#86
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耀司がいつものように屋敷の重たい扉を開けると、ケイは一心不乱にモップがけをしていた。例のごとく綺麗にプレスされたスラックスの裾を折り曲げ、髪を縛り、たった一人で。
以前と違うと言えば、床には割れた花瓶の欠片とお気に入りだったカップが砕け散っているということ。そして、それを気にすることもなく力を込めつつ、ケイは何度も使い慣れたモップを動かすものだから、床にはわずかずつ傷が増えてゆくということ。
「おい!ケイ!!やめろ!…おまえ今日も、ろくに見えてないだろ!?」
その声が届いたのかどうか、彼はふと手を止めると近くのカップを取り上げようとした。無惨にも欠けてしまっているマイセン。鋭い断面でみるみるケイの指先が赤く染まる。
耀司は息を飲むと、無言で彼に近づきその腕を握りしめる。ぐいと引っ張り、無理やり顔をこちらに向けさせる。案の定、彼の視線は耀司を捉えることができずにいる。
「…全く…見えないわけじゃない。精神的な問題だとはっきり言われている。…光はわかる…耀司の顔…も、わかる…」
ケイの言葉に力はなかった。ラザフォード夫妻を代表とする遺族会をまとめ、弁護団と協力してAOKIの過失を認めさせる。やらなければならぬことは多い。何の為に…?何の…。
ケイ・パークスとの会話が遠い過去のようにしか思えない。彼の言った言葉一つ一つに薄い紗が掛かる。
「おまえは…正真正銘のケイ・ハミルトンだと、パークスは証言した。だろ?」
だからなんだ。うめくようなケイの呟き。耀司は表情を歪めた。
「おれだって、ここに長居するつもりはない。ハウス・キーピングを依頼するほどの金はない。せめて少しでも綺麗にして、彼らに受け渡す」
「要らないと言われたのだろう!?」
耀司の苛立ちはどこから来るものか。本人でさえ理解はできなかった。ただただ、目の前で絶望に包まれているケイを見るのが辛かった。
「ハイエナどもにくれるくらいなら、少しでも金に換えてエリザベス・アン・セトン=ハウスか何かに寄贈するよ。それなら気も少しは晴れるだろうし」
「闘うのを止めるのか!?」
何と闘えばいいんだ?悲痛なケイの声。どれが真実なのか、誰を信じればいいのか、全くわからない。目の前にいる耀司ですら、おれは信用していいものなのかどうか。口にこそ出さぬがそこまでも追い詰められていた。
もう誰が父でも母でも構わぬ。血縁関係と複雑に絡まり合った大人の事情などたくさんだ。おれは一人なのだから。名などない。明日からその辺に転がっている名前でもつけてやるさ。周りも困るだろうからな。
耀司が苦心してケイの指を手当てしている間、彼は放心状態で何も言わず遠くを見つめていた。その光を通さぬ黒い瞳で。
「すべてを、あきらめるのか?」
辛い問い。耀司だとて誰一人肉親を知らぬ身。それでも自己のアイデンティティを保ち続けてこられたのは、「yoji・yamashita」の名であることに気づいているのだろうか。
愛情があったのかなかったのか。ただの厄介者だったのか。そんなことは知らない。見よう見まねで書き殴ってみた「ようじ」「ヨウジ」そして…「耀司」。耀の字には華やかに光り輝くという意味があるのよ…日本かぶれの誰かが教えてくれた言葉。だからきっとあなたも、才能を花開かせるときが来るわ、と。
その字を選んだのは誰だったのだろうか。遠く足を踏み入れたこともない祖国に思いを馳せる。
「アンノーン(unknown…未詳)」と自虐的に呟いたケイは、ようやく本来の名を取り戻したのではなかったのか。
ザ・ヴァイカウント・オブ・ハミルトンこそ、彼に附随している正式名称。ああしかし、
だからそれが何になるというのだ。ここまで失われたものの大きさを思えば。
「何もかも…失った」
ケイの言葉。重苦しい静寂。思い出さえもすべて。
しかし全くの無を突き破るかのように、ぎいと開けられたドアから見えた靴先は…。
押し黙っていたかつての野良猫たちは、びくりと身体を震わせてそちらを見た。
「どうも我々は往生際が悪いと評判でね」
どさりと古めかしい書類の束をテーブルに投げ出したのは……ダリル・カークランド警部であった。
「ずいぶんとまあ、不用心だな。鍵も掛けずに」
火をつけぬタバコだけをくわえて、そう言い付け足す。後ろからの嬌声はいったい…。
「何よ。どうせ鍵なんか掛かってたってとっくにスペア・キーくらい入手してるくせに」
「ちょっとお!女にこれだけの荷物を持たせて、あなたそれでも生物学上の男なの!?」
「けが人を大事にしないつもり!?」
「いつまで仮病使って甘える気よ!?」
うるさい!警部に一喝され、あとからの二人は一瞬だけ口をつぐんだ。しかしその後はかしましくわめきながら、勝手にハミルトンの屋敷に入り込むと好きずきにその辺の椅子へと腰掛ける。
「ちょっ!ちょっと待ってくれ!!あんたたちいったい!?」
さすがの耀司も不意の襲撃にあわてふためく。そこに揃っていたのは警部以下、アニーとミミだったからだ。
カークランドはいつもの冷静さや折り目正しさという仮面を脱ぎ捨て、どさりとソファに座り込む。
手には、先ほどよりももっと分厚いファイル。それをまたもや投げ出す。
「これで私の有給休暇と上層部からの品行方正との折り紙付きな信頼をすべて失った。責任はきっちりと取ってもらうからな」
仏頂面でそう吐き捨てる。途端に吹き出すのはもちろんアニーだ。あんたにお上の信頼なんて元々あったっけ?そのつっこみにぎろりと視線を向ける。
「待ってくれ!いくら俺でも何が何だかさっぱりわかんねえよ!?」
耀司の言葉に、ミミは瀟洒なテーブルに頬杖をつき妖艶な笑みを浮かべた。
「東洋系の男もいいわねえ。ブラック・アイズにこれだけの魅力があったとは思わなかったわ。もう二度とイギリス人なんて相手にしないことにしようかしら」
その甘ったるい声に、耀司は目を白黒させた。何かを言い返したくても言葉がうまく出てこない。
「これがケイ・ハミルトンの出生登録証明書の写しだ。この私を区役所の事務員扱いしたのはおまえたちが初めてだからな」
カークランドの機嫌は直らない。しかし彼らは、思いつきもしなかったその書類に群がった。
「こっちから攻めていく手もあった…のか」
気づくのが遅すぎる。ダリルが冷ややかな視線を耀司に注ぐ。しかし彼は意に介さず出生年月日に釘付けとなっていた。
「これは…ケイじゃ…ない。歳が」
「そうだ。この書類はあくまでも現在のケイ・H・パークスのもの。彼は生まれてすぐニコラス・ハミルトンからの認知を受けてこの家の嫡男として家に入っている」
「じゃあ!!ここにいるおケイちゃんはどうなるのよ!?」
ミミに支えてもらいながらみなと同じ輪に加わろうとしたケイが、視力を少しずつ取り戻しつつある碧い瞳を見開く。
「英国の特別養子制度を聞いたことくらいはあるだろう?ここにいるケイ・ハミルトンは出生後すぐにキャリック=アンダーソン夫妻の養子となった」
なぜ!?ケイを除く全員が声を上げる。知るか!それがすっかり素に戻ったダリルのいらえだった。
「ともかく、生まれてすぐに彼はリチャードの元へと引き取られていったらしい。すでにクインシーは十歳を過ぎていただろうから彼は事情を知っていただろうが、黙っていやがったのはわざとだろう。そして、その仲介をしたのが…」
みなが口をつぐむ。一番そうであって欲しくない最悪の想像、得てしてそういうものは当たってしまうと相場は決まっている。
「まさかあんた、その仲介者が」
そうだ、まさかの-デリック・エマーソン-だよ。
ぎり。あまりの静けさに、ケイの食いしばる歯の音さえ聞こえる。
「何であいつがどこまでもそうやってちょこまかと!!」
耀司。ダリルは初めて彼に向かってそう呼び捨てた。さまざまな思いを抱えながらも。
「もう一度訊く。あの事故の日、ハミルトン家を訪れる予定であったのは誰だ?」
もちろん、エマーソンだ。
「それはなぜ?」
彼は、先代の子爵であるニコラス・ハミルトンの同窓であり旧友であるという。
「で?どこで同窓だったというのだ?」
苦さを込めた含み笑い。ああ、確かケイが入学した名門ハィロウズ・スクール出身だと。
「では、ミミ。エマーソンがクインシーを援助した表向きの理由とは?」
こちらも複雑な想いが交差する。それらを飲み込んでミミはさらりと言ってのけた。
「言ったでしょう?同窓である旧友の忘れ形見を援助した…い…と。…!?」
ここにもあるのだよ、ミッシング・リングが。重みのあるダリルの声が低く響く。
「で、では…先代の子爵もリチャード・キャリック=アンダーソンもそして、エマーソンもすべて同じパブリックスクール出身者…」
同じ歳で机を並べた仲、そうだったよな?今度はダリルがアニーを振り返る。
「そうよ。同い年でクラスも一緒。同じ寄宿舎で常に行動をともにしていたと。これは当時のクラスメイトからの証言を得ているわ」
彼らは知り合いだった。いや、深い友情で結ばれたはずの友だった。
「それでも、エマーソンはリチャードを憎んでいた…」
呟くミミに視線が集まる。そうだ、決して対等な立場とは言えなかったらしい。ダリルが補足する。
「当時のプリフェクトがニコラス・ハミルトン子爵。そして首席で卒業したのがリチャード。彼らについて回っていたのが…」
「要は使いっ走りだったエマーソンって訳ね。同窓生たちの言い分とも一致するわ」
どういう事情があったかは、これから調査を進める必要がある。しかし彼らに共通点が見つかった以上、今までの事件事故はすべて無関係とは言えなくなった。そして…。
ダリルは不意に言葉を切ると、ふだんはめったに見せぬほどの柔らかい表情でケイを見据えた。
「証拠ならまだまだ見つけてきた。これで信じるか?君は、正真正銘ニコラス・ハミルトン子爵とサラ夫人との間に生まれた実子だ。君の母親は、本当に彼女だったのだよ」
一言も話さず身じろぎ一つしなかったケイは、ただただ首を横に振り続けた。
「ケイ?本当の御母様がわかったのよ?あなたはちゃんとサラ夫人に愛されていた。その事実があなたにはあるのよ?」
ミミの優しげな言葉にも、頑なな表情を変えようとはしない。
「ち…がう…。母親なんか…じゃな…い」
「ケイ!!おまえは本当に愛されていたんだ!!それも本物の母親にだ!」
耀司がたまりかねたように叫ぶ。それに負けぬほどの大声で、ケイは悲痛な声を上げた。
「違う!!おれは身代わりとして愛された!!耀司は…耀司はそばでずっと見ていたじゃないか…。消えた本物のケイの代わりに、似たような野良を連れてきたのだと!!」
オッド・アイを手がかりに必死に探し回った中年の上流階級ふうの婦人がいたことは、当時のコックニーでは有名だったわ。静かにアニーが付け加える。
「なぜ、なぜ今になってそんな…そんなことを…。本物ではないと、これはかりそめのものだと、ずっと思いこまされてきた子どもの気持ちがわかるか!?もう……ハミルトン夫人もいない…のに…」
ぐらつくケイの身体を、細いミミが支える。そっと髪に手を回し引き寄せる。
みなが言葉をなくす中で、ケイは彼女の身体にすがって肩を震わせるばかりだった。光を失った黒い瞳からは涙が流せない。それでも心から流れる真っ赤な涙が見えるかのように、静寂だけが辺りを支配し続けた。
(つづく)
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