#90
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毎日毎晩と出歩き、手駒を集め続ける日々。負けやしないさ。アデルの父親にはああ言ったが、賠償金が目的じゃない。罪を認めろ、AOKI。表向きだけでも過失があったと。それで……すべてを水に流してやると言っているんだ。Forgive and forget.何もかもがくだらない。
見えぬ右眼と、酷使している反対のブルーアイズが酷く痛む。掛けていたグラスをむしり取り、右手で押さえる。あの夜の感触さえ思い出されて、ケイは背筋がぞくりとした。
溢れて止まらぬのは涙ではなく、おのが血。目の前が真っ赤になる光景など見飽きてしまったはずだのに。
母が……今となっては誰が母なのかもわかりはしない。けれどキャリック=アンダーソンの母がかばい続けた背中から流れ、ケイの顔を染めていった鮮血は……彼をずっと苦しめ続けている。
ぬぐってもぬぐっても取り去ることのできぬ生臭いにおい。ケイはその場に倒れこみそうな徒労感を覚えた。
「お疲れかね、ハミルトン君」
ケイとは正反対に上機嫌さを隠すことなく、自動車協議会の会長であるスティーブ・マッコイは、彼に手を掛けてそう話しかけた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます会長。しかし、なぜ僕をまた?」
眩しさに目を細め、下から見上げるように苦笑いを浮かべてケイは問うた。自動車メーカーに対しての訴訟を起こしている張本人を、選りに選ってメーカー組織主催のパーティーに呼ぶとは。
「君の勇気ある行動に敬意を表して、ね。これは皮肉でも何でもない。ここだけの話だが」
声をひそめた会長は、一社以外の総意だよと付け加えた。
一社とは言うまでもない。ケイが闘う相手であるAOKI以外のメーカーすべては、ケイ側の味方だということ。
「僕の言うべきことではないのは重々承知です。しかし、このようなときにこそメーカー同士の結束を固めるべきではないのですか?」
しれっとした顔でケイは続ける。訴えている本人がよく言うよ。
イギリスには老舗と呼ばれる自動車メーカーがごまんとある。しかし高級車よりエコ、その潮流に乗り遅れがちであることもまた確かだ。
「ハイブリッド・カーの他社での開発は、進んではおられないのですか」
素人の素朴な疑問のように見せかけ、おれも酷いことを訊くもんだな。口元を歪め自嘲気味に目をつぶるケイに、マッコイは苦く笑った。
「コストが下げられんのだよ。もちろんどこだとて社運を賭けて開発に取り組んでおる。しかし、とてもAOKIのような低価格低燃費などという芸当はできん。日本を中心としたアジアに技術協力を求めれば、業務提携だのなんだのと足元を見られる。AOKIが技術を、EUとは言わん。せめてイギリス国内だけでも共有するという姿勢を見せてくれればよいのだが。もしくは……」
それが叶わぬのなら、新参者のAOKIなど訴訟でつぶれてしまえ、か。
おれはでかい風車に突っ込んでいくド素人のドン・キホーテ役をわざわざ買って出てくれた、間抜けな世間知らずと言った役どころ。業界にとっては自分らの手を汚すことなくAOKIが自滅してくれたらと願っていることだろう。
はん、どいつもこいつも。
四面楚歌のこの状況で、パーティー会場に凛とした姿を見せていたのは……クリスティアナだった。
よく、顔が出せたものだ。
厭味でも嫌悪感でもない。むしろ、そのけなげさが痛々しかった。
ああそうだ。初めて会話を交わしたのもこんなパーティーだったな。クリスは母親のオフィリアに隠れるように、そして美しいドレスを生かすことなく壁の花として。
オドオドと引っ込み思案だった彼女は、今や社長の秘書代わりとして飛び回っている。美しく聡明で快活だった母を、今では受けたショックからなかなか立ち直ることのできぬ母をかばい、休ませ、その役目を自ら引き受けている。
あのときと同じ。周りの大人どもは表だっては何も言わない。クリスの笑顔が切ない。
感じぬ娘ではないのだ。むしろ強すぎるほどの感受性を持つ、しなやかで強いレィディ。
話が途切れたのを機会に、ケイは彼女に近づいていった。殴られると思った。が意に反して彼女はケイへですら微笑みかけた。
「これは、ハミルトン子爵様。ご無沙汰しておりますわ」
何か言わなければ。しかしケイの方が言葉を失った。彼女の前でサングラスをそっと外す。痛ましげな視線を、直に感じる。
「何か話して、ケイ。周りから余計な詮索は受けたくないの」
これがあの、小娘か。芯の強さは誰に似たのだろう、な。
ほうっと息を吐き出すと、ケイはわざとおどけた声を出した。
「それではバルコニーなどいかがです?この季節には風が気持ちいい」
初めて逢ったときのように。それをなぞるかのように。彼は通りがかったボーイから薄淡いゴールドのシャンパングラスを取ろうとして、取り損ねた。
「!?」
咄嗟に手を伸ばし、それを受け取るのはクリス。少しばかりかいま見えた彼女の素顔。
「……まさか、見えてない、の?」
ケイは彼女の背中を押して、黙ったままバルコニーへと向かっていった。
「見えるよ。左眼には何の損傷もない」
「右は!?あなたのその美しい!!」
黒い瞳は何も映さない。ケイの無言がすべてを語る。クリスは唇を噛んだ。
「隻眼には慣れていなくてね。ときどきああやってカップが宙を舞うことになる。反射神経のいい君が居てくれて助かった」
ふざけた物言いは続く。いつまでもこうやって戯れ言めいて話していられれば。中身がどれだけ悲惨なことであっても。
「訴訟を取り下げて!」
思い詰めたようなクリスの声。
「直球で来るねえ。取り下げないよ。最後まで徹底的に闘う」
「AOKIに過失はないわ。これ以上いくら証拠を集めようとも無駄よ」
「知ってるさ、過失のないことくらい」
ケイのさらりと口にした言葉に、クリスは目を見開く。
「それを法廷の場ですべてばらすだけの度胸が、AOKIに……君にあるとでも?君らに過失はない。しかし、AOKIが選ぶのは過失を認め、十分な補償を遺族に対して行うこと。他の選択肢はない」
私が、憎いからなの?聞き取れぬほどの呟き。まさか。声にならないケイのいらえ。
「愛しているのだと、どこか何かがつながっているのだと信じていた。それが家族としての情愛だとは思わずに」
クリスの言葉に、その情報はもうリンク切れだよとは言えなかった。いや、ケイは言わなかった。
懐かしかったのだ。まだ乳飲み子特有のあの甘い香りが。どれだけ愛情を奪い合ったとしても、大切な妹だから自分が守らねばと抱きしめ続けた。その記憶だけが二人を引き寄せていた。
愛なんかじゃない。
それは二人がよくわかっていること。たとえケイが真実を語ったところで、二人の間にあったものは変わらない。それは愛ではない、と。
ならこのまま、クリスティアナには何も言うまい。兄妹間で憎しみ合うというありふれた物語に落とし込んでしまえ。
涙腺も壊れてしまったのか。空洞と変わらぬ黒い瞳からは涙さえもにじまない。
「AOKIは正攻法で闘うだけよ」
「こちらには試作品があるんだよ?」
不当な手段で盗み出されたものね。クリスの言葉は冷たかった。君は共犯者なのに。ケイはその言葉さえをも飲み込んだ。
「怖くはないわ。真面目に誠意を持って安全な車を売り続ければ、いつかこの国にも受け入れてもらえる。私はそう信じている」
「その歴史がもうすでに、血まみれなのに?」
ほんの小さな声を上げて、ケイは嘲笑った。胸を苦いものが通り過ぎる。
「ねえ、僕たちは敵同士なの?本当に闘うべきものは別にいるのではないの?一緒にそいつを倒そうとは……思えないの?」
その言葉に、クリスはそっとおのが首の後ろに手を回した。肌身離さずつけていたアンティークルビーのネックレス。それをケイに差し出す。
「……これは、君にあげたものだ……」
突然の行動に焦りを隠せず、ケイはうろたえた。
黙って彼女が、そのアクセサリーをケイの手に置く。思わず裏を確かめてしまったケイが小さく舌打ちをする。
もちろん、極小の盗聴器などは外されていた。
「最初からそのつもりで近づいた。AOKIを倒す為?私を殺す為?騙されていたことを怒ってなどいないわ。信じられるものが、一つ減っただけ」
淡々とした物言いに、クリスの透明な哀しみが伝わってくる。
「一つだけ言わせてくれ、クリスティアナ。全知全能の神を騙り、おれたちをチェスの駒代わりに使い続けている男が居る。おれたちはその男こそ糾弾されるべきだと考えている。なのに、おれたち二人は闘わなければいけないのか?」
すべての理屈を放り出して、抱きしめてしまいたかった。君は妹なんかじゃないと叫びたかった。サラ夫人を母親と思えと言われても、とうてい受け入れがたいけれど、それが君を愛する支障を取り除いてくれるのならと。
視界の欠けたその瞳で、ケイはクリスティアナを見つめ続けた。甘い言葉など何もないのに、伝わることを信じて。
そんなケイを切なげに見返したクリスは、その男ならよく知っているわと呟いた。
「母は、オフィリアは隠し通せると思ったのでしょうね。でも私は知ってしまった。私たちを操る男こそ、デリック・エマーソン。そして、彼こそが私の……父だということさえも」
ケイはその場に凍り付いた。もう動き出した時は止められはしない。
「法廷で会いましょう。それではごきげんよう。ロード・ハミルトン卿」
たくさんのものを失ってもなお、闘わなければならないのか。
ケイは一人残されたバルコニーで、人知れず天を仰いだ。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved