#80
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ロンドン市街中心地の老舗ホテルには、人目を避けての会合に使えるような要人用の出入り口が地下にある。
裏ではどうか知らないが、表面上は一介のフランス企業重役にしか過ぎぬクインシーは、音も立てずに高級車をそこへとすべらせるように向けた。
最上階の角部屋に待つのは、デリック・エマーソン。この時期に彼に接触するのはよほど気を配らねばならぬ。
「アンディは失敗したようですね」
開口一番、責め立てるようについ口をついて出た。最期まで見届けるべきだったか。悔いが残る。エマーソンはペットボトルのミネラルウォーターをそっとテーブルに置くと、ゆっくりとクインシーに向き直った。無言のまま。
「キースとクリスティアナも生命に別状はないということですし、肝心の次世代リチウムイオン一次電池の試作品も手には入らなかった。イヴェールとしては当然、あの技術がこちら側に渡るものとして計画を立てています。このままでは先々に支障が出ます」
「君としては…」
重々しく口を開いたエマーソンは、恰幅のよい体躯をストライプのスーツに包み、表情はいつもの穏やかさを失ってはいなかった。あれだけの事件のあとだというのに。
「兄妹らの消息と、企業機密と…どちらが大切なのかね」
あくまでも静かな問い。クインシーは眉をひそめた。
「答える必要もない愚問ですね。意味のない行動は好きではない。何らかの手は打ってあると解釈してよろしいのですか?」
アンディはSIS(イギリス情報部)に身柄を拘束され、彼からの情報は途絶えている。しかしクインシーが去ったあと、何が起こったのか。ここにいる二人にはもちろん、伝わっていること。
それでも長兄であるクインシーには、二人の弟妹の身を案ずる言葉すらなかった。恨みを晴らしたいというよりも興味を持ってはいないとでも言うかのように。彼にとって最も大切なのは、次世代リチウム蓄電池の方なのだ。
「彼ら、キースが試作品を持っていても宝の持ち腐れだ。誰に接触し、切り札を使えばよいか。必ずそれを探りに連絡を寄越すだろう」
「随分と自信がおありのようだが、具体的な根拠性が薄いのですね」
クインシーの表情は硬い。それはそうだろう。彼としては社内の己の立場もあれば、その特許権を主張する為には現物を手に入れる必要があるのだから。それが例え非合法で手に入れたものであったとしても。
「では、君から『ケイ・ハミルトン子爵』へ掛け合ってみるかい?止めはせんよ、クインシー君」
子爵という名称に、クインシーが僅かに反応する。この兄妹の確執は深い。それを仕向けたのは……。
「無駄は嫌いです。しかし一つだけどうしても教えていただけませんか」
クインシーの鋭い視線がエマーソンを捉える。彼は全く動じない。
「貴方は…貴方の最終的な目的は何ですか?」
初めてデリック・エマーソンの頬がほんの少しばかり緩む。君に話してもわからんだろう、と。
「父が亡くなったあと、同窓だったというつながりだけで私を援助してくださった。そのことにはもちろん感謝しております。しかし、それは追っ手から私を守るという曖昧な理由でフランスの教育を受けるよう指示され、その後もイヴェールへと入社するよう勧められた。断る道理もない。素直にイヴェールの技術者として勤務していた私の業務は、いつの間にか父と同じ『ハイブリッド・カーの開発』。そして、敵と教えられたAOKIから情報を得られるようなパイプを作ってくださったのも、貴方だ。その間、わざわざフランス軍に従事していたのはなぜですか?それも、私に何も知らせずに弟と接触していた。キースが外人部隊へ入れるよう手配したのは、貴方だと伺いました。恩義は忘れてはいません。しかし、私には今ひとつ、貴方が私の敵なのか味方なのか掴みかねるのです。私たち兄妹を争わせ、フランスへ情報を流し、貴方は何をしたいのか」
エマーソンの手にしたボトルが、光を受けてきらめく。彼はそれをそっと…チェスの駒のように動かした。
「……約束なのだよ。遠い遠い昔の」
「約束?」
いぶかしげに歪められるクインシーの瞳。
「君にだから、今の君だからこそ伝えておこう。おそらく意味も心情も理解できんだろうがな。私の見ている景色は、決して近視的な今日明日のことではない。黒いマントを羽織っていたあの若き頃から我々が見据えているのは、絶えずこの国の行く末…」
我々……?どういうこと、なのか。
クインシーにとってさえ遙か昔の父とエマーソンが過ごしたという、黒いマントと制服が印象的なパブリックスクール。
そう、私にも夢くらいはあったさ。父と同じ学舎に通い、イギリスという地で上流階級層として生きる。父と同じように研究を続け、いつかは彼をも超える。
コックニーの小汚い孤児でしかなかったはずの弟が、なぜそれをいとも簡単に叶えたのだ。エコール・サントラル・パリは確かにエリート校には違いないさ。それでも私が行きたかったのは、伝統ある名門…ハィロウズ・スクール。なぜ、なぜキースごときが潜り込めたのだ。
クインシーでさえ気づいてはいなかったのかも知れぬ。父を慕ってはいないと言い張る彼の深層心理には、父の人生をなぞりたかったという人知れぬ想いがあったことを。
それを片鱗だけでも叶えてしまった弟への、激しい嫉妬と憎悪。
「しゃべりが過ぎたな。君は本社に帰りたまえ。動きがあり次第連絡する」
「動く…でしょうか。弟は」
必ず、な。
エマーソンは、そう言いながら高層階からロンドン市街を感慨深げに見下ろした。
珍しく義父が家にいる。
クリスティアナは、いくぶん肩を落として応接室に座り込むその後ろ姿を見ていた。以前は会話をすることもなかったが、ここへ来て仕事を覚える為と称しての同行が増えた。
善治郎は単純に喜んだ。私は…ただブラックの力に少しでもなりたかったからなのに。
クリスティアナ・キャリック=アンダーソン。聞いたこともない名前にとまどう。私はただのクリス、クリスティアナ。今は青木の娘。それでいい。
「お父様」
そっと呼びかけると、憔悴しきった善治郎が顔を上げる。ずっとお忙しかったのですから、少し休まれては?と声を掛けると、無理に笑顔を作った。
「おまえは情のある優しい娘や。こんな形だけの父親に声を掛けてくれるんだからな」
思えば、父と真正面から向き合ったことなど殆どなかった。オルブライトの父の記憶も殆ど薄れてはいる。私はずっと、母だけをオフィリアだけを頼りに生きてきたのだ。
「このような時期に…伺って良いのかどうか。けれど私はAOKIという企業の力になりたいのです。いろいろ教えていただけませんか」
またえらく他人行儀な言い方やなあ。寂しげな善治郎の声。
彼の英語はブロークンも良いところで、文法的には移民者の方がずっとマシだ。しかし、伝えたい想いは誰よりもあるのだろう。その拙い英語力で、この伝統あるといえば聞こえのよい、ある意味閉鎖的な英国社会で生き抜いてきているのだ。
「なぜ、安全性よりコストを重視されるのですか?」
怒鳴り出すか、怒りで立ち去るか。どちらの反応も覚悟の上の質問だった。今なら訊けそうな気がしたから。
しかし善治郎は、予想に反して目をつぶりながら微笑んだのだった。
「誤解だで。わしゃ一度だって安全性を無視しようだなんぞ命令した覚えはない」
今度はクリスが目を見開いた。だってどのデータもが示すように、ギリギリまでコストを削減し、それはすぐに安全性にへと反映されているではないかと。
「わしはただ、安くて乗りやすい車を作りたかった。気取ってばかりで不便な車、それも一部の特権階級にしか手の届かんハイブリッド。ガソリン代が気に掛かるのは、彼らみたいなお抱え運転手のいる連中じゃないじゃろう。自分で運転して、自分でメンテナンスをする。そんな一般労働者の人たちが手軽に使える車にしたかった」
理念は素晴らしいと思いますわ、でも実際に被害が…。
「floraは安全な車だ。それはワシにだって自信はある。人が乗るものだ、一番に考えるのは当たり前だ」
ではなぜ?クリスの言葉を遮るかのように、善治郎は語り出した。
「今さら昔話も何だがな、クリス。日本でわしゃ、コンフィギュアのトップセールスマンだった。少々強引だという嫉妬を受けて、どうせならと『ご栄転』という名だけをつけられ、言葉も何一つ知らん田舎ものがイギリスに飛ばされた。嘲笑った連中の顔は今でも忘れてはおらん。絶対見返すまでは帰らない。営業所に行けばとにかく売れという。じゃあというので日本式のやり方をやろうとしても、全く通用せんかった。ショックでな」
この国は、いや日本以外の殆どの国には階級があった。階層があった。生まれながらという壁があって当たり前だった。ワシのように商業高校を出てがむしゃらに働き、曲がりなりにもイギリスくんだりまで来るような、そんな道は下層階級の人間にはあり得なかった。それが…哀しゅうてな。
こんなにも父は、語るべき言葉を持っていたのだ。誰が聞こうとしたのだろう、今まで。
「だから、働く人たちに安全で手軽な車に乗って欲しいと心底願った。ワシは日本でもここでも、真心で売ってきた。自分の懐になんぞ金など入らん。それでも相手が喜んでくれればそれでよかった。そういう人間が、安全性を無視してコスト重視などすると思うか」
でも現実は…強度のない車体に居住空間を広く取る為に省かれた安全装置。ぶつかって相手の車に傷一つなかろうが、floraは全損という事故も珍しくない。
すぐに壊れるのは修理代で稼ぎたいが為、そんな陰口も利かれた。
「そうやない。車は換えが利く。人の命は換えが利かん。車が壊れることで事故の衝撃を吸収して中の人間を守る。日本じゃ当たり前の考えだ」
クリスはだんだん無口になっていった。私はもしかしたら、義父に対して大きな認識違いをしていたのだろうか。
「安全面も妥協しない、低所得者層でも手が届く価格設定。そうなれば削れるのは製造にかかる費用…人件費だ」
けどなあ。父は大きく息を吐き出した。
「ワシが勘違いしとったのはここだ。日本では競わせれば競わせるほど、良いものを作ろうとする。他人から評価されることが何よりだからだ。工夫もする。結果、見栄えも性能もよく、安いものが作れる。だが、外国では違った」
他人の乗る車より、自分の家族との団らんが大事。来週に迫ったバカンスの計画を立てることに急がしい。人に金を掛けなければ良いものが作れない。だからと言って給料を上げようにも、優秀な人材はブルーカラーの仕事は絶対にしない。これは例外がない。
「もちろん、生まれながらに能力の高いブルーカラーもいるさ。けどな、これだけ教育にも扱いにもあからさまな区別と待遇をされ、滅私奉公で働けと言われて誰が働く?ワシにはそれがわからんかった。日本にいた家族というものは、すぐに壊れた。ワシが仕事だけに必死になっていたから、心など通い合わせる暇もなかった。じゃああきらめるのか。本当にハイブリッド・カーを必要としている層に、手の届かないような高級車ばかり見せつけて、それでいいのか」
過去を振り返る善治郎の、遠い目。
「子爵さんのおかあはんが巻き込まれたという事故な?あれだって誰にも信じてはもらえんかったが、あり得ない事故なんだよ」
労働者が働かないのなら、卓越した技術と日本企業との提携で乗り切ろう。善治郎は自らが忙しく動くことで、何とかfloraを軌道に乗せようと四苦八苦していた。
アクセルとブレーキの踏み間違い。それしか考えられぬ。善治郎の言い分は全面的に法的には受け入れられ、世間的には全く受け付けてはもらえなかった。
金に汚いダークな企業。そのイメージを受け付けられた。
クリスは椅子から降り、父の元へと跪いた。
「お父様、それをきちんと世間に訴えましょう。AOKIは何らやましいことなどしていないと。安全性には一番力を入れていると。そうでしょう?」
何らやましい…という単語に、善治郎の表情が一瞬固まったことに気づかないクリスではなかった。
軍への関与、コンフィギュアの買収。彼が取った行動は、決して褒められるべきものだけではない。
しかしその動機が、たとえ表面だけだとしても決して私利私欲ではないのならば、AOKIは変わる、変わることができる。
クリスティアナはそう信じた。
「I'M OK... YOU'RE OK。皆が幸せになれる道を探したい。ただの小娘の理想論かも知れないけれど、そのお手伝いをさせていただけませんか」
母は何を思って、親友夫妻を殺害したかも知れぬ男と再婚したのか。彼がキャリック=アンダーソン夫妻殺害事件に深く関わっているだろうともっぱらの噂であることは、AOKIに残り冷遇されている旧コンフィギュア派から、何度も聞かされた。この仕事に携わるようになってから。
それでも今の私は、青木の娘。だったら自分ができることをするしかない。
……ケイは、無事だったんだろうか。酷いけが。愛した人。そして…実の兄……
敢えて仕事に没頭することで、クリスティアナは重い重い事実から必死に目を逸らそうとしていた。
(つづく)
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