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#91

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「全く、人をなんだと思っているんだ。弱みを握ったつもりか、あの程度で!」


ウィリアムズ・パークスは自宅の客間に、革製のカバンを放り投げて自らもソファに倒れこんだ。

ケイ・ハミルトン……。今でこそ大人しく従うフリはしているが、この裁判が終わったら必ずおまえの化けの皮を剥いでやる。

義弟の告白を知らぬ彼は、癖のように右手の爪を噛んだ。


こちらとて老舗の法律事務所の看板を背負っているのだ。そうそう民事裁判で負けるわけには行かぬ。しかし、いくら調べ上げようともAOKIに過失も瑕疵も見つからない。そんな報告をもう一度ハミルトンに持って行ってみろ、また足元を見られてこき使われるだけだ。

主導権を相手に渡してしまったのは、かえすがえすも間違いだった。この僕が。ウィリーの表情が悔しさに歪む。



ことん。



クラッチの先が立てる音。起きていたのか。ウィリーは最愛の弟の姿を見ようと重い身体を無理やり持ち上げた。

もっとも愛する可愛い義弟。決して手放したくはない。しかしこの家を譲るつもりもない。彼にはハミルトン子爵になるだけの権利があるのだ。そして、パークス家の財産を渡す気はこれほどもないのだから。


実の母を奪った憎い女の……息子。そして僕の大切な宝飾品。彼を手元に置きたい、永遠に。この複雑すぎるほどの想いをウィリー自身が気づいていたかどうか。


「遅かったんだね、義兄さん」


「ああ、なぜかあごで使われっぱなしだ。あの似非子爵にね」


彼は、本物の子爵だよ。寂しげに呟く義弟に、今だけはね、と優しく声を掛ける。


「そうじゃない義兄さん。彼は本当に!」


おまえが心配することじゃない。ウィリーは邪気すら消したあの笑顔を向ける。ふと義弟の持つ手元に目をやる。


「また開いていたのか。だいぶラテン語は上達したかい?」


微笑みながら問いかける声に、ケイは頬を染めた。


「まだまだ全然わからないんだ。僕はその、そんなに勉強が得意な訳じゃないし。でもこの日記だけは、どうしても読みこなせるようになりたくて」


ウィリーはケイが腰掛けられるようにと、自らの身体を動かしてソファの場所を空けた。華奢な義弟はそこへ素直に座り、古ぼけた革表紙のそれを義兄へと差し出す。


「ここの単語はいくら調べてもわからない。来週のラテン語の先生を待っていればいいのだけれど」


そう言いながら開きかけたページは、年季の入っている証拠に端が欠け、紙は茶けていた。ケイがずっと手放そうとはしなかったその日記帳は、実の父親である先代のハミルトン子爵からもらった物。スクール時代にラテン語でつけていたのだ、いつかおまえも読める日が来るだろうか。幼い頃の父の声までをも思い出す。




「ネメシス?ああこれはね、ラテン語というよりもギリシャ神話に登場する女神の名だよ」


ウィリーはこともなげに優しく弟へと教え諭す。その姿は日頃の冷酷さも残忍さもなりをひそめ、あたかも表面を取り繕うかつてのプリフェクトとしての慈愛に満ちていた。彼にとっては、血のつながらぬ憎むべきはずの弟は、自らの別の面を引き出す触媒となっていることにおそらく気づいてはおらぬだろう。


「義兄さんは何でも知っているんだね」


純粋に畏敬の目を注ぐ弟の素直さが面はゆい。知らずと熱心に説明を加える。


「彼女は比較的新しい女神ではあるんだ。というのも、人間が神に対して無礼な振る舞いをした際に、神が憤りを感じて罰を与えるという行為を擬人化したものだからね」


「神の怒り?」


そう、人間のおごり高ぶりに対する神の怒りは凄まじい。


そもそも存在する階層が違うというのに、何を勘違いしているのだという怒りなのか。どの世界にも二面性は存在する。それは違いというよりも上下関係となり、主従関係となりうる。

ウィリアムズ・パークスが子爵を騙るケイを許せない根源は、あるいはこんな根深いところにあるのかもや知れぬ。コックニーの浮浪児ごときが生意気な、と。



「だから、有名なところではナルシストの語源となった『ナルシス』へ罪を与えたのも、彼女……ネメシスであるとも言われているんだ。たかだか美しいが故の人間に過ぎぬ少年が、神からの愛を拒絶するなど許されぬとね」


弟であるケイが目を丸くする。そんな女神がなぜ、父の日記に登場するのか。


「もう一つは、大切に扱われなかった死者の念が生者に向かぬよう彼女を祀るという説もある。そこから、彼女は『復讐の女神』とも呼ばれることさえあるんだ」


「……復讐……」



貸してごらん。気軽に日記を手に取ったウィリーは、その記述を読み進めていくうちにおのが表情の凍り付く様を感じていた。

そこに書かれている儀式には、イヤと言うほど身に覚えがあったからだ。もちろん愛する義弟に話すわけになどいかぬ。


神に選ばれたと自称する数名の生徒らは、己たちを神になぞらえ、逆らう者へと制裁を加える。

そのときの恍惚感と高揚感、と同時に薄汚い下層階級の分際であるはずのケイから与えられた屈辱をも思い起こさせ、ウィリーは身体の震えを義弟に気づかれまいとするのに精いっぱいであった。


……あの事件の際、どれほど追求されようとも真実を知るウィリアムズだけは明らかにしなかった事実があった。あの組織は彼自身の発案などではない。代々、名門ハィロウズ・スクールのプリフェクトの名誉に与った者だけが知らされる秘密結社の存在。



我々こそが神より選ばれし者であり、それ以外の生徒らを支配するのだという思想は、途切れることなく受け継がれていった。教師すらも知らぬその大切な伝統を、布を無理やり手で引き千切るかのように乱暴に途絶えさせたのが、あのケイ・ハミルトン。

図らずも最後の支配者となってしまったウィリアムズ・パークスの胸中やいかに。それは決して口外することは許されなかったが故に、深い恨みとなって彼の心の奥底へとしまわれていた。


……そうか、ニコラス・ハミルトン子爵もまたハィロウズ・スクールのプリフェクトに違いない。彼もスクールの真の支配者であったのだな。それを断ち切ったのが、同じ名を持つハミルトン。皮肉なものだ……


ウィリーの目が細められる。表面上は協力しているように見えても、あのときの屈辱を忘れられるはずもない。




「義兄様?」


黙り込んでしまった兄に、不安を覚えたケイは思わず声をかけた。それにうっすらと微笑みかける。


「おまえの実の父親の形見なのだろう?大切にしなくてはね。見せてくれてありがとう。できればその……僕も同じ学校で興味があるのだけれど」


「一緒に読んでくれるの?」


無邪気に笑いかける愛する弟に、姿も知らぬ子爵の影を見る。


「ネメシスの名の元に固く結ばれた友情。そうやって書いてあったんだ。それは親友ということなんでしょう?義兄さまにも<親友>は多いし、友達のいない僕には羨ましいな」


それは計算など何もない純粋な憧れ。僕がケイにふさわしい友人を紹介してやるよ、そう言いかけたウィリーは、ハッとしてもう一度日記を開き直した。



……そう、だ。結社の統治者は一人ではない。その都度メンバーの構成も人数も変わるが、ニコラスが一人で組織を動かせるはずがないのだから。その仲間がいるはずだ……


破かぬように慎重にページを繰るウィリーが見つけた、その名とは。




知らずと彼の口元は歪められ、ウィリアムズ生来の気性をかいま見せた。


この素晴らしくもおぞましい貴重な情報を、どう使うべきか。彼は妖しくおのが指をそっと囓った。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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