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#96

#96



ネメシス。


その名こそ三人の元学生らがつけた、己らの組織に対する秘称だった。

神とはおそらく大英帝国を指し、それに抗う身の程知らずの他の国々を見下す。神の怒りに触れた国へは制裁を。彼らの計画は少年とは思えぬ、いや若さ故の純粋な狂気とも言えなくもなかった。

ネメシスの名の元に固く結ばれたはずの強き想いは、いつしか成長した一人の青年の復讐心へと変貌を遂げていった。


何が彼をそうさせたのか。エマーソンの胸中は推し量れぬ。しかし、一番力も地位もないはずであった彼は、断罪を繰り返す神として人知れず暗躍を続けていた。

人というものをチェスの駒のように操って。


ホワイト・プリズンとは彼自身がつけたおのがオフィスの名。白き牢獄から何が見えるのか。細いブラインドごしに、デリック・エマーソンは重苦しい曇り空を見やった。






青木の屋敷で、クリスティアナは母親の横たわるベッド脇にそっと腰掛けた。美しく快活で憧れであった母。自分にはないものを持ち、なぜ彼女の娘なのにここまでも違うのかとコンプレックスを抱き続けた相手。そして常に娘を愛し、抱きしめ、心からの親愛を隠すことなく示してくれた…この世で一番大切な母。


彼女はあの事件以来、こうやって伏せることが増えた。涙は乾くことなく、刻まれた眉間のしわが痛々しさを誘う。

当の娘である私は、こんなにも行動的になったというのに。その皮肉さにわき上がる苦い笑み。自分がこんなに活動的で臆することなく人前で話ができるだなんて思いもしなかった。母は、そんな私をずっと守り続けてくれたのだわ。たった一人で。



「……クリス、クリスなの?」


「ごめんなさい、お母様。起こしてしまったかしら」


疲れているのではなくて?母親は気丈にも娘を気遣う。己の方がよほど衰弱しているというのに。


「私は大丈夫よ。どこにこんな力があったのかと思うくらい動いているから。それほど…お母様が支えていてくださったのよね。今までは」


オフィリアはクリスの頬をそっと撫でると、またも目に涙をためた。


「あなたを苦しめてしまった。もっと早く真実を伝えるべきだった。私にはあなたを失うだけの勇気が…なかった…」


こらえきれなくなった涙は、一筋頬を伝ってベッドへと落ちる。その姿にクリスティアナは首を振る。


「私は、お母様の娘よ。それ以外の何者でもない。そうでしょう?今は<クリスティアナ・青木>。青木の家族として生きると決めたの。お父様にも話したわ。だから私は闘える。青木の家とお母様と……何よりもAOKIという企業を守る為に」




知れば知るほど、AOKIの理念は現実離れしていると笑われそうなくらい真っ直ぐだ。そしてシンプル。



いい車を安く。ただそれだけ。



いい車、つまり高度な技術を用いて操作性を高めつつも安全性の高い製品を作り上げる。それを真の意味での一般大衆に手の届く価格設定で提供する。義父は…いえ父はそれしか思ってはいなかった。けれど、あの不器用な父の想いは欧州の人々に受け入れられているとは到底言えない。

ならば私が、これからは伝え続ける。だからこそ闘う。多くのものを断ち切って。

少なくともAOKIの上層部はその理念を理解できる人間だけを残した。軍とのつながりにこだわる者は更迭した。どんなにバカげていると指を指されようと、クリーンな会社というイメージを大事にしたい。それはクリスティアナが世間知らずだからだと揶揄もされている。


しかし彼女は、もっと先を見ていた。


時代が求めているのは、もうハイブリッド・カーではない。純粋な電気自動車へと関心は移り、いかにCO2を出さずに環境問題と共存していけるか。その意識のない企業は生き残ることはできない。

幸いAOKIにはそれを考えられるだけの人材が残っていた。

私は何も知らなかった。そういった人たちを育ててきたのは父だということを。

不器用で正直にしか生きられぬ生粋の日本人は、先の先を見据えていたのだということさえも。




あの日。

軍にプレゼンするはずだった試作品は……ブラックに奪われた。そう頼み込んだのは、この私。


軍事目的に転用される予定の技術は渡ることなく破棄された。こちらが蹴ったのではない。情報の流出を何よりも恐れる軍がAOKIを見限ったのだ。

この国で、いや世界を相手にする企業で軍との関係を切られたものが生き残れるものか。嘲笑われていることは厭でも知っている。でもできぬはずはない。


EUとの連携、そして臆することなくアジアと手を組む。そこには何の後ろめたさもなく。

AOKIは胸を張って堂々とエレクトリック・ビークルの開発に打ち込めばいい。ハイブリッド・カーの研究開発で得た技術を生かしつつ。


だからこそ、今度の裁判ではAOKIの過失を認めるわけには行かないのだ。原因は不明。それでも我々は何らやましいことはしていないと主張していく。


原因……。

「何らかの妨害があったとしか考えられない」と技術者らは口を揃える。ブラックは…ケイは知っているのだろうか。あの人のことだ、その情報をも知っていてなお、AOKIを追い詰めようとするのだろう。


AOKIを軍から切り離してくれた恩人であり、AOKIを憎む最大の敵。





「お母様?またお話を聞かせてくださらない?」


ふっと力を抜いて、クリスは思考を切り替えた。もとより難しい経済問題も技術的な話題も理解できているとは言えぬのだ。まだ年若き大学生に過ぎぬ小娘。今はただ必死に重役連中の話に食らいついているだけ。

今だけでも、心を落ち着かせたかった。


「私の幼い頃の思い出を。まだちっちゃい赤ちゃんだった私を抱きしめてくれた頃の話を」


オフィリアはまた涙ぐむ。本当の母親のスザンナからあなたを奪ったのは私なのに、と。


「それは違うわ、お母様。私の思い出はすべてオフィリアお母様と一緒だったの。抱きしめてくれたふわふわの感触も、甘い言葉も、たくさんの笑顔も、くださったのは皆お母様だわ。そうでしょう?」


スザンナという女性のことは、一欠片も記憶などない。眠る私を抱きしめて微笑む色褪せたフォトに写っているのはオフィリア。よちよち歩きの私を、手を広げて待ち続けてくれたのもオフィリア。記憶の中にいる母は、目の前の彼女以外にいない。


それが私にとっての真実なのだから。


碧き宝石のような瞳と漆黒の闇。あのオッドアイをなぜ私は覚えていたのだろう。

愛した人……私の兄だという人……そして、AOKIを憎む敵である彼。


クリスティアナの思考がたゆたう様を見て、オフィリアは何かを感じたのだろうか。まるで何も知らなかったあの頃のように、ようやく笑顔を見せて話し出した。


「そうねえ、あなたは小さい頃には果物が大好きで」


「やだ、選りに選ってその話を蒸し返す気?お客様用に買い込んでいたデザートを全部かじってしまったんでしょう?」


「そうよ、それも綺麗に一番上に載せられたベリーだけを、ね。食事の世話をしてくれていた当時のメイドと、頭を抱えたわ」


後に残された、大量のクリームだけのケーキ。くすりと笑ってからオフィリアは手を伸ばし、近くの棚からノートのようなものを取り出して広げる。


「ほら、この写真」


「もう!まさか誰にも見せて歩いているんじゃないでしょうねえ!」


一緒に小さなアルバムをのぞき込む。そこには頬にクリームをつけて、得意げにベリーを口に放り込む幼いクリスが写っていた。

二人は見つめ合いながら微笑んだ。そして小さく笑い声を上げた。それがいつもこの母娘を支えてきたのだ。



写真という、記憶を切り取った画像一枚が彼女らを過去へと引き戻す。そこには苦しみも哀しみももはやなく、途方に暮れながらも笑い転げたあの楽しい思い出だけが残されている。


たくさんたくさん二人で残してきた幸せの証拠。これがあれば私は生きてゆける。オフィリアという母と一緒に。





それでも確かめねばならないだろう。どれだけ辛いことであっても。


「お母様、教えて?あの頃の本当のことを」


一瞬、オフィリアから笑顔が消えた。その肩をクリスが抱きしめる。大丈夫、私たちには思い出があるから、と。


「オルブライトの異常さは結婚してすぐわかったの。もともと家柄で決めた婚姻という契約だとは知っているつもりだった。彼は外ではジェントルで通っていたから、世間知らずの私にも優しかったわ。でも、決して私に触れようとはしなかった」


それが何を意味するのか、今のクリスにはわかった。肩に込める力が強くなる。


「オルブライトは私が何を買おうがどこへ行こうが、自由にさせてくれたわ。人も羨むような生活。誰にも言えないような…乾ききった生活。大の親友だったスザンナには、もうクインシーという長男さえいたのに」


心の交流一つない冷たい夫。その愚痴を聞き続けたのに、親友はすでに母親。とても耐えきれず、私は逃げた。実家へと。


「ずっと逢えなかったの。顔を見るのも辛かった。それまでは私も母親の仲間となってスザンナとは子育ての話ができると信じていたの。けれど到底叶わぬ夢なのだと知ってしまってからは、ね」


実家でもまさか夫の性癖を話すことなどできるはずもない。しばらく落ち着くまでは、と長期の療養を許してくれた両親を心配させるわけにも行かない。


そこへ、次男が生まれたというキャリック=アンダーソン家の噂。



「なぜ……戻ってきたの?責めているのではなくてよ。そんな辛いオルブライトの家に、お母様が戻ることなんてなかったのに」


「そう、ね。初めて人を愛してしまったからかしら」


オフィリアの視線が記憶をたどるように彷徨う。


「そのお相手が……」


エマーソンは紳士だった。浅はかで愚かだと笑うでしょうね。オフィリアの自虐めいた苦笑。


「お母様ごめんなさい。お辛いことを思い出させてしまって」


もうこれ以上は、と遮ろうと優しく母親を抱きしめるクリスに、オフィリアは自ら話し続けた。どれほど己が辛くとも、伝えておかねばという強い意志を感じさせながら。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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