのめかしに、勘のいいリチャードはすぐに気づいたのね。エマーソンはあの家に近づくこともなくなり、スザンナは自分の夫から酷く責められるようになった。子どもを愛せない母親となってしまえばいい。母性が本能なんて嘘よ。それがないのなら私が代わりにいくらでも愛してあげる、キャリック=アンダーソンの子どもたちを。生まれたばかりのあなたさえも、私は彼女から奪うように愛情を注いだ。疲れているのだから休みなさいよといたわるフリをして、世話をする機会さえも与えようとしなかった。まるで彼と私の子どもであるかのように、私はあなたを…愛そうとした」


嗚咽で言葉が続かない。

哀しく切ない女性がここにもいる。恨みも憎しみも何も湧かず、ただただ愛おしかった。母が。その想いをすべて覆い隠し、常に笑みを絶やさず私にすべての愛情を注いでくれた母が。



「あの日……事件の当日に、どうして私は運良くお母様のお屋敷にいたのかしら」


ふと湧いた疑問。それもキースは取り残された。明暗を分けてしまった運命の選択。




「スザンナは知っていたのよ。事件が起こることも、自分の夫が襲われることも」


「……!?」




クリスは目を見開いた。己が殺されることすら知っていたというのか。


「思い詰めた顔で、二人の子どもたちを預かって欲しいと言ってきたの。理由は訊かないで、でもどうか、何が起こっても驚かないで。私は大丈夫だから。確かにスザンナはそう言ったわ。そんな説明でなんてとうてい納得できない。私は問いに問い詰めた。あの子は昔からそう、私には逆らえない。エマーソンから聞かされた計画をすべて話した」


コンフィギュアの研究所で開発したはずの新技術を、リチャードは独り占めしようとした。訴訟を起こされれば会社が勝つ公算が高い、けれど機密も漏洩してしまう。リチャードはそこまで計算していたのでしょうね。業を煮やしたコンフィギュアは恐ろしい手段で事を片付けようとした。


つまり……リチャードの殺害。それですべてなかったことにしてしまえと。


選りに選って指揮をあの人に任せたのよ、一番立場の弱い名ばかりの取締役である青木に。



「お母様は知ってらしたの!?」


そうよ、知っていた。知っていて何も誰にも相談せず、私は口をつぐんだの。だってスザンナは殺されない。死ぬのはリチャード一人。そう聞かされたのだもの。


「それがスザンナの心を救い、エマーソンの利益になるのならいいとまで思った。私は人の心すらとうに失っていたから」


「待って!!だってエマーソンは…リチャードという人の親友ではなかったの?」


淡々とクリスティアナはリチャードという言葉を口にする。名だけでも父だった人。何の思い出もない人。でも親友を殺害する計画に何故エマーソンが荷担するのか。


「君にだけは話しておきたい。なぜだか君にならわかってもらえる気がするから。寝物語にエマーソンから話されて、私は有頂天になっていたのかも知れない。彼と最大の秘密を共有しているという悦び。……あなたに話していいことではないわね、ごめんなさい」


「いいえ、すべてお話しして。私が知りたいの。どうかお母様、お願い」


酷なこと。それもわかっている、お互いにとって。


「エマーソンがリチャードに抱く感情は、確かに私にはとても良く理解できた。ともに暮らしたいとまで思う気の合う親友であることには違いない。たくさんの思い出も喜びも涙も常に一緒に味わっていた大事な人。それでも、だからこそ、近すぎて愛しすぎて一番憎い人。顔も見たくないのに離れられない。ならば死が二人を分かつのなら運命と受け入れられるだろうと。そこまで思い詰めるほどの友情」


それは、果たして友情なのだろうか。ゆがみに歪んだ依存とでも言うべきではないのか。

クリスの心に、心理学の講義で習ったばかりの単語が思い浮かぶ。けれどきっと母たちにとって、お互いがそういう存在だったのだろう。離れたくないのにそばにいると苦しい。肉親ではないのだから離れてしまえばいいのに。口で言うのは簡単だけれど、それができるのなら依存なんかじゃない。



それまで母親の心に寄り添うように思考を進めていたクリスティアナは、突然気づいて愕然となった。


「……お母様?それでは、エマーソンはコンフィギュア、ひいてはAOKIの味方なの?リチャードの技術流出を恐れたのは会社であり、エマーソンではないのでしょう?どうして彼がそのことを知っているの?」


そしてなぜ今になって、彼エマーソンはAOKIを追い詰めようとするの?


声にならない言葉。とても平凡な小娘の頭では解析不能な複雑すぎる現実。オフィリアも力なく首を振った。


「わからない、わからないのよ。私はただ、エマーソンはリチャードが憎いからだと思っていた。単純にそう考えていたのに、彼はスザンナさえも見殺しにした。なぜだか長男のクインシーだけをフランスへと連れ去ってしまった。私にはとても彼の行動がわからない。理由さえ理解できない。ただ一つはっきりしているのは、スザンナを失った私がどれだけ辛かったかということだけ」


大粒の涙が頬を伝う。


「憎いとまで思い詰めていた。顔も見られないほど。それなのに彼女がこの世にいないことが、私には信じられなかったの。事件直後は混乱が酷くて、とてもあなたを引き取ることができなかった。だから必死に捜したわ。あなただけでも助けなくてはと」


兄であるキースと引き離しても?


……今だから言うけれど、オルブライトの元にキースを連れて行くことはできない。それでも私はまだ、彼と正式に離婚するだけの勇気がなかった。もっと早く決断して、二人を一緒に私が育てれば良かった。けれど……


それは言い訳ね。母の言葉は、空をたゆたう。己の思考の混乱を示すかのように。


「怖かったの。あの澄んだ美しい瞳でじっと見つめられると、私はすべての罪を彼に見すかされているような気がして」



オッド・アイ。キースの、ケイのせいでは決してないのに。ただ外見がほんの少し人と違うだけ。神が与えた奇跡の双眸。どうして平凡な瞳を彼に与えてはくれなかったのだろう。


……ケイ……


クリスティアナの胸の奥につきんとした痛みが走る。あの身体を貫く痛みと同等な。



「大切なあなたまでオルブライトの毒牙に掛けるわけにはいかない。ようやく決心した私は、離婚を選んだ。遅すぎたのでしょうね。私は誰も助けられなかった」


「お母様は私を守ってくださった。そうでしょう?」


クリスはにっこりと微笑んで見せた。当時のオフィリアには、それが精いっぱいだったのだろう。そのすべてで自分を守ろうとしてくれたのだ。




「青木に嫁げば何かわかるかも知れない。バカな女の浅知恵ね」


自虐的に表情を歪める母。復讐をも考えたのだろうか。これ以上彼女を追及することもはばかられた。


「何を考えているのかわからぬ恐ろしい東洋人。真実がわかれば私はどうなってもいいとさえ思ったのに、実際の青木はとても不器用で正直で、何も上手く立ち回ることすらできない人だった」


青木はね、未だに私と目も合わせられないのよ。そのときだけはオフィリアは少しばかり微笑んだ。恥ずかしいのですって。別の意味で理解できないタイプだわ。

母と自分の結婚相手を探しては笑い合ったあの頃が……遠い。私たちはたくさんの秘密を抱えながら、当たり前のように日常を暮らしていたのだ。ごくごく平凡な女同士として。



「ようやくわかったのよ。外見だけで人を判断することの怖さが。男爵の地位にいたオルブライトは異常者だったし、人でなしと石を持って追われかけていた青木は誠実な人だった。そして……」


エマーソンは、他人を信じない。いえそうではない。他人とは目的の為に動かす為だけに存在する、ただのチェス・ピース(駒)。




…一つだけ言わせてくれ、クリスティアナ。全知全能の神を騙り、おれたちをチェスの駒代わりに使い続けている男が居る。おれたちはその男こそ糾弾されるべきだと考えている。おれたちは、闘わなければいけないのか…




不意に蘇る、最後に交わしたケイとの言葉。それでもなお、私たちは闘うのだろう。大きな目に見えぬ敵とも、そしてあなたとも……。


クリスティアナは、幼子が甘えるかのようにオフィリアに身体を預け、その温もりを感じ取ろうと目をそっと閉じた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ