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#85

#85



ケイはハミルトンの屋敷のキッチンで、ティーサーバーのセットをしていた。よく使い込まれ、ケイ自身の手で磨かれたもの。何をどう配置すればいいかなど、身体が覚えているはず…だった。

欠けた視界。頻繁に彼を襲う酷い目眩。せめて割れぬようにと何とかカップを寄せると、ケイはシンク前の床にうずくまった。うっとうしいサングラスをむしり取る。失われたのは右視神経の機能のみのはず。だのに何故……。


今のケイには、周りの景色がすべてぼんやりとしか認識することができなかった。何度も検査が行われ、それでも異常は見つからない。おそらく精神的な視野狭窄が起こっているのでしょうとの主治医の言葉。

片方の視力が極端に低い、あるいは全く機能しないという人間はそう少ない存在ではない。日常生活を制限される人もいるが、その殆どが単体の瞳ですべてをカバーするように暮らすことができる。

あなたも同じです、と何度言われただろうか。それはいつ来るのか。ケイは日常生活がままならないことに少しずつ苛立ちを募らせていた。


しばらくすれば落ち着く。見えるようになる。それはわかっている。

しかし、いつ見えない瞬間が来るかがわからない。突然襲われる歪められた世界をケイは恐れた。

そう、おそらくこれは器質的なものではない。精神的な問題なのだろう。おれに必要なのはやはり精神科医かセラピストか。

穏やかな顔つきの、過去を引きずり出したセラピストを不意に思い出す。

思い出してよかったことなのか。しまい込んでおくべきだったのか。考え出すと割れるように痛む頭と酷い吐き気。


いつまでもこうしていては怪しまれる。すでに客をだいぶ待たせているのだ。


同じ名を持つ、ケイ・ハミルトン・パークスを。



彼は、保護者として当然のようについてきた義兄を追い返した。ウィリーはたいそう不満げだったが、仕事に追われる身でもあり、とりあえず終わり次第迎えに来ると言い残して去っていった。何かあればすぐに連絡をするようにと固く約束させて。

もちろん、ケイ・パークス専属の世話係は屋敷の前で車を止め、話し合いが終わるまで大人しく待機している。何かあれば…それこそ飛んでくるのだろう。ボディー・ガードとして。


一方、今日のケイは一人だった。常にそばにいるはずの耀司はパリに向かい、ミミと行動をともにしているはずだ。いつの間にか作られた即席の特製チーム。それぞれが敵であり、思惑を持っていた、あるいは持っているであろうに。

共通するのは……デリック・エマーソンの真の恐ろしさを知っているということだけ。


脚が悪く、クラッチを手放せないケイ・パークスは、ただ一人リビングのソファに座って大人しく待っているのだろう。懐かしがっているのだろうか、幼い頃過ごした屋敷の風景に。


吐き気と目眩を何とかこらえ、ケイは立ち上がった。ふだんめったに使わないサーブ用のワゴンを耀司が探しだしておいてくれた。それに寄りかかる。その頃にはだいぶ彼の視力も視界も回復してきていた。これから始まるのはただの話し合い。闘いではない。ケイは息を大きく吸い込むと必死に心を鎮めようと努力した。


「おかまいなく。お怪我されたばかりで何かとご不自由でしょうから」


ケイ・パークスはそう言って微笑んだ。自分が手伝えればいいのですが…。申し訳なさそうに付け足す。


「あなたにとっては、住み慣れた屋敷でしょうから。どこに何があるかなどおそらく僕よりよくご存じだ。そう仰りたいのですか」


ケンカを売るつもりはなかった。しかしつい口をついて出るのは棘のある言葉ばかり。パークスの弟を前に、同じ形のソファに座り込んだケイは黙ってサングラスをかけ直した。


「今日は、はっきりと僕の考えをあなたにお伝えしたいと思って参りました。兄のウィリアムズにもこのことは話してはいません。あくまでも僕一人の思いと捉えていただければと」


…何を言い出すのか、この本物の子爵は。彼こそが先代の子爵の血を継ぐ正統な後継者。だからこそウィリアムズ・パークスは彼を正式なハミルトン子爵として認めさせると息巻いているのだろうに。無論、おれに異論があろうはずがない。ただもう少し、ほんの少しだけ時間の猶予をくれと頼んでいるのだ。裁判が終わるまでと。

それまではこの「ハミルトン子爵」の名は非常に威力を持つ。使わせてくれ。サラ・ハミルトン夫人の無念を晴らすまでは。


どんなことを言われてもそれだけはわかってもらうつもりだった。裁判さえ終わってしまえば、おれはどうなってもいい。告発されようが起訴されようが、罪を償えと言われればいくらでも服役でも何でもしてやる。もちろん、子爵位も屋敷もほんの僅かに残された土地も、彼に正統な後継者に返すのは当たり前だと最初から言ってある。それとも彼は、もっとこのおれに、何かを請求したいとでもいうのだろうか。それが己の生命であるのなら、遠慮など要らぬのに。


ケイ・パークスを追い出し、ハミルトン子爵の名を騙り、居座り続けた野良猫。どんなに罵られてもいい。外人部隊で人を殺してきた過去を暴きたいならすればいい。社会的な制裁も糾弾も、いくらでも受けてやるさ。


しかし、ケイ・パークスからの言葉は全く違うものだった。


「僕は子爵位を継ぐつもりなどありません。もとよりその資格もないのです。この屋敷に住むことなど、当然考えてもおりません。義兄がパークスの家を出ろというのであれば、母とともに住む場を探そうと思っています。どうかそのことを、ハミルトン子爵にお伝えしたくて」


かたん。


手にしたカップが傾く。中身がこぼれたのかどうかさえ、感覚で探るしかない。ケイを覆う視野の闇が、若き青年の本心をも隠してしまうかのように。

そっと手が差し伸べられ、カップは無事に彼に渡った。ここには使用人もメードもいない。すべてケイ一人が管理維持してきた。好むと好まざると。三年間のフランス生活から帰ってきてまず始めたのが大掃除。心の中まですべて捨て去りたいくらいの重さを抱えて。


うつろな瞳でケイ・パークスの方向に顔をむける。左は光も輪郭も捉えられる。視力を失った訳じゃない。頭では理解しているのに、すべては薄いカーテンの向こう側。

あきらめてケイは、掛けていたグラスを外して両眼を手で覆った。こうしていればゆっくりと周りが見えてくるのを覚えたからだ。とっさの行動に反応できないだけのこと。わかっている。それがもどかしいことも。


「……君はこの屋敷で生まれ育った…」


ケイが呟く。隅々まで知っているだろう。おれなどよりよほど。


「ええそうです。僕は確かにここで生まれました。しかし育てたのは実母ではなく、サラ夫人です。生まれてすぐに母のアマンダから引き離されたと聞かされています。なぜだと思いますか?」


彼の声は優しい。ハミルトン夫人に似ている。血のつながりがないとは言え、マダム・サラが大切に愛情を込めて育てたからだろう。ケイはそう考え、胸に僅かに生じた痛みを無視した。


「これは想像ですが、失礼。パークス君と呼ばせていただいてよろしいでしょうか。君を後継者にと考えた先代の子爵が、貴族としての生活を身に付けさせる為にここへと引き取った。そうではないのですか?」


優しいサラ夫人の元で。ケイのうめくような言葉に、パークスはまるで兄のウィリーのような表情を浮かべた。



「母から引き離された僕が、ここで幸せに暮らしていたとでもお思いですか?」


ケイはわずかに視線を動かす。こいつは何を言い出すつもりなの…か。


「財産譲渡や遺産問題で揉めることが厭だと申し上げているのではないのです。お恥ずかしい話ですがこれは全くの僕のプライヴェートな問題であって、母のアマンダとの静かな生活を守りたいだけです」


淡々とした声が、ケイをゆっくりと混乱させていく。


「はっきりとお話ししましょう。僕はもう、この屋敷に戻りたくはない。いい思い出があるはずもないこの空間には、ね」


パークス家には、こういう言葉の言い回しが似合うのか。兄を思わせる突き放した言い方。


「…サラ夫人は、行方のわからなくなった君を必死に捜した。それまで足を踏み入れたこともない下町まで一人で行ったこともあったと聞いている。たとえ血縁関係がなかろうが、君はれっきとした子爵の後継者としての教育を…」


「その御立派な母に、殺されかけたとしてもですか?」


選りに選ってこんなときには、おれの視界は戻るのだな。あまりの皮肉さにケイは唇を噛む。目の前の穏やかなパークスが、ゆっくりと変貌を遂げてゆく様がまざまざと見て取れる。


見たくない。それは自分ではどうやら制御できないらしい。苦い笑いがこみ上げる。


「マダム・サラが君を殺そうとしたというのですか?つまり、彼女の養育態度は周りが思い描くようなものではなかったと。礼を欠いた言い方で申し訳ないが、それは愛人である君の御母様を憎むが故にですか」


「ハミルトン子爵、僕はそんな曖昧なことを言いたいのではありません。僕の脚に残る傷は、彼女が僕を殺そうと銃を向けたからです。幼い頃の記憶だと一笑に付しますか?幼くはない。それがこの家を命からがら逃げ出すことになった九歳の頃の記憶だからです」


まさか!!テーブルに手をついて、思わずケイは立ち上がった。ぐらりと揺れる身体。しかしそんなものに構っている場合ではない。


「なぜハミルトン夫人が君を殺さねばならないのです!?あんな…あんなに……」


「優しくて善良な、ですか?あなたにはそうだったのでしょうね。ケイ・ハミルトン子爵殿。でも、父と逃げ出した僕は川岸に追い詰められ脚を撃たれ…父はそのまま橋から突き落とされた」


おれを傷つけたいのならそうすればいい!!けれど、ハミルトン夫人を貶めるような言葉で思い出までをも穢そうとするな!!


叫んだつもりだった。大声で怒鳴ったはずだった。しかしケイの声はかすれ、届いたのはおそらくパークス本人のみ。


「僕は事実を述べているだけです。ご安心ください、死者を鞭打つつもりはない。このことは僕と母のアマンダしか知り得ないことですし、誰にも話す気はありません。義兄にはもちろん。ただ、そういう事情があるのでここには戻らないとお伝えしたかっただけですから」


パークスに笑顔が戻る。生き物の血が通わぬような陶器の肌。ああこいつはやはり、もはやウィリアムズ・パークスの弟なのだ。

酷いやり方で過去をねつ造し、おれにダメージを与えたいのだろう。それほどの憎しみ。だったらおれを直接殺してくれればいいのに。


言葉を失い身体を震わせるケイに、パークスは座るよう促した。疑ってらっしゃるのも無理はありません。微笑みをたたえたまま、残酷な言葉は続く。


「幼い君を大切に育てたマダム・サラに、そんなことをする理由が見つからない!!」


そっと顔の前で指を組んだパークスは、怯えるケイをのぞき込むようにした。


「まだわかりませんか?僕が撃たれ、追われた理由を。あなたという存在が見つかったからですよ。その事件の直前にでしょうね、おそらくは」


「!?」


ハチュウルイ…彼は本当のウィリーの弟ではないのに。ケイの目眩は酷くなるばかり。なのに視界だけはクリアーになってゆく。パークスの細やかな表情がはっきりとわかるくらいに。


「キース・キャリック=アンダーソン…いえ、ケイ・ハミルトン。あなたこそが先代のニコラス・ハミルトン子爵とサラ・ハミルトン夫人の実子なのですから」


誰かこの、小難しいパズルを解いて見せてくれ。


オレハダレダ。ケイの視界は再び閉ざされ、彼は闇の中へと放り出された。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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