#88
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「相手側から届いている訴訟内容を、至急確認してください。そしてこちら側の具体的資料の用意を」
わかりました、お嬢様。その言葉に「呼んでいただけるのでしたら、青木でけっこうです。ここではただのインターンシップの身ですので」と事務的に答える。 クリスティアナから、以前のふわりとした甘く優しい雰囲気が消え、彼女の表情は常に硬く引き締められていた。ことに会社にいる間は。
一学生、それもお嬢様大学での花嫁修業程度にしか考えていなかった彼女にとって、AOKIで善治郎の片腕となり、実務を任されるのは実際荷が重すぎた。 それでも誰かがやらねばならない。事情と深い実情を知る者が誰かは。今はとてもどの重役に対してでさえ、それを頼める気持ちすら湧かなかった。
すべてが敵。
疑心暗鬼にいつも仕事に追われていた義父の気持ちが、ほんの少しだけでもわかるような気がする。
家に帰れば、母であるオフィリアは沈み込んで伏せっていることが多い。彼女にも温かい声を掛けることが多かった。 あの引っ込み思案で、快活な母の陰に隠れていた私はどこへ行ってしまったのだろう。時折クリス自身も苦笑する。 私はたくさんのものに堅く守られてきた。おまえは何もしなくていい、周りが助けるからと。それは溢れるばかりの愛情と庇護の気持ちからであることは十分承知している。けれど結果的に、クリスは自分が一人では何一つできないのだと思いこむだけの十分な根拠となってしまっていた。
そうではないのだ。私は闘える。誰と?何に対して?小さく息を吐き出すと、彼女は目の前の書類を手に取った。
「社長」
小さくノックしてから、クリスは重厚な本社の社長室のドアを開けた。なんて他人行儀な。仕方がない。つい、ほんの少し前までは名ばかりの家族で全くの他人だった。母がなぜ結婚を決意したのかさえ理解できない。私の経済的な面を重視したのか。他の理由は…今は考えたくない。
「……クリスか。悪いな、大学をずいぶんと長いこと休ませててな」
まるで普通の父親の心配事のようで、またもやクリスは笑いそうになった。私は義父の何を見てきたのだろう。仕事に没頭することで家族を避けてきた人。でも彼の収入で私は何不自由なく生活してきたことは事実なのに。
「原告側の主張をまとめさせました。ざっと概略ですが、目を通していただけますか。また、今まで起きたリコール問題も一つずつ洗い直しているところです。今のところ、AOKI側に問題は見あたりません」
きびきびと話すクリスに、善治郎は驚いたように顔を上げた。 「そこまでおまえが、一人でやったというんか?」
実際には、多くの役員にレクチャーされながらです。照れくさそうに笑う彼女に、ようやくふだんのあどけなさが戻る。
「私は全くの素人です。正直に言います。ついこの間まで、すべての責任はAOKIにあり、それらは安全性よりも収益を上げることを重視していたから。そう信じていました。けれども調べれば調べるほど、AOKIは決してそんな会社ではない。ようやくそのことがわかってきたのです。そしてだからこそ、社長の対応が不思議でならない」
社長だの何だの、堅苦しい。善治郎の寂しげな呟きに、オフィシャルとプライヴェートはきちんと分けたいのですと答える。
「なぜ、AOKIの正当性を訴えなかったのですか?リコールはすべて受け入れ、その上で議員のみならず貴族院にまで手を回し、ことをうやむやにしようとする。そのせいかマスコミも大きく騒ぐこともないし、ごねる被害者にはかなりの額の補償をしていると聞きました。ここまで卑屈になる必要があるのですか?リコールの件は、再考やきちんとした科学的データの提出を求めてもいい場合が多い。とてもすべてがAOKIのせいとも思えない。なぜ、きちんと反論しないのですか?」
数ヶ月前までと全く違う顔を見せる義理の娘に、頼もしげな視線と一抹の寂しさを含ませた感情を見せる善治郎は、ゆったりとした革椅子にもたれかかった。
「わしらのようなものは、相手にされんからだよ。いくらこっちが正しくてもな」
あからさまな階級社会では、AOKIのような新参者は受け入れられない。ましてや労働者階級に安価で安全な車を供給したいという、善治郎の気持ちなど理解しようとも思わないだろう。
「日本にはな、長いものには巻かれろ、ということわざがあるんや。If you can't beat them, join them……やな。この国ではどうあがいても、貴族様には勝てんわ。徹底的につぶしに掛かられた。この国で安い車を売るのが、そんなにイヤなんか?」
最後の言葉は、おそらく彼の抱えていた本音だろう。誠心誠意という言葉が通用する日本と、奥深いところで病理を抱えるこの国と。
「今まではともかく、これからのリコールについてはきちんとこちら側の調査を行い、正当性を主張していきましょう。そして、ハイブリッド車の環境問題に対する影響力の大きさを、もっと大きな声で訴えていきましょう。さらに……軍からは手を引きませんか?」
さすがに、軍に対しての提言は声を落とし、相当の覚悟でクリスは口にした。
ダーティなイメージを一掃するのだ。クリーンで透明度の高い会社にしていかなければ、逆に世界では戦えない。
「そんな無茶な!ようやく食い込んだんや。このルートを抜きにして会社の発展は考えられんからな」
「ならば、なおさら手を切りましょう。AOKIは日系企業です。建前と言われようともクリーンな部分を前面に押し出すのです。もちろん、EU諸国との連携を視野に入れましょう。そうすればクインシー・キャリック=アンダーソンの主張する特許権が意味をなさなくなる。リチウム蓄電池の開発を進めたのが彼の父親であったとしても、それを小型化したのは日本の伝統技術の粋の賜です。そうでしょう?」
水面下で脅しを掛けてきたクインシーの名を、さらりと出す。善治郎の顔が引きつる。 ことは急を要する。クリスティアナは呼吸を整えると、静かに切り出した。
「社長、いいえ、お義父さま。私の以前の名前をご存じですか?」
何を今さら、という戸惑いの表情を浮かべ、善治郎がオルブライトの名を口にする。
「その前に私は、こう呼ばれていました。クリスティアナ・キャリック=アンダーソン、と」
大きく見開かれた目。それがすべてを語っていた。
「おまえも、わしを恨み続け、ここまで上り詰めてきたというんか……」
震える彼の声に、大きく首を横に振る。
「いいえ。私はおそらく実父や兄の性格を受け継いでいるのでしょう。欠片も覚えていない原家族への思慕の気持ちは全くないのです。私を実質的に育ててくれているのはお義父さまですわ」
何と答えたらいいのか。善治郎が言葉を失う。
「そして、ケイ・ハミルトン子爵の本来の名もまた、キース・キャリック=アンダーソン……」
あれは、肉親としての情だったのだ。記憶に残るはずもない幼い頃、抱きしめられた肌の記憶が蘇っただけ。実際に二人が保護されていたエリザベス・アン・セトン=ハウスも捜し当てた。懐かしさに涙してくれるシスターたちから、当時の話も伺えた。
兄は私を抱きしめて離さなかった。私がケイに惹かれたのは…ただの遠い記憶のせい。
「お義父さまに対して、憎しみなど全くありません。ただ一つだけ、どうか私には正直にお答えいただけませんか?お義父さまは……キャリック=アンダーソン夫妻を殺害した実行犯なのですか?」
彼の震えは止まることがなかった。歯を鳴らし、過去の記憶に復讐されているのがありありと伝わってくる。
「だ、だ、騙されたんや!!わしは何もしとらん!!その場に、ただ……いた……だけ」
……わしを殺すんか、それとも殺人者として訴えるんか。
途切れ途切れの呟き。 クリスティアナは、逆にどんどん気持ちが冷めていった。私が望んでいることはそんなことじゃない。
「糾弾するつもりもないとお話ししたはずです。私は彼らに対しての記憶など何もない。思い入れもない。ごめんなさい、薄情な娘で。正直にお話くださってありがとうございます、お義父さま。これで気持ちが固まりました」
次から次へと変化する状況について行けぬ善治郎に、クリスティアナは微笑みかけた。
「私は、今日からオルブライトでもありません。私の名は<クリスティアナ・青木>。闘いましょう、不当な圧力を掛けてくる目に見えないヨーロッパという風土に対して」
兄と、兄たちと闘う。一度は愛した彼とも。 クリスティアナは、真っ直ぐに善治郎を見据えた。
(つづく)
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