#93
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「大人には興味などないのだがね」
オルブライトは当初からおのが趣味を隠そうともせず、アーネストを見据えて冷たく言い放つ。
「あら、そんなに男爵様の審美眼は素晴らしいのかしら。あたしは一言だってまだゲイとも何も言ってないっていうのに」
しれっと応えるアニーの横で、唇を噛みしめていたのは耀司だった。何も言わなくていいからと、頼りになる相棒には最初から釘を刺された。口を開けば罵倒の言葉しか出ては来ないだろう。
「ふん。鏡を見たまえ。男の肌というものは十代を過ぎてしまえば醜いことこの上ない。気づかぬと言うのもまた不幸なことだな」
男やもめだというのに男爵の屋敷は綺麗に保たれていた。道楽が過ぎても有り余る財産があるという訳か。多くの使用人らが忙しそうに歩き回る。
耀司らの前にも茶菓子と紅茶。それもめったに手には入らぬような原産地取り寄せの最高級茶葉だと、オルブライトは自ら得意げに説明した。
「そんなに若い男がいいのかしらねえ」
挑発するかのようなアニーの棘ある言葉に、男爵はくっと笑い声を上げる。
「何度言えばわかる?若い男ではない。十代の少年でなくてはな」
「その割には、義理の娘にまで色目を使ってたんでしょう?両方いける口なの?」
はすっぱな物言いだが、アニーにしては心底イヤそうに投げつける。言葉の刃を。
「あのすべらかで浄い肌の感触を知らんのか、君らは」
がたん。
耀司がたまりかねて立ち上がりかけるのを、アニーの腕が制止する。まだよ。こいつから必要な情報を引き出してからでなくては。
情報屋としての冷静さを取り戻せ。彼はそう言っているのだ。
「で、おまえどもの狙いは金か。キャッシュで一度きりなら考えんでもない。この程度の遊びで何か言われるとも思えぬが、脅迫が続けばこちらには警察幹部につながりがあってね」
こういった手合いには慣れているのか、オルブライトは余裕綽々とソファにもたれたままだ。
アニーは耐えきれず笑い出す。ひそめられる男爵の眉。
「あら、警察官僚にだったらこっちにもぶっといパイプがあるんだけど?」
くすくす笑いは止まらない。仏頂面の警部の顔が浮かんでくるからだ。今頃は、上層部のどいつを脅せば効果的か、作戦を練っているに違いない。
不意に面を引き締めたアーネストは、いぶかしげなオルブライトに向き直った。
「あたしたちは強請たかりのたぐいじゃないわよ。金なんか要らない、これっぽっちもね。欲しいのは情報。男爵様にしかわからない大事なことを……よ」
フレデリック・オルブライトは思わず息を飲んだ。
「ブラックがキース・キャリック=アンダーソンだってことは知ってたのよね」
まるで取調室のように、執拗なアニーの追及が始まる。
「それをおまえどもが知ってどうなる?」
素っ気ない返答に「勘違いしないでよ、訊いてるのはこっち。応えないって言うんなら、どんな手でもあるのよ?」と、アニーが凄みを利かせた。
いくら裏社会の店に出入りしていたとはいえ、そこでは常に賓客の貴族様だ。こんな恫喝には慣れてはいない。オルブライトの顔が引きつる。
「し、知ってはいたさ。あの瞳だ。捜せばすぐに見つかる」
捜したのね、やっぱり。アニーの目に陰惨な光が宿り始める。
「ってことは、あんたは最初からキースを狙っていた。彼がキャリック=アンダーソン家で暮らしている間も」
あの神秘的な瞳を見て、心を動かさない人間がいるとでも?逆にオルブライトには恍惚とした表情が浮かびだした。
「まさしく神が作りたもうた芸術品だ。あんな美しさの欠片も理解できないリチャードのところになど、仮にとはいえ置いておく方が間違っていたのだ」
「リチャードの実子でない、と……それすら知っていたって訳ね」
横で耀司がギリリと歯を食いしばる。もう少し我慢なさい。こいつはしゃべり出せばいくらでも言ってくれる楽な相手。アーネストの念が伝わってくる。
「じゃあなぜ、あなたの奥様であったオフィリア・オルブライト夫人は、親友であるはずのスザンナの産んだ子どもでないことを知らなかったのか」
私のそばにいるのが耐えられなかったのだよ。いとも簡単に軽く言ってのける男爵に、さすがのアニーも言葉を失った。
「派手に式を挙げて結婚した手前、そうそうに別れるわけにも行かぬ。あちらはあちらで体面を気にする家柄であったからね。特に親友であり最大のライバルでもあったスザンナに子どもが生まれてからは……」
「いくら彼女に張り合おうとしても、夫のあんたが大人の女なんかに興味も持てない性癖の持ち主。まあお気の毒さまにねえ、あんなにお美しいオフィリア夫人が」
台詞こそ軽いが、そこに込められた侮蔑。アニーの目が細められてゆく。
「実家へと静養に行かせたよ。そこへ第二子が生まれたという追い打ちの知らせが届く。オフィリアはしばらくスザンナとは逢うことすらできずじまいだった。女の嫉妬は醜いね、どこが親友だか。片腹が痛い」
だから成人女性など相手にもする気にはなれんね。当然だとばかりにオルブライトはうそぶく。
「ずいぶんとまあ、あんたもキャリック=アンダーソン一家とは親しかったようね」
「家族ぐるみの付き合いを望んだからだ、オフィリアがな。私も自分が一般的ではないことくらい自覚はある。しかし、リチャードほどの変人と一緒にされては困るね」
変人?真面目に研究に打ち込んでいた勉強家のどこが変人なのよ。ふんと鼻を鳴らし、アニーは男爵を小バカにしてみせた。
「学生時代の友人に頼まれたからと、奥方に相談もせず見ず知らずの子どもを引き取るお人好しがどこにいる?それも、美しい少年には興味も示さぬ変人だというのに」
「相談もせず?どういうこと?スザンナにはキースを引き取る相談もしなかったって言うの?」
どうせ研究材料の一つくらいにしか思っていなかったのだろう。だったら、最初から私の元へと連れてきてくれれば良かったのに。
舌なめずりのような粘着性の言い回しに、聞かされていた二人の嫌悪感も高まる。
……二人一緒に引き取れなかった本当の訳は、こんなところにあったってのね……
オフィリアは精いっぱいキースを、ケイを守ろうとしたのだ。この鬼畜から。女の子だけがいいと夫が言い張った、とは体面を保つ為にとった彼女の苦しい嘘。
本来なら、選ばれるのはキースであるケイだったということか。彼女が一人だけ彼を屋敷に連れて行こうとはしなかった理由。オフィリアなりに示していた、少年への見えない優しい愛情。
あまりの運命の切なさとやりきれなさに、耀司はつぶったままの目を押さえた。
「リチャードがキースをどこから連れてきたのかも知っていたってこと?」
「さあ。少なくとも彼がキャリック=アンダーソンの家に来たのはまだほんの生まれたての頃だ。それでも既に、プラチナブロンドの髪と対照的なエキゾチックなブラックアイは、美しい光を放ってはいたけれどね」
今は何をも映し出さぬその黒き瞳。彼らを惹きつけ引き寄せてしまったのは、すべてあの漆黒の闇のせいなのか。
くっくっくっ。途端に男爵はさもおかしそうに忍び笑いをした。外では見せぬであろう彼の本性。
「それをまあ、よくスザンナは世話したものだ」
意図をはかりかね、アニーが彼を凝視する。その反応にオルブライトは嬉しそうな表情を隠そうともしなくなった。
この手の秘密はおいそれと口にすることもできぬ。どうやら男爵は、彼らに話せることをその実、喜んでいるかのような節が見られた。個人的な家庭の事情など、どこの家でも一つや二つ抱えているものだ。それを無責任に噂する楽しみ。上流階級の方々の一番の好物と言っていい。今も昔も……。
わざと黙って彼の続きを待つ。それも長年の情報屋としてのテクニックだ。焦らされた獲物は勝手にすべてを語り出す。意地になって事細かに、ね。
「彼女は、スザンヌは、自分の亭主をよほど過大評価していたのかね。他にも女がいたと思ったらしい」
「!?」
耀司は思わず目を見開いた。どういうこと、だ?
「つまり、よそで産ませた子供を特別養子制度を使ってまで家に引き込んだ。実際に赤ん坊の面倒を本妻に見させる為にと。あの変人にそんな度量があるものか。いや、浮気をするだけの度胸というか、興味すらないだろうな」
「そんなことまで、リチャードはあんたに打ち明けていたってこと?」
アニーが何とか冷静さを保ちつつ口を挟む。
「妻の親友であり、家族ぐるみの付き合いというものに、どれほどの人嫌いも少しは私を頼ろうとしてはくれたのだろう。研究で家を空けることが多かったものだし、オフィリアは実家だし、あの家に呼ばれることは何度かあった。クインシーなど、頭でっかちのリチャードそっくりで私の興味の対象外だったから、全く気は進まなかったが」
「……さっき、リチャードは学生時代の友人に頼まれてキースを引き取った、と言ったな。その友人とは、誰だ?」
それまで無言を貫き通した耀司が、指をぐっと組みつつ呟く。掠れた小さな声ではあったが、それだけに有無も言わさぬ迫力にオルブライトはたじろいだ。
「そ、そんなにリチャードと親しかったわけではない」
「名前くらい聞いているだろう?」
アーネストも敢えて口を挟まない。静かなやりとり。耀司は続ける。
「こういう人物だったんじゃないのか。『ニコラス・ハミルトン子爵』」
いや。男爵は微かに震えつつも即座に否定した。子爵なら名だけは知っていた。彼ではない、と。
「じゃあ……デリック……」
「ああ!ああそうだ、その名だ!何でもパブリックスクール時代からの親友で警察官だという身元の堅い信用のおける友人だと。たしか、E、E……そう、エマーソンという」
エマーソンの子どもと言ったのか。耀司の声さえ震えていた。オルブライトは首を横に振り「身元は証せない訳ありの子どもで、つてを探してなんとかリチャードに頼み込んだらしいとまで聞いているがそれ以上のことは」と言葉を濁した。
人目もはばからず、耀司は頭を抱え込んで本革のソファで身を縮めた。まただ、またボスの名だ。
どこへ行ってもついて回る。……デリック・エマーソンの名が……
「どうせ奥方は、赤ん坊には複雑な感情を抱いているのは見え見えであったしな。それはそうだろう。義務として一子をもうけはしたが自分には興味も示そうともしない旦那が、どこかの知らぬ女とはこうして子まで作り、あまつさえ引き取ってまで育てようという。オフィリアには打ち明けられないだけのプライドもあったのだろう。しかし、自分の実子であるクインシーとは似ても似つかぬ美しい子ども。最低限の世話こそしたが、触れることさえイヤではなかったのではないのか?だから私は何度も申し出たのだよ。オルブライト家で引き取り、私が大切に育て上げてやると。大切に、な」
ぞっとするような狂気の瞳。フレデリック・オルブライトの顔貌が変化してゆく。
「変人は、リチャードは手放そうとはしなかった。奇跡的なオッドアイをのぞき込み、『これほどはっきりとしたheterochromia iridis(虹彩異色症)は珍しい』と感嘆するばかり。あいつはただ単に学術的な興味から、キースをそばに置いておきたかっただけだ。何ともまあ非人間的なことよ」
非人間的なのはどちらだ。いや、どいつもこいつもケイの周りにいた大人たちの中で、彼をきちんと愛される人間の子どもとして見ていたヤツがいたとでもいうのか!?唯一の救いはオフィリア。その彼女でさえ、目に見える愛情を注ぐわけにはいかなかった。どれほどの大人に囲まれ、なぜケイは孤独に生きなければならなかったのか。
「数年後、ようやく黒き瞳と澄み切ったブルーアイに再会できた時の喜びがわかるか?しみ一つないすべらかな真白き肌に触れられたあの法悦。本当ならば私が一つ一つ教え込みたかったくらいだが、贅沢は言わぬさ。逢ったときには既に瞳を潤ませ、私を迎え入れる悦びを知り尽くしていた彼を……」
もういいわよ。この上もなく冷え切った言葉をアーネストは、男爵にではなく耀司にへと告げた。
ゆらりと彼が立ち上がる。
異変にさえ気づかず、おのが妄想に浸りきっていたオルブライトの胸ぐらを、耀司はぐいと掴み、身体ごと持ち上げた。わずかに空へ浮く貧相な身体。
何が起こったのかと目を見開く男爵に、耀司は拳で力一杯頬を殴りつけた。吹き飛ばされ、部屋の隅にうずくまる彼を足蹴にする。渾身の力を込めて。
「ひいい!!」
主の悲鳴に飛んでくる下々の者を無視するかのように、二人はそのまま屋敷を出た。
あんなもんじゃ済まない。誰よりも俺の気が済まない。けれど耀司は肩で荒い息を繰り返しながら、必死に己を抑えようとした。
珍しく……アーネストも無言だった。
この道をゆけば、本当にケイを救うことができるのか。
耀司は爪が食い込むほど、血のついたままの拳をぐっと握りしめた。
(つづく)
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