#79
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続いてケイが出向いたのは、ラザフォード夫妻のところだった。突然の訪問に驚き、謝罪の言葉を繰り返す彼らに、「建設的な話し合いをする為に来たのです」とにっこり微笑んで見せた。
「ハミルトン様、その…お怪我は」
見慣れぬサングラスが気になるのだろう。目元近くの傷が気に入らなくてね。あくまでもファッションであることをケイは強調した。
「遺族会!?裁判を起こすというのは本気だったのですか?」
「もちろんです」
反応は想定内、ケイは動じない。顔を見合わせる夫妻をじっと待つ。
「なぜ、なぜそれを始めに我々に?私どもの娘は加害者なのですよ?他の被害を被った方々が協力してくださるとも思えない。理不尽とはわかっているのですが、と前置きされてそれでもエレンを、娘を憎んでしまうと正直に仰られた方もいるほどです」
だからこそ、遺族会の代表はあなた方でなければ意味がない。静かにケイは諭すように言った。
「いいですか?AOKIの安全性に対する姿勢は、今でも根強い不信感を持たれ続けています。彼らはそれを業界や財界に対する献金、裏金といった不正な手段で封じ込めている。私たちのやるべきことは、まずAOKIの責任を問うことです。彼らが会社として正式に過失を認め、被害者らに十分な補償を行う。これが主であることには間違いない。けれど、もう一つ大切なことがあるでしょう?」
そこまで言うと、ケイはもう一度穏やかに視線を夫妻へと向けた。黒から淡いグレーにグラデーションを掛けたそのサングラス越しに。
「大切な、こと?」
「娘さんの、エレン・ラザフォード嬢の名誉回復です」
夫妻は言葉を失い、お互いを見つめ合った。
「彼女にすべての責任を押しつけたのは、あのときの捜査がおざなりだったのか、もしくは強力な圧が掛かったのか。どう考えても納得がいかない。それはご夫妻が一番よくご存じでは?」
ああそうだ。娘の引き起こした事故のせいで多くの犠牲者が出た。そのことに謝罪して廻りながらも、なぜ彼女がそんな大それた事故の当事者になれたのだろうか、不思議でならなかった。
それは何度も夫妻から聞かされていたこと。整備は常に行われていたし、あの日も取り立てて急いでいたわけではない。精神的にもプライベートでも安定した毎日であった。何より、通勤の足として毎日ごく当たり前に乗り続けていたのだ。
「でも、他のご遺族は納得しないでしょう」
寂しげにラザフォード夫人が呟く。疲れ切った横顔にその歳月を思う。
「説得は僕がします。僕の立てた仮説はこうです。<彼女の過失は全くなかった>。弁護団にもそれを強調します」
弁護団…。そこまでなぜ。夫妻は驚きのあまりケイから目が離せなくなった。
「あなた方にだからお話しします。ことはただの不幸な事故ではない。この裏には大きな力が動いている。信じようと信じまいと。だからこそ僕は、少なくとも表面上だけでもAOKIを糾弾し、裏で暗躍しようとする力を牽制したいのです。事故を利用して…と僕をなじりたければそうしてください。恨まれようが憎まれようが、僕はたとえ一人になってもこの裁判を続けます」
ハミルトン様…。とうとう何も言えずそう呟くばかり。
ケイはケイで、本人的にはかなりあざとい計算をしていた。人知れず。胸の内だけで。
…パークスの所属する法律事務所は大手だ。民事で負けることなど想定してもいないだろう。必然的に彼らは、上っ面だけだとしても徹底的に調査を入れるはず。AOKIの管理体制に安全に対する対応策。当時どこまでそれが機能していたか、重箱の隅をつつくような調査をしてくれる。おれがやらなくともな。まあ、ウィリーは嫌がるだろうが…
あの日の彼の表情を思い浮かべる。何とか逃れようと必死のウィリーに、ケイは薄笑いを浮かべてとどめを刺したからだ。
「大麻所持も時効でしょうし、何より未成年のちょっとしたいたずらだ。法的には訴えるつもりもありませんからご安心を。ただ、僕は事実を知っている。それだけです。口外はしません。ただし…」
パークスの引きつりまくった顔。今思い出すだけで笑いがこみ上げる。
「品行方正で弁護士としても有能な次期伯爵後継者候補が、実際には同性愛者のサディストという風評が立ったら…どうでしょうねえ」
「それで僕を脅せば、君は立派な脅迫罪だ」
わなわなと震える拳に、ケイはさわやかな笑顔を向けた。
「なぜですか?人の口に戸は立てられませんよ。僕が言って廻った証拠も立証することは難しいでしょうし、何より事実を知る者は僕だけではない。みんな我が身が可愛いもんです。特に、守るべきものを持つ人ほどね」
パークスは承諾せざるを得なかった。それどころか頼れる先輩として、面倒見のよい元プリフェクトの外面を、今の職場でも被らなければならなくなった。お気の毒にね。
わかってる。これとそれとは別の問題だ。ハミルトン子爵の称号はきちんと返すさ。事がすべて終わったらな。
その前に、あの頃は子ども過ぎて何もわからなかった事故の詳細を、まずは掴むことが先決だ。非合法ではリスクが高すぎる。自分でやるには力不足。餅は餅屋に任せるのが一番だろう。ウィリアムズ・パークス弁護士にな。
さあて、やるべきことは山積みだ。
ケイは夫妻に声を掛けると、動き出そうと立ち上がった。不意に強い目眩。思わずテーブルに手をつく。
「ハミルトン様!」
しくじった。全く遠近感がつかめない。急に方向を変えようとしたのがマズかったらしい。そのうち、左眼と脳の間に連絡回路が形成され、もっと楽に生活できるとは説明されていた。そのうちっていつのことだ?早くしてくれ!おれには、おれたちには時間がないというのに!!
まぶたを閉じる際に感じる痛みをこらえる。筋肉が自分の思い通りに動かない、たったこれだけのことが強いストレスになるなんて。
しばらくゆっくりと深呼吸し、ケイは最後に胸の奥深くから大きくため息をついた。
「しっかし、待つのには慣れてるつもりだったけど…タフねえあんた」
ビルの一角でカメラを構える耀司の横で、まさかタバコを吸うわけにも携帯をいじるわけに行かぬアニーは、呆れ顔で彼を見た。
「飽きたんなら帰れ。てかさ、風景カメラマンが待つのは、釣りしてるのと変わらないくらい当たり前だろうが」
耀司の瞳はレンズから離れない。常にベストなアングルを探して待ち続ける。
「何でまた、景色なんか撮って楽しいのかしらねえ」
陽射しが暑い。手でぱたぱたと仰ぎながらアニーが嘆く。
「決まってるだろ?風景には感情がない。建物にも自然にも、だ」
珍しく真剣な声で耀司が答える。建物には作った人の怨念がこもってそうだけど?減らず口を叩くのはアニーの悪い癖だ。
「はん、できあがっちまえばただのコンクリの塊だ。それに付加情報をつけるのは現像されたフォトを見る側」
「それって、見る人の心が映し出されちゃうってこと?」
興味ありげに身を乗り出す。好奇心だけは誰よりも負けぬ。耀司はふうと息を吐くと、ようやくいったん目を機材から離した。
「見るヤツは見たいように見る。同じ雲の写真だって、何かに見立てなければ気の済まない連中なんてごまんといる。俺はただ、そのものが美しいと思っているだけだというのにな」
それは、あんたが本質を見抜けるから…。聞こえるかわからぬほどの小さい声でアニーが呟く。本人にとっても照れくさいほどの気取った言葉に思えたのだろう。
「それにまあ、どうでもいいっちゃいいんだが…風景写真には余分なものも映り込むんでね。勝手に向こうからさ」
無言でアニーが耀司を見返す。ニヤリと笑う彼は、例えばパリにいるはずだのにロンドンのSIS辺りをうろつくクインシー・キャリック=アンダーソンとかね、と付け加えた。
「どれ!!見せなさいよ!?」
「きったねえ手で触んなよ!!てかさ、なんでまた俺とあんたでバディを組まなきゃならねえんだよ!?」
さあ、どっかのおまわりさんの陰謀じゃないの?アニーはうそぶく。
「どうせ、あんたがそそのかしたんだろうが。何で構うんだ?俺たちを恨んでるんじゃなかったのか?」
「語るに落ちる。アーネスト様狙撃の自供をしよっての?」
アニーの軽い声に、はん、と小さく笑う。
「俺たちに対する同情か?だったら放っておいて欲しいね」
ほんの少し含めた棘は、アニーの意外と言っては失礼なほどの聡明な瞳で跳ね返される。
「アタシたちは真実を知りたい。ただのAOKIの事故だったはずなのに、そこに張り付いてくる人間どもの多いこと多いこと。バディ(二人組)では済まなそうよ」
大仰にため息をついてみせる。アニーは黙って親指を後ろに向けた。思わず振り返る耀司の視界に入ったのは…。
「ハーイ。アンシャンテ-Enchanté-初めまして、ではないわね」
そこに姿を現したのは、モノトーンの大ぶりな花柄を散らしたミニワンピースに身を包んだ女性。
「ああ、何だっけ。どっかの女スパイか」
「DGSE(フランス対外治安総局)ミュリエル・ラファージュ。お見知りおきを、新進フォトアーティストとして名高いムッシュウ・ヨウジ・ヤマシタ」
年下には興味ないんだけど。被写体としても魅力があるとは言えねえし。言い放つ耀司にアニーは小さく手を叩く。
「年下?レジィヨン・エトランジェール入隊時の記録によれば、アタクシより貴方の方がガキだと思うけれど?」
外人部隊の名を不意に出され、ぎょっとした目で耀司が彼女を睨む。ガキだと?
「今年で三十二になると、ダリルには伝えておいたのに。もう彼ったら」
その言葉にあっけにとられるアニーと耀司に向かって、真っ赤なルージュでミミは微笑んだ。
(つづく)
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